アズール
「やめる」
「は?!」
念願叶ってようやく辿り着いた式の日、目も奪われるような白のウェディングドレスに身を包んだ彼女。海辺に浮かぶチャペル代わりの小さな小島の上で、いよいよ生涯添い遂げることを誓うと言葉を告げる直前になって、はらはらと涙を零し始めた彼女に素っ頓狂な声をあげたのは僕で、海の中、二人きりの参列席でばかに長い尾ひれで波間を揺らしながら爆笑したのはにっくきウツボの幼馴染みたちである。
「やめます、わたし、先輩と結婚するの、やめる」
「なにを突然、一体誰に、なにを吹き込まれたんですか!」
言いながら横目でじろりと双子の兄弟を見つめれば、おおこわい、などと揃って白々しく身を竦めてみせる。フロイドに至っては鼻先を水面につけて、ぶくぶく『あぶく』を立て煽ってくるものだから、僕は何回タキシードの懐にしまったペンに手を伸ばそうかと思ったかしれない。ぎりぎりのところで理性がそうさせないのは、一重に目の前で泣き腫らす彼女が痛ましくも愛おしく、そして何よりここまできて手の届かないところへ行かせてなるものかという、恋をした男のいっそ哀れなほどの必死さゆえだった。
「だって、ジェイド先輩たちから聞いたんです。本来人魚は、300年を生きるんだって。それが、人間と一生涯を添い遂げるなんて誓いをしたら、人間と同じ寿命になってしまう」
これを聞いたフロイドはますます笑い出したので、「それは違う」この日のために誂えさせた繊細なレースの衣装に飾られた細い肩を掴みながら、僕はとうとう取り出したペン先から魔法で生み出した小さな氷塊をウツボの額にヒットさせた。今度こそ睨みつけたウツボの片割れは、「聞かれたことには答えなければ、と。彼女はあなたのことを心配していたのですよ」いけしゃあしゃあと微笑んでいるではないか。
猛烈に異議申し立てたい衝動を飲み込んで、はらはらと泣き続ける彼女に向き合う。約束の日のためにと整えた肌は滑らかで、浮き出た鎖骨のあたりに涙の粒が落ちるたび、きらきら光ってすら見える。可愛い、綺麗だ、そんな気持ちを渾身の理性でみぞおちの底の底まで押さえつけると、頬を伝う細い清流のような涙を指の腹で拭いながら、ジェイドの言葉がいかに意味のないものか言葉を連ねるが、それでも彼女は静かに首を横に振るばかりだ。こういう時、商談の席ではいかにめっぽう強い口先だろうと、恋した相手の心をつなぎ止めることさえ出来ないのならばいったい何の意味があるのか、ほとほと困って項垂れるような心地になる。彼女に出会ってからというものの、僕はいつでも振り回されっぱなしで、全ての出来事は計算通りに運ばず、綿密に完璧に作り上げたアズール・アーシェングロットという男はいつだって形無しになってしまう。
「つまりですね、あなたはこの結婚によって僕の寿命が縮まるかのように考えているようですが、そうではない。確かに、僕はほかの人魚たちと同じようには生きられない。でもそれは、あなたに恋をした時からだ。人魚が人間を愛するというのは、そういうことなんです」
きょとん、と一瞬呆気にとられて、「そうなんですか」とまんまるな瞳で問いかけてくる彼女におもわず「そうですよ!」と食い気味に返してしまう。それにこれは知らなかったようですが、と横目でジェイドを睨みながら続ければ、目線の先の幼馴染みは面白そうにニコニコと笑ったままだ。あてつけのように巨大なため息をつきたいのをなんとか堪えて、慎重に、間違えないように、彼女へ向けて言葉を続けた。
「人間は魂というものを信じているでしょう。去った人を悼み、時として吹きすさぶ風や草花が、天国に行ったその人の生まれ変わりかもしれない、と思いを馳せる。僕はあなたが、そうやって目にした風景を愛していた姿が好きですよ。だけど、人魚のこの身では、ほんとうの意味で理解することなど出来ない。人魚には、魂が無いからです」
「………初めて知りました」
「そうでしょう。僕らはそれを、悲しいだとか、虚しいだとか、誰ひとり思ってはいませんからね。300年生きて、命尽きた時には泡になって海を漂う。後はずっと、その繰り返し。人魚は天国に行けないんです。だからこそ生ある時間を楽しみ尽くそうとする。だけど、」
一瞬、覚悟を決めるように言葉を止めた。結婚の申し出の時さえ、ここまで緊張しなかったとさえ思う。目の前でぼくを真っ直ぐ見据える彼女の瞳は、表面が涙でベールのように覆われて、海中で見たどんな珊瑚よりも、陽の光を受けて光るどんな水面よりも、美しく輝いていた。
「だけど、あなたを好きになって、ぼくは知りたくなったんです。あなたの目に、風景はどのように見えているのか。あなたと同じものを見たい。あなたの感じているものを感じたい。そのためなら、残り200年の命など、最初から惜しくは無い」
とうとうボロボロと溢れ始めた大粒の涙たちを、苦笑しながら見つめる。「僕を、人間にしてくれますか」何度も何度も、繰り返し頷いた彼女を腕の中に招く。やがて、どこにいるとも知れぬ神へ、僕たちは拙い言葉で誓いを立て始めた。
↓うーーーーーーんこれはカット 思ってたよりコメディ味になったきがする
「ものは言いよう、って感じだよねー」
波乱まみれの式の帰り、海の中で長い尾ひれをじゃれつかせながら、フロイドは同じ顔の兄弟に言った。
「おれらの寿命が減っちゃうのってー、人間と誓いを立てて、その人から魂を分けてもらったときじゃん。今日でほんとにアズールの寿命が減ったって分かったら、小エビちゃん、また泣いちゃうんじゃない?」
「アズールのことですから。どうなろうと彼女を手放す気なんてないなら、最初から命を手放しているのも同じ、ということでは?ああ見えて泥臭いところがありますから
」
まあ、いいじゃないですか。二人とも、ほんとうに幸せそうに笑ってたんですから。