近くに雷が落ちた。西向きの窓は、角度のついた豪雨をもう映しきれていない。ただでさえベランダに吹き込み窓を叩く雨粒をびっしり貼りつかせている、その上、かろうじて見える景色は真っ白に煙っている。日の落ちる前だというのに、空も鈍色に厚い雲が光を受け付けていない。
 早乙女が顔を上げたときも、ちょうどそんな、水浸しの窓だけが見えていた。と、見ている間に鋭い稲光が走り、間もなく轟音がとどろいた。時間から距離を測るまでもなく、近い。
 対して笹塚は、テーブルいっぱいに広げた図面から目を逸らそうとはしなかった。それどころか、窓に向けた背をぴくりともさせない。耳を劈くはずの音も意識に上らせないていないし、目の前にある紙束と図面を比べることにしか思考を割いていない。
 床に追いやられた早乙女は、テーブルと椅子を占領して何やら真剣な顔をしている笹塚に呆れた。危機感とか無いのか? 脳裏に浮かんだ問いを、しかし、すぐに打ち消す。笹塚は一旦検討した上で、意識を割くほどの事態ではないと判断して、その結果として微動だにしないだけだ。短い付き合いだが、そういうところをよく分かっているので、早乙女は無益な問いをしない。
 手元の文庫本、その開いていたページに買った時のレシートをはさみ、閉じた。視線を戻す気になれなかったのは、もちろん雷雨のやかましさのせいではない。無益にかかずらうのは好まないが、笹塚のわざとらしい鈍感さが気になった。無意味なものは嫌いじゃない。
 申し訳程度に敷いていたクッションをぐっと潰す反動で立ち上がり、笹塚の手元を覗き込む。書き込みが入った、どこかの建物の図面のようだった。近づいてみれば、机に広げてある図面も書き込みが入っていないだけで同じものだと知れる。
「随分熱心だこと」
 笹塚は黙っている。黙ったまま、クリップで留められた紙束をめくった。二種類見ると、点と点は方向と距離を持って繋がり、線となる。早乙女は、それが職場の最寄り駅に程近い百貨店であることに気づいた。そして、場所が具体的になったことで仮説が生まれ、わずかな情報でそれは証明される。近日開催されるイベントの警備配置図だということにも、早乙女は気付いた。
「……それ、なんでここで広げてるんだ、お前」
 苦虫をかみつぶしたような顔で早乙女は訊く。ここに到って笹塚がようやく顔を上げた。睡眠が明らかに足りていない、どんよりとした目を早乙女に向け、聞かせるための溜息をひとつ吐く。
「意味なくなったから」
「ご愁傷様」
「全くだ」
「納得いってない?」
「見れば見るほど、却下されて当然」
「……睡眠不足は良くないだろうな」
「痛感した。寝る」
「眠れるのか?」
「多分」
 勝手知ったる他人の家、笹塚は上着を早乙女のハンガーにかけ、靴下を脱いで洗濯機に放り込み、早乙女の寝室に足を向けた。ベルトを外して、無雑作に床へ落とした。
 早乙女の方はといえば、ようやく空いた椅子に腰かけて、文庫本を開いて読みさした行に目をやっている。暖簾に腕押しはいつものことで、「まあいいか」と思っていた。熱帯魚や観葉植物にするような接し方がちょうどいいことに気づいているので。ただ、見た目の鮮やかさに欠ける。そんな風に、月に一度くらいのペースで考えることもあるが。
「そういえば、今日誕生日」
 出し抜けに笹塚が言った。言って、寝室の扉を閉めた。
 早乙女は物言わぬ扉を見て、立ち上がり、ドアノブを掴む。黙って暗い寝室に入った。こちらはきちんとカーテンが引かれている。今朝、家を出る前に開けなかった厚い遮光カーテンは、雨音もいくらか遮っているらしかった。
「誰の誕生日?」
 早乙女は、ベッドの上に丸まっている無彩色のかたまりに尋ねた。どうせまだ寝入ってはいないだろうと思っている。
「俺の誕生日」
 ききはじめた冷房の風を受け、薄い布団を耳の横まで引っ張り上げた笹塚が答えた。その声がフローリングに落ちて消えると、他の音が早乙女の耳にはよく聞こえる。遠い雨音と低い雷鳴。エアコンの稼働音。細い呼吸、寝息のような。
「生憎の天気だけど」
 早乙女が呟き、リビングに引き返そうとする。
 と、予想外に、輪郭のはっきりした声が発せられた。早乙女の背を撫でる。
「雨は好きだから、むしろ良い」
「……あ、そう」
「おやすみ。終電で帰る」
 それまでに起こせ。そういう含みを持たせ、笹塚は意識を眠りの淵へすべらせた。暗がりの中で薄淡い色にまとまっている、或いは、明るさの下では暗いままの男を、その寝姿を、早乙女は一瞥して扉を閉めた。モノクロであることに変わりはない、ないのだけれど、鈍く発光するところを見たような気になっている。その光のなかに、早乙女は形容できない色づきを見た気がしてしまった。居心地が悪い。けれど、それを受け入れてもいる。
 雨音は再び強さを取り戻し、早乙女ひとりのリビングにまた稲光を突き刺した。
(了)
カット
Latest / 63:13
カットモードOFF