、「君は自分に厳しすぎるのだ、あまりにも」
寝台の傍の椅子に陣取って、ここから絶対に動かぬだと言わんばかりの据わった目がこちらに向けられている。元々が意志の強い瞳の持ち主である。絶対に揺らがせぬと本人が強く決意しているのならば、他人から見て身の竦む思いがするほどではあるのだろう。
自分に限っては、決してそのようなことにはならないが。
「…………」
「君が無言を貫くのは、分が悪いと認めているときだな」
なにせ、頭のよすぎる君は、多少の利さえされば弁舌で覆してしまうことも可能だ。それもできぬとわかっているから黙るのだろう。
「目を逸らすのはやめたまえ」
「……」
「何か言ったらどうかね」
「…………」
「ヒューベルト」
失態を犯した、とは思っている。
また、人前で倒れるなどという醜態をさらしたのだ。適度な休息は入れているつもりではあったのだが、またしてのこの体を拾う羽目になったリンハルト曰く、テフ飲んで仮眠二十分の数回だけが一日の睡眠全部とかそんなの休んだうちにも入らないよ感覚壊れてるんじゃない馬鹿なんじゃないのいい加減にしてくれない、とのことだ。
字面は酷いが、一応案じられていることが伝わってくる声音ではあったので、特に不快さはない。彼の言葉がどうかということよりも、さらしてしまった醜態がリンハルトだけには留まらず、己の周囲の人間に伝わってしまうことの方が重大事であった。
いい加減にしなさい!! という主の怒号をご丁寧に再現してみせてから、かつての担任教師としてしての小言をやんわりと添えてきたのはベレスであったし、愚かな従者を目の前にすると怒りを抑えられる自信がないとベレスに伝言と説教を任せたというのに、結局は医務室まで顔を出し、横になっている体をさらに叱りつけていったのは主であったし。近しい人間からの小言は既に十分に受けて、もっとも近しい人間はと言えば、任務でしばらく帝都を空けている。これ以上自分を叱りつけるなりなんなりする頭数としては数えていなかったのだが、時機の悪いことに、早くに任務を片付けられたのだと早々に帰還した、己にとってもっとも近しい相手の知るところとなってしまった。
倒れるなら、せめて私の前にしてくれないか。
そのようなことを、かつて言われたと思い出していた。私の預かり知らぬところで君が意識を失って倒れ伏すなど、私には耐えられない。では、貴殿の目の前でなら構わぬのですか。構わないことはないが、必ず受け止めてみせよう。決して構わぬわけではないのだが。
力強く頷くひとの腕の力強さは、自分にはよく知ったものだ。抱きしめられるとき、寝台やソファの上に押し倒されるとき。……閨での営みとして抱かれるとき。その逞しい腕に捕らえられ、翻弄されている。閨での彼に逆らうようなつもりはそもそもないのだが、いついかなるときも紳士であろうとする腕がふいに欲に負けて力を込める、逃すまいと拘束してくるのを実感するのを好ましいと思っていた。誰より強く発揮される彼の真摯が、己の何かによって剥ぎ取られるのを感じるのは、えもいわれぬ快感を呼んだ。その腕に抱き留められるのは悪くはない。が、彼はここにはおらぬのだ。もしも聞きつければきっと叱られるであろうし、悲しい顔もされるかもしない。しかし、彼はいまだ遠い地にある。これまでの経験から丸一日も眠っていれば回復することはわかっているのだから、さっさと回復させてしまえばいいだけの話だ、と高をくくっていた。しかし、当初の想定よりも随分早くに帰城した彼は、真っ先に主の元に向かい、任務の完了の報告をするのと引き換えに、自室に押し込められた執務の加減も分からぬ情けない男についての情報を得た、というわけだ。かくして、冒頭のような状態になっているのだが。
「君を情けないとは思わないが、己に対する情けはもっと持ってくれてもいいのではないかとは思っているよ」
深い溜め息には呆れの色も混じってはいるが、案じる色の方が割合が大きいと感じられる。こういう顔をされると、自分は弱い自覚がある。
「……ご心配をおかけしました」
謝罪を絞り出し、ちらりと見やる。
「多少なりともそう思ってくれているならば、いい加減に休息は必ず取らねばならぬものだということを理解してくれ」
「…………善処、いたしましょう」
「君の私事に関する善処とやらは全くあてにならない」
「信用のないことで」
「笑いごとではないぞ」
君の中の重要度で秤にかけて執務の方が僅かでも大きく傾くのであれば、君はその善処など決してせぬではないか。君はどうしてそう自分を労わらないのか。私の宝である君を、私はもっと大切に扱ってほしいと思っているのだが。その分私が大切にすべきであるとはわかっているが、私のいないところで倒れられては手も差し伸べられぬではないか。
嘆きの深い彼の様を見ているのは、正直飽きない。主以外の他人のためになど心の一つも動かしたことのなかった自分には、彼の多彩に揺り動く心のうちというものは、まったくの未知で新鮮なものだった。人は、他人のためにここまで心を動かすことができるのか、と。
「それは、君が他人ではないからだが」
「……」
「恋仲の相手をつかまえて他人とは呼ばぬだろう」
なんのてらいもなくずいと覗き込んでくる顔からは、つい僅かに視線を逸らしてしまった。
「ヒューベルト」
「……なんです」
「私は、君を甘やかしたい」
「は、」
「君から甘えられたいとも思っている」
「……は、あ」
「無理をする前に私のところに来てもらえれば、どろどろになるまで君を甘やかしてみせよう」
それは、正直にいえば、
「ご遠慮申し上げたいところ、ですが」
「何故だ!」
「理性と思考が用をなさなくなります故」
「むしろ、それが目的だが」
君を倒れさせる行き過ぎた思考力など奪ってしまえ、とはさすがに暴論だ。宮内卿としての自分が全くの機能不全に陥れば、宮城全体にも関わる様々が滞る。
「君が倒れても、それは同じだな」
それは、そう なのだが。
覗き込んでいた体が、さらにこちらへと寄せられた。体を跨ぐように手が突かれ、覆い被さるような体勢が閨での行為を思い出させて、どきりと胸が鳴ってしまった。フェルディナントの顔が近い。とても。
「決めたぞ」
「……何を、ですかな」
「今から、君をどろどろに甘やかす」
「……は?」
「覚悟したまえ。執務のことなどひとかけらも考えられぬようにしてやろう」
「お待ちを、フェルディ、な、あっ⁉」
後悔するといい、と首筋に口付けて間近で笑うフェルディナントは、しかし、目だけは完全に笑っていない。
「倒れるよりも適度な休息をとった方がどれだけましかと思うほど、君を溶かしてみせよう」
ひ、と喉の奥が引きつった。この目はどう見ても閨での本能を露わにしたときの彼のそれで、自分はそういう彼の本能にさらされるのを好んではいたが、疲労を溜め込んだ今の体には強すぎる毒でしかない。
ふ、と耳の中に熱い息を吹き込まれて、常よりも低い声が流し込まれた。
「覚悟はできたかい、ヒューベルト」
できているわけがない。しかし、そう答える声は、深く合わされた彼の口の中に、全て飲み込まれて消えていくのだった。