フェルディナントの機嫌が頗るよい。そもそも明朗快活な人柄である彼は、基本的に機嫌よく見えることが多いのだが、整った顔面がふにゃりと崩れるほどに相好を崩しているのは、普段はそうみられるものではない。凛々しく毅然とした慈悲の宰相。民も世間も、宮城の中に仕える人間でさえ、そういった面が彼の本質であると思っているだろう。
いや、本質には違いないか。彼はまさしく「慈悲の宰相」に相応しい品性と信念とを持ち合わせている。民からの慕われようも、部下からの信頼の集め方も、他に比類するもののない在り方だ。君だって、君の部下からは私が嫉妬をするほど好かれているではないか、と口を尖らせた彼の言葉を思い出した。
以前にも似たような場面があり、からかい交じりにそんな言葉を乗せると照れるだとか謙遜するだとかではなく、何故だか口を尖らせて嫉妬を伝えてきた。自分が部下と信頼関係のようなものを築いているのはまあ、確かに真実ではあるが、彼が拗ねるような種類のものではない。そもそも自分や部下たちが扱う仕事の内容からして秘匿性が高く、情報の共有も密になる。確実な連携も必要だ。そこにお互いの能力や行動に対する信頼がなければ任務の遂行は叶わない。
嫉妬をするのですか、貴殿が。不思議な思いで尋ねると、するに決まっているだろう、と、いやに力強い言葉が返ってきた。この世で最も愛しいひとのことだ。些細なことにも気を揉むものだろう、君を信じていることとこれは全くの別問題であり、私が君を愛しているかぎりはどうしようもない精神作用なのだから受け入れてくれ。
はあ、と呆気にとられて答えるだけに留めてしまった。容色才能すべてにおいて優れている彼に対して憧れだの好意だのを持つものはあまりに数が多いと思われる。周囲から向けられて当然と思われるそれに対する嫉妬などというものを自分はもつことはついぞなかったが、周囲から忌み嫌われているであろう自分の方に、彼のそのような感情が向いているとは。全く物好きな男だ。
その物好きな男が今日は頗る機嫌がよいのだから、あのときのようなからかいは胸の内に留めておくべきか。
さて。そのフェルディナントがどうして美しい顔面を崩すほどに機嫌がよくなっているのかと言えば、要因は目の前のテーブルに鎮座している。琥珀色の液体の揺蕩うグラスが、二つ。自分のそれと、彼のそれ。自分のものは二杯目を飲み干した後で、すでに三回目に注がれたものだ。が、彼の方は初めの一杯を半分ほど減らしただけである。ペトラが帝国を訪れた際に手土産に持ってきたものだった。異国の酒というのは普段から口にするものではないためか、体に馴染みがなく酔いやすい。酒精に強い自分にはさほどの度数とも感じられぬのだが、弱いフェルディナントにはどうやら強すぎるものだったらしい。もう既にふにゃふにゃと口を歪めて、普段はぴんと伸びた背筋もぐにゃりと丸められている。
酔うと機嫌がよくなる。貴族の社交としての酒の席ではこうなることは滅多になく、理性でなんとか押し留めているし実際にはあまり飲まぬようにしているのだ、と言っていた。産まれ落ちた瞬間から高位の貴族の所属であったのだから、そういった席での作法も身に着けているのだろう。が、自分と二人の席になると、いつも途端にこれだ。理性はどこにいった、と言いたくなる。
「ヒューベルト」
「なんですかな」
「ヒューベルト」
「……はい」
「ヒューベルト」
飽きずに応えてやっているが、ただ名前を呼ぶことと返事を返されること自体が目的である、とでも言わんばかりに名を連呼されるのを繰り返されれば多少は呆れもする。凛々しく雄々しく、毅然とした宰相殿の、気を抜いた姿がこれだと言われれば、彼に憧れをもつ者たちはどう思うのか。呆れるのか、幻滅するのか、それとも、これも魅力だとより惹かれてしまうのか。
ぴり、と胸の内に何かが引っ掛かったような感触があった。
それは、嫌だ、と。
己のみが知る姿を、余人に知られることも。これ以上、彼が誰かの目を惹いてしまうことも。別に彼は自分の所有物というわけでもない。持ち物でもないものに、他人がどういった感情を向けようが個人の自由であるし、自分の関与するところではないはずだ。そもそもすべてを主のものであると宣言した上でフェルディナントと共にいる自分に、都合のよい主張をする権利などない。
だが、それでも。
それは嫌だ、と思ってしまった。
「ヒューベルト」
酒のために熱を帯びた手のひらが伸びてきた。グラスの足に指をかけたままだった手を剥ぎ取られる。両の手に包まれて、指を撫でられる。
「どこを見ているのだ」
「……?」
じっとこちらを見つめてくるフェルディナントの瞳には、かつて、部下との信頼関係を嫉妬したなどと告げてきたときと同じような拗ねたような色が乗せられている。
「私と過ごすときには、私のことを見てほしい」
君の気もそぞろな様子は、私の嫉妬心を刺激してしまうのだから。
私のこと「だけ」と言わぬのが、彼なりの自制なのだろうか。主にしか所有権はないとわかっているから、その余地は残して。
くく、と笑い声が漏れた。フェルディナントは目を瞬いている。
見ている。目の前の男のことを。今は、目の前の男のことばかり。嫉妬などという感情をもつこともないと思っていた心の内に、独占欲のようなものを思い浮かべてしまう程度には。
「見ておりますとも」
握られた指をするりと抜き取って、名残惜し気にそれを追いかける視線を惹き付けるように彼の手のひらを包み返した。揃いの指輪の嵌められた薬指を、指の腹でそっと撫でる。ふとした瞬間に、閨で彼が自分にしてくる所作だった。それを真似て。
「考えておりますとも、貴殿のことばかり」
酒のためか、反応が一瞬鈍い。しかし、こちらの投げかけた言葉を耳に入れて咀嚼して、やっと脳まで届いたのか、フェルディナントの顔が綻び始める。これ以上などないというほどの幸福に満ちた顔になる。凛々しさではなく、いっそ可愛らしいとでも表現するのが相応しいほどに無邪気な顔。
ああ、やはりこの顔は、自分だけのものにしておきたい。これから先も、他の誰にも向けさせることなどなく、自分一人だけのものに。主以外の存在に執着することなどありえないと思っていた過去の自分が聞いたならば、いったい何と感想を漏らしたものか。呆れるだろうか、何を余所事などにうつつを抜かしているのだと悪態でも吐かれ、舌打ちをされるだろうか。
けれど、こういう時間も悪くない、と思う自分は、今確かにここにある。外ならぬ、自分を変えてしまった愛しい男のそばに。これからも離れることはないだろうと確信できるだけの友情と愛情と信頼と、すべてを与えられながら。
「ヒューベルト」
嬉し気に名を呼ぶ男がどうすればいちばん喜ぶのか、今の自分は知っている。だから、己の内にも存在した嫉妬心を抑えて満たすために、自分は彼の心を捕まえて離さぬようにするために躊躇いはない。
「フェルディナント殿」
名を呼べば、それだけで愛しい男は笑みを深くする。指を絡めれば、同じだけの愛しさを込めて絡め返してくる。顔を寄せれば片頬は柔らかく包まれて、重ねた唇から愛を紡げば、それ以上の愛の塊を贈られる。
悪くない。微笑みながら、絡められる舌先に応えるのだった。