2020-07-12_ワンドロヴァレリー
はい、兄さん。
「ヴァレリー。」
パブロが声をかければ、嬉しげに尻尾を揺らしながらついてくる。どこか気弱で控えめな弟のことが、ずっとパブロは心配だった。
若い雄猫二匹は女王に許可を貰い、ゾーンを渡り歩いていた。定住を考えることもあったが、パブロはまだ若い自分達は見聞を広めるべきだと考えていた。パブロ達のようにまだ若い世界を見て回ることは、多くの経験を彼らにもたらした。
「立派な建物が立とうとしているな。」
「そうだね……この街のほとんどがこの建物だけでいっぱいになるんじゃないかな。」
目一杯見上げても壁しか見えない巨大な建物が、ゾーン2の中心に建ちつつあった。まだ周りの建物も隙間が多く、見晴らしも良かった。大きな建物が占める大きた土地と、囲むような水路、そのすぐ対岸にやや小さな島が見えた。
「あちらにも……いずれ何かが建てられるのかな。」
「ふむ。どうだろうな。先に橋なり、渡る手段が必要だろうね。」
「ああ、そうだね。」
二匹で寄り添って話し、人通りもまだ少ない、背の高い建物の中を通り抜けた。
いつもプラスチックの雨が降っている土地で、顔見知りの商人に声をかけられた。
「よう友よ! 兄弟揃ってお散歩かね?」
「やあ、友よ。散策というには広く旅を続けているが、君の歩幅でなら散歩の範疇なのかな。」
「こんにちは、ザッカリーさん。」
鉱山の手前の軒下で仮面の商人が肩を竦めた。
「イヤミを言ったつもりはないさ。アンタ達、今もあちこちを旅して回ってるのか。」
「そうだね。時には君のような者にも会える。」
こうしてパブロが誰かと話す時、弟は穏やかに見守るだけで会話に混じろうとしないことが多かった。
「何か面白いものは見かけたかい?」
気付いたザッカリーがヴァレリーへ声をかけ、「そうですね。」とヴァレリーが耳を揺らした。
「ゾーン2で大きな建物が建っている途中でした。ザッカリーさんにはそんなに大きく見えないかもしれませんけど……前はただ広いだけだった平たい場所が、一気に暗くなっていて。圧巻でしたよ。」
もう一度、見に行きたいな。
パブロは珍しい弟の呟きに、おや、と彼を見遣った。自分のしたいことを口に出すことがあまりないヴァレリー。
「へえ! そいつは気になるな。今度オレもソッチに行ってみるよ。あそこは土地だけ余ってたっぽいからねえ、オレも一つやりたいことがあるんだよな。」
「ええ。前をご存知ならびっくりするでしょうね。」
楽しげに話す弟と友人にパブロは胸の内を温かくした。大人しいヴァレリーの自主性が育まれることは喜ばしいことだ。いずれひとりだちさせるためにも。
「このゾーンも少しずつ人口や建物が増えているようだね。見たかい? 集落の端に鉄の棒が二本、海に向かって走っていた。」
「ああ、線路が引かれてるな。便利になるぜ。」
仮面が言った方へ向き、猫達も頭を上げてそちらを見た。
「列車が開通するのはまだ先だろうけどね。アンタ達、ヘンに線路……あー、あの二本の鉄の棒の間を歩いておっかないのに轢かれたりしないようにしろよ?」
「我々がそんな間抜けを晒すと思うのかね。」
「たとえばだって、たとえば。」
ハハハ、と仮面の商人が笑った。
じゃあな、と軽やかに男が手をあげ立ち去ったあと。見送っていたヴァレリーがぽつりと口を開いた。
「ザッカリーさんとはあちこちで会うよね。彼は……一匹なのかな。」
言われて、パブロは仮面の男がいつも単独で動き回っていたことに気がついた。
「そう……だな、そこらにいる四角い頭の者達とは、彼は別の生き物のようだが……」
考えたこともなかったが、あの奇妙な仮面は四角い頭の者達に紛れるための擬態なのだろうか。パブロが首を傾げる一方で、ヴァレリーは違う疑問に囚われていた。
「寂しくはないのかな。」
その小さな声が、はっ、とパブロの胸をついた。
パブロは弟のこういった思慮深さ、優しさを尊いものだと思っている。
「……寂しがっているというには、いつも奔放で気楽なようにしか見えないけれどね。もし寂しい思いをしているのなら、我々がその間隙を埋めれば良いさ。」
ヴァレリーのまだ小さな頭へ鼻面をすり寄せた。挨拶を返したヴァレリーが「そうだね」と少し明るい声で応えた。
「このゾーンの湿気と雨は気が滅入るな……。弟よ、別のゾーンへ行かないか?」
パチリ、とヴァレリーが瞬いた。少しの逡巡を挟み、「はい、兄さん。」と答える。
「……ヴァレリー。希望はないのかい?」
「……ううん。僕も、雨ばかりの中を歩き続けるのは疲れるしね。行こう。」
何でもないようにヴァレリーが尻尾を振り、パブロを促した。
連れ立って歩き出しながらパブロは空を見上げた。細い斜めの雨の筋が薄暗い空からひっきりなしに降り続けていた。
たまに、とても不安になる。
パブロは兄としてちゃんと振る舞えているのか。ヴァレリーの意を汲んでやれているのか。
「兄さん?」
振り向いた弟が、不思議そうに兄を呼んだ。
濡れそぼったヴァレリーに、パブロは一声鳴いて寄り添った。
(了)
お付き合いありがとうございました一応シメ!