2022/08/07ワンドロライGlobal
ガチガチと歯が鳴る。
「はっ……はっ……。」
上擦る吐息をこぼし、ともすれば舌を噛みそうなほど合わない歯の根は止まってくれない。
こんなことをしている場合じゃないのに。
散乱した書類に倒れた机や椅子は一つどころかそこかしこに。屋上は雲の上とも言われる高層ビルの上階で、従業員の一人は立ちすくんでいた。
シャチハタの郵便局は常に何十人何百人の職員が働いている。その誰もが疲弊し、黙々と己の作業を機械のようにこなすことに毎日を費していた。
番号を口の中で復唱し、手を止めずひたすら書類を捌く。ときおりふらりと誰かが席を立ち、台車を引いてフロアを横切り、エレベーターへ吸い込まれていく。誰もそれに気を払わず、戻ってきたかどうかすら気にもされない。ただいつの間にか、席を外した当人、でなければ他の誰かが同じ席へつき、その続きを再開している。
重苦しいルーチンに終わりはなかった。ある時、明らかな異分子がその秩序正しいオフィスへと乗り込んでくるまでは。
その従業員が手にした書類を、見慣れない服装の男がじっと覗き込んできた。
「ちょ……ちょっと、誰です……? ここは部外者は立ち入り禁止のオフィスですよ……。」
恐々と誰かがその男に声をかけるも、男は振り向きもしなかった。帽子を被り、原理のわからない光る輪を背後に浮かべ、何かの染みがついたバットを携えた従業員の制服とは全く違う格好をした異質な存在。服装どころか雰囲気も。凝視される居心地の悪さに怯えながら、従業員はひたすら己の作業に従事していた。
やがて謎の男は何かに納得して従業員のそばを離れ、エレベーターへ乗ってどこかへ去っていった。力が抜けそうになりながら、積み上げた処理済みの書類を整えて持ち運ぶためのファイルへ順に綴じる。山となったファイルを持ってきた台車に積み込み、従業員は担当の階数を打ち込んでビルを上がった。
チン、とエレベーターが開いた先では、真っ先に赤い色が目に入った。
「……、え……?」
それから鉄錆のような、嗅ぎ慣れない強い癖のある臭い。嵐にでも遭ったように乱れ、荒らされた室内。そして、倒れた誰か。
「は——」
息が上がる。芯から立ち上る震えが顎を伝い、ガチガチと歯を鳴らした。倒れた同僚が立ち上がる気配はない。そして——そして、その頭があるあたりは、黒い何かが溢れて床に広がっていた。
「ハァ……ア、ァ……。」
ひゅうと喉が鳴る。思わず手で押さえた喉が汗か何かでぬるりとすべり、反射的に手を離した。震える手を目の前に広げれば、ねばつく液体が従業員の手のひらを黒く染めていた。それは、同僚だったモノの頭のあたりに広がる痕跡と同じ色をして、おそらく同じ臭いを発していた。
「う……ああ……っ」
呻く。乱れた呼吸では息が続かず、獣のような忙しない吐息だけがその場に満ちる。
どうしてこんなことに。今日は昨日の続きで、明日は今日の続きを続けるだけのはずが。
次第に息苦しさは悪化し、それとともに視界も暗く狭まってゆく。
「——おい。」
少し離れた横側から、従業員は急に声をかけられた。よく見えない視線を向ければ、そこには先ほど従業員の仕事を監視していた不審な男が立っていた。
だが、ああ、その手の中のバットは、あんなに鮮烈な緋色をしていただろうか。
「——ハアァ……」
「おい——」
こぼした吐息はけぶって黒く染まっていた。
なにごとかを話しかけようとしていた男に、ふらりと従業員は近づく。
(ここは、関係者以外立ち入り禁止ですよ。)
ここで働く職員が伝えたかったのはそれだけだ。けれどそれはもはや、男には言葉として届かなかったようだった。
肩を叩こうとした手も、よく見えない目も、話しかけようとした喉も。あっという間に黒く塗り潰されていく。
「……——浄化する。」
静かな男の声がフロアに落ちた。
さらに荒れた室内を置いて、ひとりの男が階段を登っていく。
その場に動くものは、もう何も存在しなかった。
(了)