モチーフ楽曲
 österreich『swandivemori』
愛を歌わないで
誰も触らないで!
pixivに投稿済み
#BanG_Dream! #奥沢美咲 swandivemori - 白山胡蘿蔔の小説 - pixiv
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 四月。スカートも珈琲色になった高等部の制服を着て、校舎の前の掲示板を眺める。
 わたしの名前は一年C組の欄にあって、そのひとつ前に『奥沢美咲』の名前があった。頬が少し緩んだ。
『大層な名前つけられると苦労するよね、あたしなんて"美しく咲く"だよ』
 そう言って苦笑する奥沢さんの表情は、今でもはっきりと思い出せる。
 花咲川の中等部に入ったばかりの頃。英語で自己紹介をしましょう、という授業だった。自分の名前、出身小学校、好きな科目、好きな食べ物、好きな映画。手を替え品を替え、相手を変えて繰り返す。四人目の相手になったのが奥沢さんだった。どっちからやろうか、という問いにわたしがまごついていると、じゃんけんにしよっか、とすぐに提案してくれた。結果、チョキを出して負けたわたしから。
「……まい、ねーむいず、あい、かいこう。まいふぇいばりっとむーびーいず、たわーおぶ、ふぉぐ」
 椅子ごと向き合って座り、慣れない制服の白いスカートの裾を握りしめ、むずがゆさを堪えながら、かくかくした英語で好きな映画の話をする。そんなに有名でもない洋画だから、話題が広がらなくて楽だ。しかし奥沢さんは両目をぱちぱちと瞬き、
「え、タワーオブフォグってもしかして……霧の塔? 好きなの?」
 と食いついた。
「う、うん」
「私もすごい好き。ハッピーエンドって感じじゃないけど、いいよねあの映画」
 とある寂れた港町。岬に聳える塔に幽閉された女の子が主役の物語だ。こういうのは自分の力で塔を出るか王子様が表れて、なんだかんだあって広い世界で幸せに生きていくと相場が決まっているはずだけど、お姫様は塔の外に出られた時点で満足してしまって、狭い港町から出ることなく物語が終わる。
「愛とか夢とか希望とか、そういうの疲れちゃうんだよね。あの映画って、そういうのないじゃん。だから好き。何気なくても、ほどほどでも、別にいいじゃんって」
 奥沢さんは、わたしの心を見透かしたように言う。嬉しくなって、思わず身を乗り出す。
「そう、そうなの。愛してるとか、ずっと一緒とか、そういうの聞くとくすぐったくなっちゃう」
「似たもの同士だ。えっと……」
「愛。皆(かい)光(こう)愛(あい)」
「カイコウさん。どんな漢字書くの?」
 みんな、と、ひかる、と口に出し、ノートに書いて見せた。なるほど、と奥沢さんはうなずく。
  小学校の頃は『蚕』なんてあだ名を付けられることもあった。地を這って生き、羽ばたいても飛べないところにどこか親近感を覚えなくもないけど、絹を吐く分あっちが格上だと思う。
「愛って名前なのに、愛とか好きじゃないんだ」
 奥沢さんはくつくつ笑って、「ごめん。人の名前なのに」とかぶりを振る。
「ううん、気にしないで」
「にしても、大層な名前つけられると苦労するよね、あたしなんて"美しく咲く"だよ」
「ってことは……ミサキ?」
「そ。じゃ、あたしの番ね」
 奥沢さんもわたしと同じようにかくかくした英語で、自己紹介を済ませた。テニスやってるんだね、なんて会話をしたあとは、映画の話をした。弾み過ぎて、ALTの先生が笑顔で注意しにくるくらい。
 それから奥沢さんとわたしは、ほどほどの距離を保ち続けた。テニス部に入っている奥沢さんと手芸部のわたし。クラスは同じこともあれば違うこともあった。共通項は映画と手芸。席が近くなれば、休み時間にたまたま会えば、ぽつりぽつりと言葉を交わす。短い時間でも、趣味や思考がどこか似通っていることがわかって心地良かった。親友だとかなんだとか、そういう暑苦しい言葉とは縁遠く、好きな映画に出てくる港町のように不思議な落ち着きと、手芸品のように暖かい空気が奥沢さんとわたしの間には漂っていた。
「高校はどう? 愛」
 ピカタの薄い肌色、蒸し野菜の鮮やかな緑色、ミネストローネの半透明な橙色をそれぞれ乗せていた食器が並ぶ食卓の向かいから、お父さんがわたしに微笑みを投げかける。いかにも男らしく刈り上げた短い髪は活発なスポーツマンみたいだけど、性格は至って温厚なインドア派だ。
「どうって、別に。いる人もそんなに変わらないし」
「まあ、そうだよな。……その、進路はどうするんだ」
「まだ一年生なのに」
「昔から言ってるだろ、医学部に行くなら早すぎるってことはないぞ」
「医学部行くなんて言ってないし」
「お母さんみたいに、」
「お母さんみたいにずっと忙しくて碌に家に居なくて、最後には海外に飛んでっちゃう生活なんて、嫌だから」
 わたしが吐き捨てるとお父さんの顔色がさっと青くなった。胸が締め付けられるような感覚がしたけど、嘘偽りのない気持ちだ。
「……ごちそうさま」
「あ、おい、愛」
 お父さんの言葉を無視して席を立つ。食器をトレイの上に載せて、流しへ片付ける。
 銀のスプーンとフォークは手で持つ部分が葡萄の蔓になっていて、丁寧に編まれた模様はうっとりするくらい美しい。でこぼこの手触りを指でなぞるのが好きだと言ったら、お母さんがたくさん買ってきてくれた。
 自分の部屋に戻って、中から鍵をかけた。電気をつける直前、枕元のスマホがチャットアプリの通知で光っているのが見えた。
『同じクラスだね』
 ベッドに寝転がりながら、奥沢さんから届いたメッセージに返事をする。
『これから一年よろしく』『よろしくー』『そういえば、太陽の畔(ほとり)って映画見た?霧の塔と同じ監督の映画なんだけど』『え、そんなのやてたんだ』『うん。評判もいいみたい』『じゃあ今週末見に行こうかな』
 ここで『一緒に見に行こうよ』にならないのが奥沢さんとわたしの距離感だ。約束もなく、たまにすれ違う程度の仲。
 他愛もないチャットの通知音に、ノックの音が混じった。愛、とお父さんの声がドア越しに聞こえる。
「なに」「愛、医学部受けるって夢はどうしたんだ。お母さんみたいになるって夢は」「そういうのいいんだってば」「そういうのとはなんだ、」「だからさっき言ったじゃん、ずっと家にいないような人になりたくないんだって!」「あのなあ愛、お母さんは」「お母さんにしかできないことをしてるんだ、でしょ。もう聞き飽きた」「愛、」「もう寝るから静かにして、おやすみ」
 点けたばかりの電気を消してベッドに寝転がる。『ごめん、そろそろ寝るね。おやすみ』『おやすみー』奥沢さんから返事が来たのを見て、わたしは目を閉じた。
 うちはお母さんが働きに出て、お父さんが家事をしている。勤務医のお母さんと看護師のお父さんが、同じ病院に勤めていたのが二人の出会いなんだと何度も聞かされた。お父さんがお母さんを支える構図は昔からずっと変わらない。
『お母さんは、どうしていつもうちにいないの?』
 幼稚園の頃にわたしが聞くと、お父さんは柔らかく微笑んで言った。
『世界中を回って、病気になった人を治して回ってるんだ。お母さんは、お母さんにしかできないことをしてるんだよ』
 お父さんは、リビングの棚から地球儀を取り出して、見慣れた形の列島を指す。
『ここが日本で、お母さんは今ここにいる』
 地球儀をくるりと回して指したのは、ちょうど日本の裏側辺りだった。
『お母さんは本当に、愛でいっぱいの人なんだ。だから僕もお母さんを好きになったし、愛に愛って名前を付けたんだよ。愛でいっぱいの人に育ちますようにって』
 すらすらと歌うように言うお父さんの表情には、少しの照れもなかった。わたしもお母さんみたいなすごいお医者さんになりたい、と言うとお父さんは嬉しそうに笑った。
 花咲川に主席合格した勢いのまま卒業まで学年一位をキープし、国立大の医学部に現役合格したお母さん。大学での成績もトップクラスで、留学に出る向上心の高さまで兼ね備えていたから、研修医の頃から飛び抜けた存在だったらしい。そして職場恋愛で家庭を築き、磨いた語学力を生かして国際NGOでの活動に踏み出したのだった。
 それに引き替えわたしは、そう難しくないとされる花咲川の入試にも塾でみっちり対策をしてもらってどうにか合格したくらいだ。お母さんみたいになりたい、なんて恥ずかしくて到底言えなかった。夢物語だったのだと気づいた。中等部からなんとなく高等部に進学して、たぶん大学もなんとなく決めて、なんとなく就職して、なんとなく生きていくのだろう。それでいい。それが自分にふさわしいと思う。お母さんみたいに愛を振りまく生き方なんてできやしない。空は飛べないし絹も吐けない。
 高等部に上がってからの日々は、何気なく過ぎていった。外部生もクラスに馴染んできたところで、学校の空気がどこか浮つき始める。文化祭だ。
 わたしのいるC組の出し物は定番中の定番、劇に決まった。次の議題は演目だ。
「ロミジュリ!」「白雪姫!」「眠れる森の美女!」「シンデレラ!」
 またもや定番中の定番が、教室の中でいくつも飛び交う。三つで多数決をとって、眠れる森の美女に決まった。
 わたしはどれも好きじゃない。どれも愛を謳う物語だ。だけどそういう暑苦しさが、熱狂が、みんな大好きなのは昔からわかっている。衣装係になってやり過ごすことに決めた。奥沢さんと一緒になれたら愚痴りあおう。
「それじゃあ配役だけど、まずお姫様」
「はいはーい! あたし、お姫様をやりたいわ!」
 進行役の声を遮って大きな声を上げたのは、花咲川の異空間こと弦巻こころだった。中等部の頃から同じクラスでも違うクラスでも、その存在は目についていた。突拍子もない行動と言動。付き合わされたら疲れるなんてもんじゃない。巻き込まれた人たちは事故に遭ったような口ぶりで言う。
 ただ、見た目はすごく綺麗。長い髪はよく手入れされていて、遠目に見ても艶やかだ。両の瞳は大きく、満点の星空のような輝きを湛えている。眺めていると、思わず目を奪われる。カリスマというかスター性というか、そういうものが備わっている。主役にはぴったりだろう。
「とりあえず弦巻さんが立候補ね。他にやりたい人いる?」
 進行役が聞くと教室は静まりかえる。ささやきとも苦笑ともとれる声がいくつか漂う。
「弦巻さんには敵わないって」「決まりでいいんじゃない?」「立候補なしなら、弦巻さんで決定ね」
「みんな、ありがとう! あたし、素敵な劇にするわっ」
 弦巻さんが両手をぱっと広げて、華やかな笑みを振りまく。見ているこっちも笑顔になるような、ひまわりみたいな姿だ。
「それじゃあもう一人の主役、王子様だけど……」
「美咲はどうかしら? あたし、美咲と一緒にお芝居がしたいわ!」
 またもや弦巻さんが進行役の声を遮る。その声の大きさはもちろん、言葉にも驚いた。奥沢さんが王子様役はミスキャストだろう。失礼だとは思いながら奥沢さんを見やって、わたしは呆然とした。まんざらでもなさそうな笑みを浮かべて、しょうがないなあなんて呟いて、おずおずと手を挙げる。
「こころがやるって言うなら、まあ、いいよ。やっても」
「ええ、一緒に頑張りましょう!」
 そう言って二人は微笑みあう。まだ決まったわけじゃないんだけどなあ、と進行役が苦笑するけど、王子様役も他の立候補者は出なかった。わたしはぼんやりとその光景を眺めていた。
『愛とか夢とか希望とか、そういうの疲れちゃうんだよね』
 三年も前の会話をことさらに覚えているわたしがおかしいの、奥沢さん。
 きりきりと音がした。左手につけた手巻き時計の竜頭を回す音。昔から、ストレスが溜まった時の癖になっていた。爪を噛むより見苦しくなくて、すっかりやめられなくなっている。
 その日の晩ご飯は和食だった。生姜焼き、小松菜の炒め物、出汁から作ったお味噌汁。いわゆる『母の味』らしいものは、うちだと『お父さんの味』だ。
「文化祭、何に決まった?」
「劇。眠れる森の美女」
「定番だね。愛は何の役?」
「衣装班。役はないよ」
「そっか……ちょっと残念」
 わたしが小さい頃からお母さんは忙しくて、参観日はいつもお父さんが来ていた。もちろん小学校の学芸会や中等部の文化祭も同じ調子で、大振りのカメラを構えて、端役のわたしに大きく手を振るものだから、やたら目立っていた。
「舞台に出なくても、行くから。愛が作った衣装、ちゃんと写真に撮るよ」
「……ありがと。明日からしばらく学校で作業するから、遅くなるね」
「わかった。あんまり遅くなりすぎないようにな」
「うん。ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
 健気に微笑むお父さんを見て、頑張ろう、と素直に思った。たとえ奥沢さんが愛を謳うとしても、一生懸命に編もう。
 食器を下げて部屋に戻る。奥沢さんにメッセージを送る。
『劇、頑張ってね。私も頑張って衣装作るよ』
『よろしくー。手芸部の腕前、期待してます』
 文末には手を合わせる絵文字。とりあえず今日は手の体操も兼ねて、仕掛かりのポーチをやっつけることにした。絹を吐けなくても糸は編めるし、ミシンだって扱える。
 しばらく経って、文化祭の準備も佳境に差し掛かった。衣装作りのペースは順調で、あとは細かい部分を手で直すくらいだ。分担するより自分でやった方が早そうだから、一人で居残ることにした。家庭科室から教室に移って、窓際で後ろの方にある自分の席に着いた。
 他の班は作業をしてなくて、教室にはわたしだけ。集中できていいと思ったけど、むしろ眠くなってきてしまった。遠くから聞こえる運動部のかけ声、合唱部の歌声。ほどよい環境音に引っ張られた瞼はやがて持ち上がらなくなる。手元が狂って怪我でもしたら嫌だし、少し仮眠を摂ることにした。作りかけの衣装と道具を隣の席によけて、机に突っ伏して目を閉じた。
「お食事はお魚とお肉、どちらになさいますか?」
 ひっつめ髪のCAさんが、カートを押しながら上品に微笑む。
「そうね……最近お腹が出てきたから、魚にしようかしら」
「お母さんはむしろもっと食べなきゃだめだよ。お肉にしなって」
「ふふ、わかった。お父さんは?」
「僕は魚にしようかな、軽めがいい」
 飛行機は、お母さんが暮らす地球の裏側に向かっている。初めての飛行機、初めての海外旅行。離陸するまで纏わりついていたどこか不安な気持ちも、離陸した時の耳鳴りも、丸一日近いフライト時間も、お母さんと一緒に居られる嬉しさが覆い隠してしまった。
「愛はどっちにするの?」
 通路側に座るお母さんが首を傾げる。大きな瞳、さらさらの長い髪、お父さん似で女子にしては背が高いわたしとは反対の、低い視線。身内の贔屓目を抜きにしても綺麗な人だと思う。小学校の頃、何度か運動会に来てくれた時は男女問わずクラスメイトの視線を集めていて、嬉しくて誇らしくてちょっとだけ照れくさかった。
「ほら、愛。お姉さん待ってるから」
「あ、うん! えっと、魚で」
 かしこまりました、とCAさんが頷いたその瞬間だった。がたん、と大きな音がして、ジェットコースターが一番高いところから落ちるような感覚がした。そこかしこから悲鳴が上がる。トラブル発生、墜落。そんな言葉がアナウンスからどうにか聞き取れた。
 ほらやっぱり、こんな大きな鉄の塊が飛べるわけなかったんだ……。
 すっかり陽が傾いて、教室の風景はオレンジのフィルムに覆われたようだった。教室の時計は十七時少し前を指している。
 さっきまでの風景が夢だったことに胸を撫で下ろすのと同時に、誰かがいることに気付く。
 奥沢さんと弦巻さん。いくつか前の席で、わたしと垂直になるように、向かい合って座っている。膝の頭どうしがくっつきそうな距離。奥沢さんの掠れた囁き声が微かに聴こえて、弦巻さんは目を細める。絹で編まれたような柔らかい空気が漂っていた。溜息すらも躊躇われる繊細な静寂の中でわたしが席を離れようとすると、椅子の足が床に引っかかって音を立てた。
 二人は弾かれたように離れて、揃ってわたしを見つめる。
「か、皆光さん?」
「あら」
 奥沢さんの顔は、夕陽を差し引いても赤らんでいるように見えた。対して弦巻さんの表情は平静で、大きな両目が瞬きをするたびに砂金のような煌めきがちらつく。
「なにしてるの?」
 小首を傾げる弦巻さんの声は無邪気で、わたしが何をしてるか知りたい、以外の意図は見えなかった。
「あの、文化祭の、衣装作ってて」
 立ったまましどろもどろになりながら隣の席を指すと、弦巻さんはつかつかと歩み寄ってきて、衣装を手に取ってためつすがめつ眺める。
「すごいわっ、魔法みたい! あなたはお洋服作りの天才ね!」
 言うなり弦巻さんはわたしに抱き着く。弦巻さんの体は予想通り、わたしの腕の中に収まるくらい小さい。せっけんの匂いが鼻をくすぐって、高い体温が制服越しに伝わる。斜めに切り揃えられた前髪がさらさらなびく。少し低い位置からわたしを見上げる両目は、爛々と輝いていて夕陽にも負けない。
「こころ、皆光さん困ってるから」
 奥沢さんが妹か子供を宥めるような口調で言った。わたしとぶつかった視線を逸らして、口元を拭う。頬どころか耳まで赤らんでいる。
 わたしは、奥沢さんの言葉を聞いても離れない弦巻さんをぐっと押し返す。
「邪魔してごめん、わたし、帰るから」
 机の横に掛けていたスクールバッグを乱暴に取って、早足で教室の出口に向かった。皆光さん、と背後から奥沢さんの声が聞こえたけど振り返らなかった。一刻も早く、この場所から離れたかった。
 昇降口を出て、駅まで走った。路面電車はすぐに来て、空いている席に座った。しばらく電車に揺られていても動悸は収まらない。どころか胸が締め付けられて、じわじわと息が苦しくなる。
 震える手で、腕時計の竜頭に触れた。
 きりきり、きりきり、きりきり。
 いくら逆に回しても時間は巻き戻らない。
 オレンジ色に染まる時計の真下で、奥沢さんと弦巻さんが口づけを交わしていた光景は、きっとわたしの脳裏から離れない。
 真っ暗な部屋でベッドに突っ伏していると、お父さんの声がドア越しに聞こえた。
「愛、晩ご飯できてるよ。今日は中華」
「要らない」
「体調悪い? 熱、計った? 辛かったら車出すから、病院行こうか」
「いい。大丈夫」
「……そっか。ご飯、冷蔵庫に入れておくから、良くなったら食べて」
 とんとん、と足音が遠ざかっていく。
 枕に顔を埋めたまま、ほったらかしにしてしまった衣装のことと、奥沢さんのことを考えた。
 一体いつから奥沢さんは、愛を謳う側の人になってしまったのだろう。
 原因はきっと弦巻さんだ。思えば配役を決める時から、奥沢さんが弦巻さんに向ける眼差しもかける声も、今までに見たことのない色をしていた。ファムファタール、運命の女。そんな言葉を思い浮かべる。弦巻さんはきっとそうだ。奥沢さんだけでなく、わたしにとっても。
 弦巻さんに抱き締められた時、わたしにあったのは戸惑いだけではなかった。
 思い出したのは古い記憶。お母さんに抱き締められた時のこと。
 こわかった。
 わたしの両腕にすっぽり収まる、小さくて細い身体がこわかった。あばら骨が浮いていそうな薄い胴体がこわかった。わたしの頬を撫でる、砂のようにさらさらと乾いた掌がこわかった。愛を吐き出して振り撒いてぶちまけて、そうやっていつか無くなってしまいそうでこわかった。
 だから、お母さんに似ている弦巻さんがこわかった。振りまく笑顔が、輝きが、いつかなくなってしまうのがこわかった。だけどああやって抱き締められると、いくら愛を振りまいてもこの子が磨り減ることはないのだと感じられた。太陽が登らないこと、あるいは空が落ちてくることを心配するようなものだと気付いた。しかし弦巻さんが見境なく振り撒く愛は、本当のところ、奥沢さんに向ける愛とは意味が違う。二人だけで交わされる愛があって、二人だけを結ぶ糸が繋がっている。そのことを想像すると、胸の奥が焦げ付く感覚に襲われる。わたしもあんな風に愛を謳えたら。わたしもあんな風に愛されたら。気持ちは際限なく膨れ上がっていく。
 息苦しくなって、ベッドから起き上がった。押し入れの戸を開いて、隅の引き出しを引いた。中に堆く積もる封筒は、どれも色とりどりに縁どられている。お母さんからのエアメールだ。一番上にある新しいのを取って、中身を取り出した。無地のポストカードと数枚の写真。綺麗な字で綴られた愛の言葉、晴れやかな空を背景に咲くお母さんの笑顔。ずっと遠くにある愛。自分を削って振り撒く愛。両方とも、わたしに残る弦巻さんの面影を濃くしていくだけだった。
 虚しくなって手紙と写真をしまうと、人差し指の先に微かな痛みが走る。ポストカードで切ったらしい傷に、糸のように細くて赤い線が浮かんだ。
 あと少しで終わるはずの作業は滞っていた。いくら一生懸命に編んだところで、意味なんてないんじゃないかと思い始めた。奥沢さんはもう、愛を謳う側の人だ。
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モブ→みさここ×swandivemori【完結】
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初公開日: 2020年05月31日
最終更新日: 2020年06月30日
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