/// みずかさ
「なんだ、速水。風邪か?」
 そう早乙女が問いかけたのも無理はなかった。彼の部下である速水のデスク周りは使用済みのティッシュペーパーが散乱している。比較的神経質で几帳面なこの男がこれだけ周辺を散らかすのも珍しい。
 問いかけられた速水は顔を上げ、それから、いえと鼻の詰まったどうにも響かない声で返した。
「花粉症なんスよ、多分」
「多分? でもオメー、去年までそんなことなかっただろ」
 ここでくしゃみを一発。潤んだ瞳をしぱしぱとさせている速水がどうにも不憫で、早乙女は自身の机上にあったティッシュ箱を彼の机の上へと寄付する。速水は頭を下げ、それを受け取った。二枚取り出し、ズッと鼻をかむ。
「すんませ……いや、今年からなんすよね」
「へー、そんな急になるもんなんだ」
 そりゃあご愁傷様。仕事にもならねえなあ、と速水は可哀そうに肩を落とす。吾代はおかしそうな顔をしつつ、胸ポケットからキャバクラの案内の入った薄っぺらいポケットティッシュを差し出した。鼻痛くなんだよなあと言いながら、速水はそれもおとなしく受け取る。早乙女は息を吐く。
「そんな辛いなら病院行くか? 今日どうせ外回りの約束もねえだろ」
「あー、薬。市販薬、買ったんですけど、飲み忘れてて」
「なるほどねえ。でもさあ、どうしてこう急になっちまうんだろうな」
「ああ、オレ聞いたことありますよ」
 そう鷲尾は声を上げると、彼のデスクの上にあったコップを手に持った。室内の視線が彼に向かう。なんだよ、と吾代が促す。
「人にはそれぞれキャパシティがあって。それを超えると症状が出るらしいんですよ」
「きゃぱ、してぃ……」
「吾代、容量って言えばわかるか? で、人間花粉にさらされてるからまあ、身体の中で
日々花粉は積み重なっていくわけで」
 コップの中身を、鷲尾はゆらりゆらりと揺らす。早乙女はそれを自身の席からぼんやりと眺めている。
「例えばコップに水を入れていって……それが零れるまでは手は濡れない。それが症状の出ていない状態。一ミリでも零れたら、症状が出ちまう。つまり、速水のはキャパ、超えちまったんだろうなあ」
「げえ……でもそれって、誰がいつなってもおかしくねえってことっすよね?」
「そうそう。テメーは運が悪かったんだな」
 ケラケラとみんなで笑うと、話題はふっとしぼみ、社内は少し静かになった。電話のコール音、やや荒めの口調での取り立て電話、くしゃみ、煙草の火をつける音、取引先への確認電話、鼻をかむ音。……。
 早乙女は顔を上げた。彼が座っている席は、この小さな事務所の一番奥にある。背中に窓を置き、他の社員の顔を見渡せる場所だ。所謂社長席ということで、少しばかり机も椅子も立派だ。ただ彼はそういうことに優越は特別感じなかった。全体を見渡せる安心感という方が彼には大きかった。事務所の扉の鍵を常に閉める、外から社員が入る際には必ず連絡やノックをさせるという慎重さを見れば当然だったのかもしれない。
 それに加えて。視線の先にあったのは、吾代の姿であった。彼はこの席から部下であり、舎弟とも呼ぶ吾代の姿を眺めることが割に好きだった。早乙女自身にそうした自覚が出始めたのは最近で、ふとした時に気が付いたということに過ぎない。どうして吾代にばかり視線が向くのか、早乙女自身よくわかってはいなかった。単に目の離せない、困った舎弟――と名付けることができれば楽だったのかもしれないが。
「なあ社長、この案件なんスけど」
 ハッと気づけば、早乙女の目の前に吾代がおり、ぐっと書類を差し出している。早乙女は彼を見上げ、それから差し出されたものを受け取った。
「ン、ああ? ……困ったちゃんの奴か」
「そーそー。一発さあ、絞めた方がいいんじゃね?」
 金払いの悪い飲食店についての書類。先月、支払いが随分と遅かった。叩かねえとなとは言っていたが、忙しさにかまけ、早乙女の頭からはポロリと抜け落ちていた案件だった。
「珍しいな。オメーの方から」
「オレもまあ、それくらいはさ」
 思えば、吾代もこの早乙女金融に入社して随分と経った。若い時分に早乙女に拾われ、長くこの業界にいる。数字には弱く、学歴もないが、そこにあるものを吸収し、自らのものにする力はあると早乙女は考えていた。最近ではただ言われて動くだけではなく、自分でもよく考えているようにも見える。
「そうか」
 こうした吾代の姿をまぶしく見ているのかもしれない。そう早乙女が思ったのは、吾代の瞳の輝きが、拾ってきた頃よりもずっと増してきているからだろうか。生き生きとしているのは、単に年齢的な若さだけではあるまい。ただただ暴力的だけだった男が、こうして日々成長していく姿を見ているからなのか。
 中身だけではない。外見だって、そうだ。随分と精悍になった。青さはまだ残るが、もう随分と大人だ。夕方、西日が入り込む時間帯、橙に染まる吾代の横顔を見るのが、自分の日課になってきていることに、早乙女はふと気づく。
「じゃあ、行くか。この後」
「そうだな」
「準備しておいてくれ。俺は水、飲んでくるわ」
「おう。俺が車出すわ」
「鷲尾、悪いがそんな遅くはならねえからよ」
「はあ、わかりました」
 早乙女はゆっくりと椅子から腰を上げる。給湯室へと向かい、コップを握る。蛇口をひねる。出てくる水をコップで受け止めているのを、ぼんやりとみていた。勢いで泡が水際で小さく起こり、はっと気が付く前に上がったみずかさが為に、彼の指先が濡れた。
 それはほんの僅かなもので、早乙女はすぐに蛇口をしめたし、気に障るほどの濡れ方ではなかった。
 彼がそのとき思い出したのは、先ほどの鷲尾の言葉だった。
 一ミリでも超えてしまえば、ということ。それはいつ来るかわからない。明日かもしれないし、永遠に来ないかもしれない。それは、自分自身にもわからないのだ。だから昨年までは何ともない顔で取り立てに行っていた速水だって花粉症にもなるだろう。
「……そういうことか」
「なー、社長。早く行こうぜ!」
 自分が呼ばれる声を聞きながら、早乙女はコップに入れた水を飲みほした。それから、目の前にある小さな鏡の中にいる自分を見つめる。そこにいるのは、先ほどまでの自分ではなかった。気が付いてしまった人間であった。
 コップを置き、給湯室を出ると、待ちわびるような顔をして、出入口に吾代が立っていた。その瞳はきらきらと輝いているようだったが、そう見えるのはもしかしたら自分だけなのかもしれないと、早乙女は思い当たる。ああでも、こいつは何もわからないんだろうな。そんな当然のことを思って、へらりと唇が緩む。嬉しい、嬉しくない、どちらの感情から出たものなのか、彼にもまだわかりかねた。
「ああ、行くよ」
 声が少しだけうわずったのがわかった。彼は小さく、誰にも聞こえないように舌打ちをした。上がってしまったみずかさが、濡れてしまった指先が、もう戻ってこないことを、彼自身よくわかっているようだった。
おしまい
お付き合いありがとうございました!
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國忍かきます
初公開日: 2020年05月12日
最終更新日: 2020年05月12日
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國忍文つらつら書きます 途中止まることもあるかと思います
二次文章
すこしのあいだかきます 仁王音ありにしてますが BGMとキーボードタッチの音が聞こえるだけです 作業…
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笹ヤコ
書けるところまで書きます BGMと打刻音(音声配信ありにしてみます)(何かあればコメント等お気軽に)…
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これは多分現代ファンタジーな感じ。12の続き。
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