「つめたい朝」
 どうしてこう脆いほどうつくしいのか。男は燃えていく煙草の先端を見ながら考える。はじめは形を保っていた灰も、時間が経つにつれじわじわ崩れ、なにものだったのかもわからなくなってしまう。煙が上昇する都度灰は溜まり、均され、その皿の上にあるのはただ悪臭の溜まる場所でしかなくなる。
 こうしたことを繰り返してもどうにもならないことは、男自身よくわかっていた。行為自体、あまりに仮初のものであり、擦り切れるような痛みすら伴う。それでも抑えられないのはなぜか。目が合うと、狂わされるのはどうしてなのか。
 まだ外は暗く、夜明けまでは時間があった。男の横では少女が寝息を立てており、彼女もまた起きる気配はなかった。男はその姿に視線を送りながら、煙を吐き出した。
 少女と関係がはじまったのは、つい最近のことだった。ただ男も少女も、それぞれに何かを長らく抱えていたことは否定できない。けれど彼らの関係上、互いに気持ちを明言することははばかられた。男は少女よりも一回り以上年上で、警察官という立場にあったということが大きい。男は理性的であったし、例え少女に気持ちを動かされたとしても、それを表立って出すことはなかった。少女の気持ちは比較的わかりやすいものだったが、彼女もまた彼の立場を慮り、行動を起こすことはなかった。
 そう、そのはずだったのである。
「笹塚さん、黒いファイルって忘れてたりしませんか?」
 それは男が事情聴取をした、しばらく後のことだった。探偵と名乗る彼女とは、事件現場で鉢合わせすることが多く、そのために事件について聞き取りをすることがよくあった。その日は男と部下の石垣、そして少女とでの聞き取りが彼女の学校近くのカフェであり、資料類の管理はすべて部下の石垣が担っているはずだった。
「……中、何か入ってるよね」
「そうですね……多分見ない方がいいんだろうなって感じの……」
 電話口で思わず舌打ちをしそうになるのを抑えながら、男は記憶を探る。基本的には部外秘のものだ。しかしながら、石垣も男もすでに別れており、男はすでに帰路についていた。調書を書くのは石垣に任せる予定だったのだが、その資料がなければ作成も難しいだろう。
「あー、悪い。取りにいくわ」
「それなんですけど、よければ届けにいきますよ!」
「流石にそれは……」
「実はさっきのお店、閉店時間になっちゃって……私も帰る直前に気が付いたんです。来てもらうより多分、行った方が早いと思うし」
 確かに耳をそばだてれば、町の喧騒らしき音が混じっているのがわかった。男の家は、先ほどの店からそう離れていなかった。
「今、どの辺?」
「えっと駅の近くにいて」
「東口の方にコンビニがあるんだけど、そこまで来てもらってもいいかな。すぐ行く。それ、署まで持ってかないといけないしさ」
「そっか、そうですよね。わかりました!」
 通話ボタンをオフにすると、男は脱ぎかけたジャケットを改めて羽織った。仕事を増やした部下にメールを一件入れつつ、こうしたことでも少女と顔を合わせられることが嬉しくないわけではなかった。少女と会話をする時間は、男も息を吸うのが少し楽になるのだ。
 窓の外を見上げると、煙草の煙のようにして、灰色の雲が全体を覆っている。一瞬天気についての心配が頭を掠めたが、すぐそばの距離だから構わないだろうと、自宅を後にした。
 そうして家を出て、数分。夏の夕立。
「さ、ささづかさん!」
「弥子ちゃん……その姿は」
 濡れながらどうにか約束の場所についた男が見たのは、濡れ鼠状態の少女の姿だった。髪から水が滴り、張り付く白いシャツは身体の線を浮かび上がらせている。男は少し目線をそらす。見続けるのは、目に毒だ。
「荷物をもったままころんじゃった人がいて、お手伝いしていたらこんなことに……あ、でも資料は無事ですよ!」
 鞄に入れてあるので、と濡れたまま笑う少女に、男の心が動かされなかったとは言えない。自分の犠牲も顧みず、というところが彼女にはある。それを苦にしていないことも。まっすぐな様が、男には少しまぶしくも思えた。
 少女の華奢な身体は、水にぬれると殊更強調されるようでもあった。白く細長い身体。髪から落ちてきた水滴がまつ毛に落ちていく。
「……それじゃちょっと帰れないね」
 風邪でもひきそうだ、と男はつぶやいた。実際、コンビニエンスストアの自動ドアが開閉するたび、中から漏れ出る冷気にその体が震えているのがわかっていた。
 夕立はほんの一瞬で、もうすぐにでもやみそうだった。男は自分でも、このようなことを口にするとは思いもしなかった。ただ、暴力的なほどに無自覚に、言葉が落ちた。
「うちに来る?」
 少女の指先が驚きと不安、そして関心に彩られた。雨がやんだ後、男は少女を伴って彼の家へと向かった。男が覚えているのは、その後のシャワーによる水音、そうして、男の下で声を漏らす赤い唇のこと。
 それがはじめだった。
 以来、度々男と少女は身体を合わせることになる。男は少女に甘えているという自覚が、なかったわけではない。好きも嫌いもいわず、ただ闇雲に肌を重ねた。それは彼らにとって濃密で、狂おしく、刺激的であった。同時に何かを摩耗をしてもいた。幸福なのか、互いにわかってもいなかったのかもしれない。
 終わりがあるのも、なんとなくわかっていた。煙草の箱をあけ、ひとつひとつを消費していくようなことだった。灰は溜まっていった。吸えるものはいつまでもあるわけではないのだと、男は自戒していた。そうして少女は、その最後の一本を恐れていた。
「……眠れないんですか?」
 男が振り返ると、少女がゆっくりと目を開けているのがわかった。
「起こしちゃったか」
「ううん、大丈夫です」
 男はそっと、その色素の薄い髪に指を伸ばした。やわらかく、若々しかった。少女のライトブラウンの瞳は、珈琲とミルクとが淡く混ざる色をしている。男は思わず目を細めた。少女を見ていると、どうしてだか苦しかった。
 その指先をいつくしむようにして、少女は軽く目蓋を閉じる。
「私、いつも少し寂しかったんです。朝起きると、笹塚さんのいたはずのシーツがつめたくて……」
 少女は先ほどまで男がいたシーツをなぞった。行為のあと、男は少女よりもずっと早くそこを抜け出すようにしていた。それはその場所に浸ってしまえばしまうほど、抜け出せなくなるかもしれないことがわかっていたのかもしれない。
「もう少しだけ……」
 一緒に、と少女は言いかけて、なにか思い当たったように口を閉じた。男はそれを追及せず、また煙草を口に当てた。
 窓の外はぼんやりと光が滲んでいる。夜が終わるのかもしれない。朝が来る。けれど男はまだ、その場所を温めることもできない。自身の気持ちを素直に表すことも、関係性に名をつけることもできない。普段は快活な少女もまた、彼に対しては臆病なままだった。それは男との繋がりを解きたくなかったからなのかもしれない。
 だからまだ、故に、朝はつめたいまま。少女は再び眠りに落ちる。男の煙草は、一本終わる。
[chat:100000][][]以上です ありがとうございました!
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笹ヤコ「つめたい朝」
初公開日: 2020年05月11日
最終更新日: 2020年05月11日
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笹ヤコを書いてみたりします
二次文章
すこしのあいだかきます 仁王音ありにしてますが BGMとキーボードタッチの音が聞こえるだけです 作業…
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笹原ゆら
笹ヤコ
書けるところまで書きます BGMと打刻音(音声配信ありにしてみます)(何かあればコメント等お気軽に)…
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國忍かきます
國忍文つらつら書きます 途中止まることもあるかと思います
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仮タイトル『蝶番』
どひふど話ネタ出し。自分の思考の過程を一度見てみたいので試しにやってみます。
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