放課後の校舎は冷たく、遠くに人の気配を残して静まり返っている。かすかに薬品のようなにおいがした。長い時間をかけて染み込んだようなにおいは心地いいものではなかったが、タミヤが顔をしかめたのはそのせいではなかった。
「なんでこんなところにいるんだ?」
理科室の鍵を片手にしばらく弄んだあとで、「雨谷」、とややぎこちない風に名前を呼ぶ。鍵は空回り、澱んだ空気がかすかに乱れ、いるはずのない先客は意味あり気ににっこりと微笑んだ。
一応、といった体の問いかけに答えはなかった。雨谷。変なヤツ。胸の中で密かにため息をつく。苗字を反芻すると、どことなく見知らぬ名前のようで居心地が悪かった。光クラブの活動の他、──つまりジャイボではなく雨谷とは、狭い学校生活の中でもあまり接点を持たなかった。光クラブの中でもそうだ。するすると日陰を選んで歩く猫のように気まぐれに姿を見せてはどこかへ去る、そんなことが多かった。正直なところ、およそ人を遠ざけるところのないタミヤだったが、ジャイボだけは駄目だった。
とにかく、さっさと用を済ませればいい。そう思い直して、自分が5限の実験で着いた席、置き忘れた制帽を探す。
と、濁った空気をでたらめなメロディが揺らした。
机下を探りながら横目で見やると、教卓についたジャイボがゆらゆらと指揮をとるような手つきで何か歌っているのだった。目が合う。暗い目玉が狐のように細められて、満足そうに笑った。
「馬鹿だね、タミヤ」
「……、なんだよ」
歌うように笑う声が耳に障る。
教卓の下から、するり、と黒い学生帽があらわれた。手品師の真似でそれを弄び、からかいを含んだ目でじっとタミヤを見る。
なんだよ、と、身のない言葉を吐き出したっきり、タミヤの唇は動かなかった。なぜだかひどく首の後ろが熱くて、嫌な汗が滲んだ。
彼が何を言ったのか、はじめタミヤには聞き取れなかった。
「この机には人魚が住んでるんだ」
芸術的な曲線を描いた唇が動くのを、ただ見た。
「人魚が住んでるからね。だからたまに来るんだよ」
詩歌じみたその言葉が先の問いかけに答えていることを、遅れて理解する。
ジャイボの細い輪郭が銀色に縁取られている。左手から、暮れかけた日が弱々しく差し込んでいた。理科室の窓は工場側に面していて、そのせいで余計に日が遮られるのだ。
数歩の距離まで近付き、足を止める。
「人魚?」と繰り返す自分の声が、どこか遠くに聞こえた。
およそ話が通じない。そんな予感がした。……人魚。なぜかその言葉が脳味噌の中にとぐろを巻いて、タミヤを不安にさせる。
教卓の陰になって、ジャイボの肘から下は伺えない。銀色の光に濡れた肌が、かすかに首を傾げ、唇の角度を変えるたびに影の形を変えた。睫毛に縁取られた目は氷の膜を張ったように光り、まっすぐにこちらを見据える。薄く、淡い色を滲ませる唇は笑みの形に歪んでいるものの、およそ笑顔には見えなかった。感情がわからない、鳥のような、……いや、魚だ。まるで自分と違う魔術的な美しさに、タミヤはそう答えを出した。深海を密かに泳ぎ、長い時を生きる魚。見たこともないそれをイメージして、なんとなく詰めていた息を吐く。
机の下から再び手があらわれて、制帽は見当違いの方向に投げ出された。既に興味を失ったように視線すらやらない。タミヤはその行方を追うこともできずにいる自分に、そしてそれがジャイボに目を奪われているのだと気づいていたが、ただそれだけだった。
間髪入れずに白い指が教卓の下に潜り、抽斗から何かを掬い上げて机上にばらまいた。そしてまた、何度か繰り返す。──キャラメル、飴玉、指輪、ガラス細工、真珠の首飾り、時計の針。次々と現れるのは、理科室に似つかわしくない品々だった。最後に口紅が一本現れて、それで最後だった。
ひとつ投げてよこしたキャラメルを、タミヤが受ける。
ジャイボは目を伏せて口紅を塗る。淡く開きかけていた蕾が雨を受けていっせいに開くように、べったりと赤く。
右手の中に鍵を、左手にキャラメルを受けたタミヤは、ひどく指先が疼くのを感じた。掌の熱でキャラメルが溶けていく。じっとりと甘いにおいが鼻先をかすめる。風邪をひいた夜と同じ、蝕むような熱が背骨を侵す。鍵、人魚、銀色に光る眼、キャラメル、口紅。ああそうだ鍵だ。すぐに返すとそう言いおいたのだった。ぐらぐら揺れる思考になんとか錨を下ろそうとする。二年の理科担当は、まだ若い女の教員だ。今こうしてジャイボが支配する教卓に、小一時間前は彼女が座って淡々と解説を口にしていた。若くはあるけれど華やいだところのない、骨張った体にサイズの合わないスーツを着た姿。
その残像とは真逆の赤い唇が、でたらめに歌う。上機嫌に掌を翻し、宝物でも扱うふうに、ひとつひとつ数える。ジャイボを前にすると時折、不快な熱が首の後ろに滞って苛立ちのような焦燥のような感覚に襲われる。だから苦手だ、こいつだけは。からかうような黒い目から逃れようと背を向けて学帽を拾い上げ、きつく目を閉じる。
ぐるぐると混ざるイメージの中、女教師の乾いた肌に赤い唇が瑞々しく重なり、それらが絡み合って海の生き物のようにのたうった。
調子の狂った鼻歌と歪んだチャイムが重なって、耳の奥で捻れていった。
おわり
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「この机には人魚が住んでいるんだ」
初公開日: 2020年05月11日
最終更新日: 2020年05月12日
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