ヘリンボーンに張られた床の木材は、重ねたワックスのせいかすっかり飴色に変わっていた。
子供のころはもう少し明るい色合いだった気がする、と思いながら、リチャードはひさしぶりに訪れた家をゆっくりと見まわす。
ちいさな家だ。――クレアモント家の一員としての感覚で言うならば、だが。
一階には応接間とサンルーム、それに水回りと家族用のダイニング。二階には主寝室とゲストルーム。
メイドがひとりいれば切りまわせるようなちいさな家、を晩年の祖母は望み、その望みをかたちにしたのがこの家である。
いまは住む者もない時の止まったような家だが、管理は行き届いている。家よりも庭が広いため、庭師の夫婦が庭園の外れに暮らしており、この家の面倒もみてくれているのだ。
この家と庭をハリーが愛していて、ハリーが好むものをジェフは手放したりはしない。ここはそういう家だった。
「なんか……なんだろう、優しそうな家、だな?」
自分のあとについていまに足を踏み入れた正義が、室内を見まわしてそんなことを言う。ボタニカル模様の布地が張られたソファーも、ウィリアム・モリスの壁紙も、それぞれはこのうえなく英国らしいものでありながら、不思議とこの国らしくないなにかが混ざって軽さが感じられるインテリアだ。
自分が育った屋敷のように、のしかかるような重厚感がここにはない。あの重みを自分は愛しているが、この家を訪れるたびに幼かった自分がなにかホッとするような気持ちになったのは、そのせいなのかも知れないとリチャードはぼんやりと思った。
「あのさ、リチャード、キッチン見てもいいか?」
その手の雑誌の巻頭を飾ってもおかしくはないようなリビングを堪能したあと、正義は物思いに囚われていたリチャードをそう促した。しばらくここで自炊することになるため、料理担当の正義は台所がきちんと使えるかどうかが気になるらしい。
「……えぇ、どうぞ」
リチャードはくすりと笑い、キッチンへと続く扉を開けた。普段の食事はそこで済ませていたくらい、この家のダイニングキッチンは広い。明るい日差しに満ちたそこは、白い天板とティールカラーのキャビネットがL字形に配置され、美しい庭を望める窓辺には、四脚の椅子とテーブルが置かれていた。
「どう使っていただいてもけっこうですよ。最低限の調味料や食料は揃えてもらってありますし、必要なものがあればすぐに届けてもらえます。もちろん買い物に出かけてもかまいません」
一番近くの村までは車で五分。よほど特殊なものでなければそこで手に入る。ここでの滞在は一週間ていどを予定しているので、念のため先に配送しておいた日本の調味料はそのままパントリーにあるはずだ。
リチャードがパントリーの場所を教えると、ちょっといいかな、と断って正義はどこになにがあるのかをキャビネットを開けて確かめはじめた。鍋や食器、そしてカトラリーの収納場所を確認し、最後に冷蔵庫を開けて食材を確かめる。
「うわ……すごくいいお肉だな、これ。ローストビーフにでもするか……?」
そんなふうにひとしきり検分したあとで、冷蔵庫を閉じて振り返った正義はどこかうきうきとしているようだった。
「すごく使いやすそうなキッチンだな。レアさんって料理好きだったか?」
とたずねられ、そうですね、と記憶のなかの祖母を思い浮かべる。
家にやってきた人間をことさらにもてなすような人ではなかったが、けして邪険にはされなかったし、それまでの生活のなかでは知らなかったようなものを、さりげなく供されて興味を持つことは多かったように思う。
自分のための楽しみを与え、こちらがどう反応するか見ているようなところが祖母にはあった。そういう性格は、この身にもしっかりと受け継がれているように思う。
祖母は自分を楽しませる術に長けていた。庭仕事も、料理も、……あるいは周囲の人間に施す魔法のような配慮や手助けも、彼女にとっては遊びのようなものだったのだろうと、いまならわかる気がする。
宝石に関わる仕事が、どこか自分にとっての自己表現になってしまっているように、彼女がこの家で行っていたことはすべて〝レアンドラ・クレアモントとは何者か〟を知らしめることに他ならなかった。
自分はその、数少ない観客のひとりであったのだろう。
「……リチャード?」
「あぁ……申し訳ありません。すこし、祖母のことを思い出していました」
料理は好きだったようです、と答えれば、これぐらいの身長だったか? と正義が目線よりすこし下に手をかざした。
「そうですね。そのくらいでした。……どうしてわかるのです?」
「キッチンの作業台と、キャビネットの高さだな。俺にはちょっと低いけど、置いてあるものが全部使いやすそうだし……スパイス用の石臼なんか、料理する人じゃないと使わないだろ」
「あなたに名探偵の才能があるとは存じませんでした」
「……門前の小僧ってやつ? ワトソンって呼んでくれよ」
そう言えば、出会って間もないころは、幾度か探偵の真似事をさせられたのだった、と思いだして私は笑った。まだ五年ほどしかたっていないというのに、ひどく昔のことのように思える。
「私はヘロインはやりませんよ」
「死んだふりして消えるのもやめて欲しいところだなぁ」
どうやら正義も、コナン・ドイルが産んだ世界で最も有名な探偵のストーリィはよく知っているらしい。……ワトソンのように、結婚して私から離れるなどと言い出さなければいいが、と思い、そんな自分の思考を私は笑う。
「……ほかにもまだご案内したい場所がありますが、よろしいですか?」
とうながせば、正義はジローやサブローが尻尾を振るように、うん、と嬉しそうな笑顔になった。
***
「音がすこし狂ってるかな」
この家を訪れたハリーが、最初にすることは居間のピアノの鍵盤を鳴らすことだ。
古いアップライトは、ピアノに夢中になりすぎて屋敷で練習を禁じられたハリーに、気がすむまで弾いていいとレアが与えたものだ。
実家のグランドピアノには較べれば当然音は劣るが、このピアノが一番好きだとハリーは言う。
「調律を頼もうか」
「ん……アルバートに連絡を取ってみる」
馴染みの調律師の名を口にするハリーの横顔は、前回この家で見たものとは比べものにならないほど血色がよかった。とつぜん屋敷を抜け出し、姿を消したハリーを血眼になって探した。この家にいるところを見つけたときは、この家に棲みついた幽鬼に出会ってしまったのかと思ったほど存在感が薄かった。
――あの頃と比較すれば、ハリーは驚くほど元気になってきたように思う。まだ頬はこけているし、身体からはごっそり肉が落ちてしまったけれど、幽鬼のようだとは思わない。
その変化はすべて、リッキーが日本で見いだした宝石のような青年のおかげだった。
「疲れてない?」
屋敷から、車で二時間ほどの移動だ。そんなに負担が大きいわけではないとわかっているが、つい口癖のように体調を慮ってしまう。十年近い歳月のなかで、身につけてしまった習慣というのはすぐには変えられないものらしい。リッキーの過保護を笑えないな、と内心でおかしくなる。
カット
Latest / 102:18
カットモードOFF
12:54
ななし@a6742c
推敲し、深く描く過程が見られて感激です
チャットコメント
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
ウィステリアの咲く家
初公開日: 2020年05月04日
最終更新日: 2020年05月12日
ブックマーク
スキ!
コメント
藤の咲く家で過ごすふたりと目的もなく描写します。私が楽しいだけ。
きみへの祈り
お兄ちゃん独白。ホテル期間。
瞳子
あなたとは行かない
仔犬とお財布兄とのお話を書いてみようと思いますが、失敗するかも知れない。
瞳子