きみにしか話せない話があるんです。
……もしきみがいま、薬によって深い眠りに落ちていなければきっと、こんな話をすることも出来なかったと思うけれど、僕なりの懺悔だと思って、聞いてくれますか。
中田正義くん、きみにはとても感謝しているんです。
僕らだけではおたがい軋んで壊れていくしかなかった歯車を、きみがバラバラにして、組み直してくれたようなものだから。
はじまりがなんだったのか、もうずっと長いこと考えているんですけどね、きっとリッキーが生まれて、ぼくらの家にやってきたとき、それは全部決まってしまっていたのだといまは思います。
まず、僕の話をしましょうか。
「君はかわいそうな子供だね」
とあるパーティで、誰かにそう言われたのはいくつのときだったかな。僕は子供ながらに自分が恵まれた環境にいると自覚していたので、その言葉がとても意外だったんです。そのとき、僕の視線の先ではハリーがピアノを弾いていて、周囲の人間がそれを褒めそやしていた。僕もそれを聞いていい気分だった。そういうときに言われた言葉だったから、まるで背中に氷を入れられたみたいに不快だったし。
「どうして?」
と聞いたら、相手は優秀だから、って言った。君は優秀だから、とても不憫だよ、と。
そのころ、僕にとってのハリーというのは五つ年上で、乗馬もピアノ上手で、ほんとうに憧れの兄だった。ちょっと内気だけど優しく努力家でね。父は兄を歯がゆく思っているようだったけど、母はそんな兄を愛していて、弟としては嫉妬するくらいだったんです。
――でも、周囲の評価は違う、というのを、ぼくはそのときに知った。毒を吹き込まれた、というのかな。ヘンリー・クレアモントは貴族のたしなみはすべてよく出来るが、総領息子の器ではない。……ハリーは、そのとき十歳になったかならないかぐらいの年齢だったのに、そう言われていた。酷い話です。
兄を侮辱するな、みたいなことを、子供なりに言い返した記憶があります。僕の態度を、相手は笑いました。そしてもう一度言ったんです。かわいそうだね、と。そのうちわかるよ、きみはストックなんだから、って言われました。
「ヘンリー・クレアモントが死んだときのためのストックだ。貴族の次男以下なんてみんなそうだけどね。優秀であればあるほどむなしい。いつかきみにもわかるさ」
男は言うだけ言っていって離れていきました。
僕は憤慨しましたが、誰にもそのことを言えませんでした。そしてそのときから、兄を見る視線が少し変わったのはたしかでした。芸術家肌の、なんでも出来ると思っていた兄は、たしかにすべてにおいて平均以上の成績を納めていましたが、その大半は努力のたまものであることがわかりました。
僕はハリーとは逆に芸術方面は壊滅的でしたが、勉強はほとんど苦もなくよい成績を納めることが出来たので、ハリーがなぜそんなに苦労するのか不思議なくらいでした。
……けれど、そんなのはリッキーが我が家にやってくるまでの些細なやりとりです。四歳のリッキーが叔父とカトリーヌに連れられてクレアモント家にやって来た日のことを、僕は一生忘れることはないでしょう。
ずっと弟が欲しかった僕は、リッキーを引き取ると聞いてその日をずっと楽しみにしていた。友達の弟みたいに、手はかかるけどかわいい弟が、おにいちゃん、と僕を呼んでくれるものだと思っていた。
まさかあんなに美しい、天使のような……憂いと悲しみを湛えた目をした子供がやって来るだなんて、思いもしていなかったんですよ。
リッキーは、四歳にして自分が父親と母親の負担になっていることを理解していた。自分が捨てられる子供なのだとわかっていた。去って行くふたりの背中を見ても、唇を噛みはしても泣かなかった。おそろしい子供が来た、って、いうのが、正直な最初の印象でした。
美しく、賢い子供って、誰からも愛されそうなものでしょう? でも案外そうじゃないんだな、っていうことを、僕はリッキーとそのまわりの人間を見ていて学びました。あまりに完璧な存在に対して、人間は愛より怖れを抱くものなんですね。リッキーはそれでした。屋敷の人間はリッキーをどう扱っていいのかわからないようでした。
相対的に、〝不器用な〟ハリーや、〝子供らしい〟僕の評価は上がりました。僕がこういう性格なのは、あのころ、おどけていれば他人に警戒されないと学習してしまったせいもあるかも知れません。
ですが父は、リッキーを溺愛しました。孤独な美しき天才児のために、智恵子というガバネスをあてがうくらいにはね。智恵子の生徒はリッキーと僕ということになっていましたが、智恵子はリッキーのために雇われていたと、僕は断言することが出来ますよ。
そしてリッキーの存在の影響を、一番受けたのはハリーだったと思います。僕とハリーは得意分野が真逆で、僕がまったくピアノが弾けないことなんかは、ハリーの救いだったと思うんです。
でもリッキーはそうじゃなかった。リッキーはなんでも出来た。ピアノはあえて避けたようですが(そういう気遣いを八歳年下の人間からされる、っていうのはつらいものです)、バイオリンは教師が舌を巻きましたし、勉学に関してはどの方面でも僕ですら敵わなかった。オールマイティ。信じられないくらいです。僕は早々に白旗をあげることにしました。そうすることでしか自分のプライドを守れませんでしたからね。
でも、ハリーは逃げられなかった。なぜなら彼は長男だったからです。否応なくクレアモントを継ぐ立場である彼は、天才児リチャードと較べられ続け、意識しないわけにはいかなかった。
五歳のとき、アドベントのチョコを全部食べてみせたように、リッキーはそんなハリーに気を使い続け、譲歩しようと努力していました。愛されたくて、ご機嫌を取ろうとしたんでしょうね。けれど年下に気を使われること自体が、耐えがたい屈辱であることに思い至らないあたり、リッキーは子供だったんです。
ハリーは、怒ればよかったのかも知れない。あるいは、リッキーを嫌えばよかったのかも知れない。けれどプライドが高く優しい彼は、そうすることが出来なかった。己の理想そのもののリッキーを言葉では褒めてやりながら、ずっと目をそらし続けた。
……えぇ、えぇ。遺言の件などなくとも、ぼくたちの関係はとてもいびつだったんですよ。僕はそんなふたりの狭間で、ずっとどっちつかずの態度を取り続けました。かわいそうなのは誰だ、と思いながら。
少なくとも、それは僕ではなかったと思います。
リッキーとおなじ名を持つ祖父は、経歴から察せられるように貴族向きな性格ではなかったようです。
その祖父を、父はどこか小馬鹿にしているところがありました。
きっと祖父のせいでしなければならない苦労があったのだろうと思いますし、性格的にも、実務家な父には理解できないところがたくさんあったんでしょう。
おそらくですが、ハリーは祖父に似ている。だから、父はハリーに厳しかったんでしょう。いろんな要素が複雑に絡みあって、ハリーはずっと孤独でした。
僕は、そんな兄がずっと憐れでした。不器用なところを馬鹿にする気持ちもありましたが、絶対に誰のことも頼ろうとしない兄に、自分を認めさせたいと考えるようになったのがいくつのときだったか、もう思い出すことも出来ません。
〝兄にとって必要不可欠な人間になる〟というのが、僕の人生の目標になりました。
「おまえがいないと困るよ」
とハリーに言わせたかった。リッキーばかりを意識するハリーに自分の存在を認めさせたかったのかも知れない。……歪んでるよねぇ、わかってはいるんだ。
だからね、遺言が公開され、ハリーの精神がついに耐えかねて崩れおちてしまったとき、ようやくハリーが僕を必要としてくれる、と思ったんですよ。
そのうえ、ハリーの代わりにこの家を仕切ることで、ちゃんと〝かわり〟が出来ると証明してみせた自分に、満足感すら味わったんですよ、僕は。ハリーがあれだけ苦しんでいるのを知りながら、ね。
それだけでも地獄に堕とされる理由には、じゅうぶんだと思いませんか。
弱って、駄目になって、僕に頼ればいいと思ったんです。そうされることが喜びだと。
あなたはもう十分苦しんだから、いまはすべてから逃げて目を閉じていればいいってね。
僕はハリーを愛している。その愛は全然きれいなものじゃないけど愛している。
ハリーは僕のことなんか見てはいないけど、それでいいんですよ。だって彼は僕に頼るしかないんだから。……僕には、それでじゅうぶんなんです。
リッキーとデボラ嬢の仲を引き裂いたこと、後悔していないと言ったら嘘になりますけど、試してみたかったんです。彼女がほんとうにリッキーを愛しているのかをね。
僕はすべてを捨てても、世界中の人間に憎まれることになってもハリーが欲しいし、彼に生きていて欲しかった。だから、それと同じくらいきみもリッキーを愛してる? って、そう聞いてみたかったんだと思います。
彼女が出した答えを、僕は責めようとは思わない。僕が仕向けたことですし。
僕とおなじくらいの狂気を抱いていないからといって、それが恋ではなかったと僕が断ずるのは傲慢なことですしね。
……あぁ、すっかり支離滅裂だ。お酒が回りすぎたかな。
きみの寝顔があまりにも安らかで、無垢な天使みたいだから、ついこんな打ち明け話をしてしまった。
なんでしたっけ、悪女になるなら月夜は駄目なんですよね。やだなぁ、今日は満月じゃないですか。僕は嘘つきなんです。悪人は悪人のままでいないと寝物語も興醒めですよね。
ちゃんとね、愛していたんですよ。リッキーのこと、僕なりに愛していたんです。
でも選べなかった。そのことを、ずっと死ぬまで抱えていくと思っていました。
だから、僕はあなたに心から感謝している。
僕のかわいい弟を選んでくれてありがとう。
あの孤独な魂を見つけ出して、愛してくれてありがとう。
願わくばきみたちの未来が光に満ちたしあわせなものになりますように。
きみの眠りが安らかであるようにと、祈りを込めて。