インドに出張なんてそんなにあるものじゃない。
だから脚を伸ばしてしまったのは、ちょっとした出来心だった。
インドからスリランカなんてドーバー海峡を渡るくらいの距離だし、空港から彼のいる山の町までの四時間だって、昼寝にはちょうどいいくらいの時間だ。
よくこの悪路で眠れましたね旦那、とタクシーを降りるときに運転手に言われたが、どこでも眠れるような人間じゃなきゃ、こんな生活は出来ないものだ。
仏陀の歯を祀るという壮大な仏教寺院を中心とした古都の外れ、高級住宅地と言っていいエリアにあるこぢんまりとしたコテージはコロニアル風だ。かつて茶園を管理するためにこの国で暮らした英国人が建てたという家のまえに立ち、勢いで来ちゃったけど我ながらとんでもないな、と肩をすくめる。彼が――弟の手中の珠である中田くんが家を空けてはいないのはおおっぴらに言えない手段で確認済みだが、いまこの瞬間に在宅しているかどうかはわからない。さらにいえば、家に上げてくれるかどうかもわからない。
ちなみに我が愛する弟はいまモスクワだ。ふたりの逢瀬を邪魔する心配はない。ここまで来てアタックしない理由はない――というわけで僕は古い家なのにそこだけは最新型なインターホンを押してみる。
「どなたですか?」
十秒も待たないうちに、明朗そのもの返答があった。おぉ神よ、彼は在宅でした。ならばあとは強引に押し切るだけ。
「サプラーイズ!」
いつも通り、お茶目で悪戯好きなウザいお兄ちゃんの声音とテレビ用の笑顔を小型カメラに向ければ、一拍を置いて重そうな木の玄関扉がばぁんと開き、懐かしい青年がその姿をあらわした。
「ジェフリーさん?!」
声が裏返っている。やだなぁ、そんなに驚かなくてもいいじゃないか。リッキーみたいな頻度で来てるわけじゃないんだからさ、と言えば、ウォール街の恋人がいきなりやって来たら驚くでしょう普通……と真顔で返されて、それもそうかと思う。
こう見えても僕、有名人だしね。けっこうリスナーさんやらフォロワーさんやらに声をかけられるのは、日常茶飯事だし。
「仕事中だったりした? 忙しい?」
「いえ、大丈夫ですけど……あ、あの、あがってください」
「おじゃまして平気なの?」
「えぇ、今日は来客の予定はないですし……オフなんです。土曜日だから」
中田くんの言葉に、そういえば週末だったとぼんやりと思う。機内にいる時間が地に足をつけている時間とおなじくらいになる生活は、日付は理解していても曜日の感覚がなくなりがちだ。
目覚めた瞬間、自分がどこにいるのかとっさにわからないことなんてめずらしくない。そういう感覚はきっと麗しの弟にも馴染みのものだろう。
「じゃあお言葉に甘えてお邪魔させてもらうね。あ、これお土産」
手提げ袋を中田くんに手渡せば、ありがとうございます、と受けとって重さに驚いたのか、なんだろう? という顔で中身をのぞき込んでいる。
「オールドモンクだよ。インドのラム酒。知らない?」
「へぇ……ラム酒かぁ」
一瞬遠くを見るような目をしたのは、きっと弟にラムの効いたケーキでも作ってやろうと考えたからに違いない。まったく君って子は、と思いながら、僕は中田くんの足元で愛想よく尻尾を振る犬の頭を撫で、案内してくれる? とウィンクした。
吹き抜けのリビングに通されて人心地ついたあと、お腹空いてませんか? という問いにうなずいた僕に供されたのは、日本風のカレーだった。
――スリランカで、あえて日本風のカレーなんだ。
思わずプレートをじっと見下ろした僕に、なんかたまに食べたくなるんですよね、とポリポリ頭をかきながら中田くんが説明する。
「これ、リチャードとよく行った店のカレーを真似してて……わりと再現できてるんじゃないかと思ってるんですけど。付け合わせも四種類あるし」
「……そうなんだ、うん、いただきます」
ほかほかの日本米にかけられたスパイシーなルーをスプーンで掬って口に運ぶ。
日本のカレーというのは、どうやらイギリスに渡ったカレーをさらにアレンジものらしく、独自の進化を遂げた本場とはかなり違った食べものではあるが、これはこれでおいしい。
料理上手な中田くんの手にかかると、日本で食べたカレーとくらべてもかなりおいしい部類に入った。ほろほろと口のなかで溶けていく牛肉はすこし物足りなく感じられなくもないが、日本では肉に歯ごたえを求めないからむしろ食べやすいと評価されるのだろう。複雑なうまみとスパイスが米の甘みと混じりあい、空腹に沁みる。
「……おいしい……」
思わず呟くと、よかった、と笑った中田くんの表情に既視感を覚える。この、ホッとしたような、嬉しげな目元。こちらを包みこんでくるような茶色のまなざし。優しい声の響き。
……あぁ、これは智恵子だ、と思い至って、僕はひっそりと笑みを浮かべる。
日本人が全員優しいだなんて欠片も思わないが、それでも智恵子と中田くんにはどこか共通する優しさがあるのだ、と気づいて胸が詰まるような思いがした。リチャードがこの青年と働くようになって、そのことに気づかなかったわけはない。
あいつが中田くんに惹かれたのはそれもあるのだろうか? ……もっとも、それを確かめようとは思わないけれども。
「リチャードが、よく連れて行ってくれたんです。仕事のあとに。……パフェなんかのデザートが有名な店だから、あいつはそれが目的だったんでしょうけど、俺はその店のオムライスとカレーが好きで。……俺、ナイフとフォークの使い方も最初は危うかったから、それを教えてくれるっていう話だったんですけどね、最初は。結局いろんなことを話したり、いっしょにごはんを食べるってこと自体が楽しくて、いま考えたらけっこう舞い上がってたんだろうなぁ……」
そこのカレーなんです、と、聞きもしないのにうっとりと思い出を語る。もともと無口な方ではないが、今日の彼のおしゃべりはいつもとはすこし違う気がした。
いつもなら、もうすこし目の前の僕を意識して、僕との会話を楽しもうとする様子が見られるのだが。今日の彼は心ここにあらずといった感じで、すこしだけさみしそうに見えた。
「……もしかして、さみしい? あんまりリッキーに会えてないとか」
からかうつもりで言ったのに、揺れた瞳を見て後悔する。
図星。しかもかなり重症らしく、中田くんはごまかすように笑ったものの、自分でも無理があると思ったのか手元に視線を落とした。
熱帯というのは日向に出れば暑いものだが、こうして室内で風を感じているぶんには心地いいものだ。緑や土の匂い、騒がしいほどの鳥の声、前の道をときおり走り抜けていく車やバイクのけたましいエンジン音。そしてテーブルの下に横たわる犬のスースーという寝息。
気持ちのいい午後、目の前にあるのはおいしいものと気の置けない友人(?)であるはずなのに、楽園のようなこの場所も、リッキーがいなければすべて意味がないのだと中田くんの態度は言わんばかりだ。
きっと、どんな言葉をかけたところでこういうときは意味がない。僕がそっか、と受け流してスプーンを動かし続ければ、彼もまた無言で食事を再開する。
「本家本元の方のカレーも食べてみたいなぁ、これ。今度機会があったら連れてってよ、僕も」
大半を食べ終えたところで、ジンジャービアで口をさっぱりさせながらそう言うと、中田くんは一瞬考え込むような表情になった。それからふっと笑って、すいませんけど、とあっさり断られてしまう。
「あの店には、リチャードとしか行きたくないんです。……たぶんあいつも、そう思ってくれてるんじゃないかな」
存外強い光を湛えた瞳で僕を見返して、ごめんなさい、と頭を下げた中田くんはちょっとだけ、元気を取り戻したように見えた。
「……君にも、独占欲ってちゃんとあったんだねぇ……」
なんにも欲しがろうとしない困ったちゃんだと思っていたけど、弟の涙ぐましい努力が実ったのだろうか。あの中田くんも、普通なら溺死するだろうリッキーの過剰な愛情を、自分に向けられたものだと認識出来るくらいには生長したものらしい。
「俺、けっこう欲張りだと思うんですけど」
僕の言い草に、不本意そうに言葉を返す中田くんの自覚はまだまだ薄そうだ。
まぁいい。この子のいいところはこういう部分と裏表なのだから、本人に言うより弟にコンタクトをとった方が早いし効果的というものだろう。
――君の仔犬がさみしがってるよ。本人は欲張りなつもりでいるみたいだ。
あとで弟に送るメールの文面はどう書くのが一番効果的だろうかと考えながら、僕は
「おかわりもらえるかな?」
と空になったグラスを揺らしてみせた。