逆光の黒々とした木の輪郭を覚えているので、きっと夏の記憶だろう。
僕は祖父に手を引かれて歩きながら、それを見上げている。もしかしたら木を見上げているのではなく、祖父を見上げていたのかもしれない。
祖父は昔の人にしては背が高く、僕はよくそれを眩しそうに見上げていた。
しかし、祖父の顔はあまり覚えていない。顔の造作というよりは、どんな風に笑うのか、といった、人間的な表情のことだ。僕に温かく接してくれる、僕と絆を結んだ祖父の表情だ。正気だった頃の祖父の顔は、ほとんど思い出せない。思い出せなくなってしまった。
祖父はすでに僕のことを全く認識できなくなっていた。
祖父の様子を見ていると、自分との思い出がまるで無に返ってしまったかのように思えて、とても空しくなる。
担当の職員さんによれば、最近彼は安いスケッチブックに一心不乱に何かを描いているらしい。施設の白い廊下を歩きながら職員さんが説明してくれる。何を描いているんですかと聞くと、決して見せてくれないから、私にも分からないんです、と答えた。
祖父は庭が見える明るい談話室で絵を描いていた。タイミングの関係か、普段は周りにちらほら見える人影も見当たらなく、祖父はポツンと、しかし黙々と自分の作業に向かっていた。
色鉛筆のような尖ったものは持たせられないからと、幼稚園児が使うようなクレヨンを渡されているのが痛ましい。目を離していると、クレヨンを口に含んでしまうこともあると、職員さんは言いにくそうに話してくれた。僕はどんな顔をすればいいか分からなかった。
職員さんは他に仕事があるらしく、先ほどのような―クレヨンを食べさせないように、というような―悲しいような注意点を気遣いのある口調で僕に教えてから、その場を離れていった。
僕はとりあえず祖父の視野に入る角度から―俯いているから、どのみち大きな声で呼びかけて顔を上げてもらわないといけないのだが―近づいて、挨拶をした。
会いに来るたび僕と祖父は他人になってしまっている。むしろ、下手な他人よりも不良な関係に陥ってしまう。目の前の祖父は僕との楽しい記憶を持っている祖父と同じとはいいがたい存在になってしまっているのに、僕は祖父に期待を抱いてしまうからだ。
とはいえ最近は期待する時期も過ぎ、正気を失った祖父とどうやって接すればいいか、実のところすっかり分からなくなっていた。仕事で忙しい両親の代わりに、家族の中で最も時間が自由になる僕が、祖父を訪ねてきているに過ぎない。少なくとも近頃は、期待よりも義務感のほうが大きくなりつつあった。
「何を描いているの?」
手持ち無沙汰になって、問いかけた。彼の抱えているスケッチブックを覗きこもうとすると、彼は僕のほうに視線を寄越した。
他人を見るような、警戒心と敵意に満ちた目だった。
僕はその目を見て、突然どうしようもない怒りを覚えた。
僕が祖父と過ごした日々は、何の意味もないものだったのだろうか。
僕がずっと覚えていても、祖父があの日々を忘れてしまって、僕との関係を忘れてしまっているなら、それは存在しなかったのと一緒なのではないか。
僕は彼の腕を引っ張った。祖父は目を見開いて、警戒心から恐怖心にその顔色を変えていく。なんでそんなに、僕みたいな若造に脅かされているような顔をするんだ。僕の祖父は決してこんなに弱弱しい存在ではなかった。
スケッチブックを庇うようにして祖父は僕から距離を取ろうとする。僕は怒りと悲しみとで引っ込みがつかなくなり、なおも彼の袖を引っ張ってスケッチブックを奪おうとした。
こうなるともう意固地だ。祖父はこんなことになる前から、こだわりのある事に関してはとても頑固だったし、僕もその血を受け継いでいるのか、よく母から、あなたの頑固さはお父さん―祖父のことだ―似かもね、などと言われていた。争いはエスカレートしていって、職員さんが飛んでくる事態になってしまった。
「もうあんたなんて知るか!」
怯えきった祖父の、他人のような祖父の表情を見て、僕は逆上して叫んだ。ひどく情けない気分だった。大声を出して怯んだ祖父や、割って入ろうとしていた職員さんの隙をついて、僕は押さえつけていた祖父の腕を反対に払いのけ、祖父が不器用に抱え込んでいたスケッチブックを弾き飛ばした。
ばさばさとよれた安い紙束がページを開いて地面に落とされた。
真っ黒な絵。安い画用紙全体に広がった黒い放射線のような線。
それは何の意味もない、子供のらくがきと同じものかもしれなかった。けれどそれを見た瞬間、僕の目頭に突然熱が集まって、自分に面食らってしまった。
抑えようとしたがこらえきれなくて、ぼたぼたと涙が流れ落ちてくる。奇妙なまでの大粒の涙だな、と変に冷静な頭の片隅が考えていた。
僕の人生の中でこんなに悲しく、切ないことはなかった。好きな女の子にフラれた時も別にこんなに深刻ではなかった。脳天から爪先まで槍に貫かれたような強い感情が身体を支配して、まるで身動きも取れずに泣き続けてしまう。
祖父はさすがにオロオロし始めていた。そして、
「痛かったか?」
とトンチンカンなことを聞いてくる。
僕は涙を流しながら吹き出してしまった。
悲しくて身動きのとれないまま、ただ笑いが口の端からヒュ、ヒュ、と、隙間風のように漏れ出ていった。
僕の祖父は居なくなってしまったわけではない。この世にまだ生きている。生きていてくれている。でもそれが、今は余計につらい。