言葉のない状態での自分の意識など想像できない。人間が先にあり人間が言葉を使うのだ、というが、言葉のない状態で生きてきたことはないので、そうすると人間が言葉「を」使っているという話に、なんとなく疑いが芽生えてくる。
他にも色々ある。生きていくうえで必ず存在するさまざまな要素が抜けた時に、果たして当たり前に思っていた要素が成立しうるのか。
結局これは思考実験に過ぎず、本当の、現実を知りたければ、言葉をなくして育った人間や、男や女という性別をなくして育った人間を知らなければならない。
しかし結局完全に「言葉だけ」がなく生きてきた人間もいない。男や女という「性別だけ」がなく生きてきた人間もいない。言葉を得られなかった人間は、同時に多くのものを欠落して―それこそ文化的な生活であるとか―そもそも養育する一般的な大人であるとか―生きてきているので、純粋な比較実験にならないわけである。それもそのはず、こんな実験は人道的にありえないからだ。何もかも揃った通常の人間から、言葉「だけ」を取り除いて生活した場合、どんな意識が立ち現れるのか。そもそも人間は、言葉を持たない状態で・・・言葉「らしきもの」を持たない状態で、生きていくことができるのか。そのことに疑問を持つのは、言葉で自意識を定義することに駆られる現代人だから感じることで、時代が違えばもっと―失礼なことだが―言葉に手綱を握らせなくても、人間として、成り立つのだろうか?
それは人間と呼べるのだろうか?少なくとも懊悩の面で。
懊悩を持たない人間が居たとき、私は同じ人間として認識できる自信がない。これもまた、時代に縛られた感覚なのかもしれない。
カット
Latest / 15:33
カットモードOFF