白夜「光の中」「やわらかな」「永生」
「白夜、という現象を知っている?」
目の前の男はやわらかな笑みを浮かべ、まるで幼子に問い掛けるかのように穏やかな声音でそう言った。よく晴れた初夏の午後。わたしたちは青々と葉を茂らせる大木の下、少し湿った土の上にハンカチを敷き、そっと寄り添い合って座っていた。
葉の隙間から、陽光が降る。光は彼の顔にそっと降りかかって優しい影を生み出していた。時折彼の睫毛がきらりと光る。美しい男だ、とわたしは改めて感嘆の吐息を洩らした。名前は知らない。出身地も、彼が何歳であるのかも、わたしは彼について、何も知らない。
「……知らない」
彼の問いから随分と間を空けて答えると、そっか、と簡単な相槌が返ってきた。大して意味のある質問ではなかったようで、然して落胆しているようには見えない。
「白夜っていうのはね、始まらない夜のことだよ。太陽が沈んでも、空は仄かに明るく光を失わないでいる。本来訪れるはずだった夜闇は姿を眩ませて、ぼんやりと世界は白んだままなんだ」
「ふうん……」
中々に要領を得ない説明だった。彼の言葉はいつでもそうだ。夢を見ているように輪郭が曖昧で、掴み切れないのに心に不思議な感触をさらりと残す。まるで地に足が着いていない。風が吹けば飛んで行ってしまいそうに現実味のない彼の言葉は、しかし何年経っても忘れることが出来ないのだろうと、わたしは思う。
始まらない夜。闇を失った夜というのは、一体どのようなものなのだろう。続きを聞こうと彼を見遣れば、青年は眦を垂らして目を細め、慈しむような笑みを浮かべた。それはどこか、泣き出す寸前の表情に似ている気がした。
「……白夜は美しいよ。君もいつか、見てみるといい。ただ、少し化粧を抑えていったほうがいいかもしれないね。涙が滲んで目元が黒くなるかもしれない」
「何それ。化粧が濃いって言いたいの? しかもわたしが泣く前提?」
予想外に失礼な言葉を掛けられて、わたしはむすりと眉根を寄せる。すると彼は、「きっと君は泣くだろうさ」と謳うような調子で言った。耳触りの良い掠れた声は、いつでも耳朶を柔らかく打ち、夢のように響いて消える。
「まるで永遠を生きているような心地になるよ。もしくは死後の世界に似ているのやもしれないね。誰をも受け入れる光だけれど、その中を歩くのは随分と寂しいものさ」
そっと彼が目を伏せる。その表情は、生きることに疲れ切った老人のようにも見えた。……わたしは、彼のことを、何も知らない。