ロレッタを怒らせた。
きっかけは、いつもの船の大掃除。持ち場の先輩海賊の監視の目を盗んで、例のごとく脱走を謀ったロレッタと、船の入口で偶然鉢合わせたのは、幸い、と言うべきなのか。
蛇に睨まれた蛙のように、物の見事に固まって動けなくなっているロレッタを、見なかったことにするのは、正直、容易い。この忙しさの中、誰に咎められるということもないだろう。しかし、目の前で堂々と働かれる悪事(しかも、同じ海賊相手に)を見過ごせるほど、俺は器用な人間でもなくて。
ひらひらとした袖口のレースを捕まえて、彼女がもと来た道を引き返しながら、俺はありったけのお説教を浴びせた。俺自身も、やるべきことは山積みで、思うように作業が進まず苛立っていたのだと、今では思う。いつもは、言い負かす勢いでのらりくらりと繰り出される彼女の反論も、いつの間にか聞こえなくなっていたと、気づかなくて。
いつもだったら、文句を言いながらも、手を引かれるままに大人しく着いてくるはずの彼女の足が止まって。振り返った俺の鼻先に投げかけられた言葉は、驚くほど淡白で。
「もういい。あんたなんか、知らない」
心当たりなんて、わからなかった。
慌ただしい作業は無事に終わり、船は出航した。船は進路に向けていい風を掴まえたようだが、こっちはまだまだ大時化が続きそうだ。
ロレッタは、船が出航するや否や、自室に籠って出てこなくなってしまった。荒れるこちらの空模様と打って変わって、何故か機嫌の良さそうなジュジュビエーヌが異変に気づき、『ゴールドが何か知っているようだ』と察するまで、そう時間は掛からなかった。
観念して事の経緯を語ると、ジュジュビエーヌは呆れながら俺に何やら小包を押し付けてきた。
「これ、もらい物だけどあげる。ロレッタに渡して」
「届けものなら、俺なんかより自分で渡した方が」
「違うよ、ばか。いいから、ロレッタとちゃんと仲直りするまで、戻って来るんじゃないよ」
そう言い放って、ジュジュビエーヌは小包共々、俺を食堂から追い出した。腕の中でかさりと音を立てる小包の中には、これまたどういうわけか、ドーナツが入っている。…なんで、ドーナツ?
とにかく、このまま永遠に食堂に入れなくなっても困るので、言いつけ通り、俺は彼女の部屋までやってきた。意を決して叩いた扉の音に、家主は存外素直に応じて、姿を見せる。
と、思ったのも束の間。
「…おい!人の顔を見るなり、それは失礼じゃないか…?」
「だって、知らない顔だったの」
勢い良く締められそうになった扉に、すかさず足を入れてねじ込む。木の板1枚を巡る攻防に、女海賊は容赦が無かった。
「そう何度もばしばしするなよ。膝のお皿が割れそうだ」
「治せばいいでしょ、自分で」
再び打ち付けられそうになった扉に、腕を添えて。何とか肩までねじ込んだところで、ようやくロレッタは諦めたようだった。けれど、きっ、と見上げた視線は、拒絶するようにこちらを真っ直ぐ見据える。
「そんな物騒な顔するなよ。…謝りに来たんだって」
「何が悪いかなんてわかってないくせに」
「…それは、そうだけど……」
口篭る俺に、ロレッタは何も言わなかった。代わりに「ほらね」と言わんばかりの冷たい視線が返ってきて、更に言葉に詰まってしまう。ふっ、と脳裏にジュジュビエーヌの姿が浮かんだけど、無視した。このタイミングで呑気にドーナツなんて出そうものなら、いよいよ命が危ない。…なんだよ、全然役に立たないじゃんこれ。
「…なあ、ロレッタ。話だけでも」
「あんたと話すことなんてないんだけど」
「それは、そうなんだろうけど、」
でも、分からないから。俺が、いつも通り投げかけたつもりの言葉の、どれが、傷つけてしまったのか。だから、知りたい。もう、そんな顔をさせなくて済むように。
言いたい言葉も、かけるべき言葉も、いっぱいあるはずで、手がかりはあるのに、手を伸ばそうとすると、喉元で消えてしまって。何とも言えない苦しい静寂は、思いがけない音で、終わりを迎えることになる。
「…」
「…」
「…」
「…なに」
「いや…。もしかして、お腹、減ってる?」
「悪い?減ってちゃ」
「いやっ、そういう訳じゃ、ごめん」
咄嗟に否定しようと前に出そうとした手が、託されてたものの感触をそう言えばと思い出す。…まさか、こうなることを予想してたわけじゃないよな。さすがに。
「なあ」
「…なに?」
「ドーナツあるけど、いる?」
「………あんたがどうしてもって言うなら、食べてあげる」