遠くから彼女が走ってくる様子が見え、俺は軽く手を上げた。
「ごめんね、ハルトくん!」
「ううん、大丈夫。…なにかあった?」
俺が彼女の顔をのぞき込むと、彼女は小さくかぶりを振った。
「ただ単に遅れちゃっただけ。ごめんなさい。待たせちゃったよね」
「…そうでもないよ?」
腕時計は約束の時間よりもほんのすこし過ぎたところをさしている。俺が約束の時間よりも結構早く到着してしまったのは、彼女との久しぶりのデートで、そわそわしてしまったから。でも、それは俺の勝手な都合だから、彼女のほんの少しの遅刻とは関係がない。…ただ、彼女が待ち合わせに遅れることは滅多にないから、珍しいと言えば珍しい…かな。
「そんなに必死に走ってくること無かったのに。顔も赤いし、息もきれてる」
「あ…うん。すぐに落ち着くと思う」
彼女は息を落ち着かせるために、胸に手のひらをあてて、大きく深呼吸を繰り返す。
「整ったなら、行こうか」
俺は彼女に向かって左手を差し出す。それをいつも通りとってくれた彼女の小さな手が、いつもより今日はすこし暖かく感じられた。
「手のひらまで暖かくなってる。…ありがとう、そんなに一所懸命走ってくれて」
「当たり前だよ! 少しでも長く一緒にいたいもん…遅刻しちゃったけど」
気にしない気にしない。そういって俺は彼女の頭を軽くなで、そのまま頭に腕をくるっと巻き付けるようにして頭頂に口づける。
「もう! ハルトくん、人前!」
「…ごめん。かわいかったから」
恥ずかしそうに上目遣いで俺を見る彼女の瞳がかすかに潤んでいる。かわいくて今すぐキスしたいけど、後のお楽しみに取っておこう。あまり人前でそういうことをして彼女を怒らしてもいけない。
再び歩き出すと、彼女がつないでいる手をくいっと引いてきた。
「…? どうかした?」
「あのね、今日は私のショッピングじゃなくて、ハルトくんの行きたいところに行くことにしてもいい?」
…どういうことだろう。
「君は今日洋服が欲しいって言っていただろ?」
「あー、あれね、今日じゃなくて大丈夫だから。ほら、服の買い物って長くかかるでしょ? 久しぶりに会えたんだもん、ハルトくんに退屈な思いさせたくないの」
「俺は君が買い物をしている様子を見るのも好きだけど。百面相みたいで」
「え、ひどーい。そんな風におもってたんだ? ともかく、今日はいいから。ね?」
かたくなに言い張るには何か理由があるのかもしれない。意外に頑固なところがある彼女にこれ以上言っても仕方ないと思い、俺はたいして用事もないけれどとりあえず本屋に彼女を連れていくことにした。
続きものの小説が刊行していたのを平積みで買い、彼女とそれについて少し言葉を交わした後、俺は仕事で使う専門書コーナーへと一人向かった。それこそ彼女が付いてきても退屈なのは確実だ。すこし店内を見渡すと、彼女は店内をふらふらと所在なさげにあるいていた。
俺は手早く会計を済ませると彼女と手をつないで店の外に出た。
「良い本買えた?」
「おかげさまで。付き合ってくれてありがとう」
「どういたしまして。次はどこに行くの?」
「君の家」
「…え?」
驚いた様子で彼女が立ち止まる。俺は少しだけ強引にその手を引っ張った。
「君と一緒にいられればどこでも良いんだ。だから…ね?」
「…えっと、ハルトくん、ごめんなさい、うち今日全然片付いてなくて…その…」
「かまわない」
どんどん歩いていく俺に戸惑っていた彼女は、とうとう俺の手を振り払った。
「ごめんなさい、ちょっと、今日、そういうことは…その…」
泣きそうに震えながら下を向いているのを強引に引っ張って、俺は自動販売機の脇に彼女を囲い込んだ。
「本当に、今日は…そういう気分…」
「…どうして?」
「ど、どうしてって…えっと…」
その顎にそっと指を添え、上を向かせる。唇をよせると彼女は顔をぐいっと背けた。
「…あ…ちっ、ちがうのっ。ごめんなさい、ハルトくんとキスがしたくないっていういみじゃなくて…!」
「…わかってる」
俺は彼女の手首を持ってすたすた歩き始める。
「ハルトくん、どこに行くの?」
「言っただろう? 君の家に帰るんだけど」
俺は振り向きもせずに前へ進み続ける。
「え、ちょっと待って。ねえ、怒ってる…よね?」
「…ある意味ではね」
俺がそう答えたきり、二人の間に会話は途絶えてしまう。あまり早足になり過ぎず、しかし確実に早く家に着くスピードで進み続ければ、彼女の家にたどり着くのに、そう時間はかからない。
彼女が渋々家のドアを開ける。俺はお邪魔しますと小さくつぶやいて彼女を寝室に連れ込んだ。
「そ、そんないきなり。どうしたの?」
そのままベッドに押し倒す。
「え。待って、ハルトくんらしくないよ」
二人で布団をかぶって、俺だけするりと抜け出した。
「君こそ。俺に隠し事なんて、らしくないんじゃないか?」
「隠し事なんて」
でこはかり
「ほら。やっぱり」
「……朝は熱なかったんだよ? 本当だよ?」
「疑ってるわけじゃないよ。けど、だるさは感じていたんじゃないか? 体調が悪いときは無理しちゃだめだろ」
「だって」
「ん? なに?」
「久しぶりにハルトくんに会える予定だったから」
頭をなでる。熱があがっているのか、髪の生え際が汗ばんでいた。
「ここにいるよ。今日デートが終わる予定だった時間まで」
「でもうつっちゃうかも」
「映らないよ」
「…なんで?」
「君を悲しませないため。でももし俺が君からうつったら、その時は君が看病してくれる? 抗体もついてるだろうし」
「うん、もちろん。でも…まずはうつらないで」
「その前にまずは君が風邪を治して」
「わかった。心配してくれてありがとう」
「どういたしまして。もう、隠さないで。わかった?」
「うん」
頷く君は出会ったばかりの頃のようで。
すーすー。
君の寝息をBGMに読む本はきっと特別な思い出に残るだろう。