写経します
中村文則『悪と仮面のルール/講談社文庫』
七十七頁
 ――過去
 自分の部屋から出、地下へ降りていく父の後をつけたあの時の僕は、激しい動揺の中にあった。
 追い詰められるように、父の後を追っていた。これをやり遂げなければ
今後の自分はないのだと、肩のリュックサックを意識しながら、頭の中で繰り返していた。少しでも躊躇の思いがよぎればそこで止まってしまうような、また次の機会にと都合のいい思いに逸れてしまうような、不安定に乱れる意識の中で父を追った。
 地下のあの部屋に父を閉じ込める計画が失敗した場合、僕は鉄パイプでも何でも、やみくもに使って父を打とうと思っていた。父の命を終わらせることができるのなら、どんなことでもしなければならないと思った。父の身体は加齢のため小さく、当時の僕はまだ十三歳だったが年齢の割に背が高く、つかみ合いになったとしても、肉体的に圧倒するのはわかっていた。そうであるのに、十四歳に満たない自分に罰を与える法律がないことは、僕をささやかに勇気づけた。
 父は階段を降りトビラを開け、地下のスペースに入った。地下のライトがトビラの隙間からもれるのを待ち、父がトビラから離れるのを待ち、僕も慎重にトビラを開けた。トビラには前もって油を差し、音がなるべくしないように細工していた。だが、この一年で極端に耳が遠くなった父には、いずれにしろ聞こえないだろうと思った。物置として使われている地下、その古びた家具や木材などの間を、父はゆっくり歩いていく。僕は模様の剥がれた巨大なタンスの陰から、様子を見ていた。僕の吐く息でタンスに付着した糸に似た埃が揺れ、引き出しについたむき出しの皮膚のようないくつもの傷が、何かを主張しながら目の端にちらついた。
 父は、なぜあの地下の隠れた部屋に行くのだろうか。あの時の僕は、途切れそうになる意識で考えていた。昔はごくまれに地下へ降りていく程度だったのに、ここ二年ほど、ほとんど一ヶ月に一度のペースで地下に降りていた。あそこで、父は何をしているのか。逸れていく考えをまた戻し、僕は父の姿を目で追った。父がそこで何をしているのかは関係なく、自分はただ、父の身体と父の思考を動かす、あの父の命を終わらせることができればいいのだと思い続けた。父が布をずらし、さらに地下へと続く入口の板を開ける。僕は何かに頭を打たれるようで、段々と視界が霞んだ。目の前に、人間を殺す機会があった。目の前に殺人という現象があり、自分は今、それに対峙しているのだと思った。だが、僕は爪を立てて自分の膝を激しくつかみ、殺すのではない、と自分に言い聞かせようとした。僕は父を閉じ込めるだけであり、父はその中で勝手に死ぬのだと。自分がすることは、父は地獄を伴って僕と香織へと向かうその父の通路を、塞ぐだけなのだと。隠れた部屋へ続く階段を、父が降りていく。鼓動が痛いほど激しくなり、僕は足音を殺すことだけを考え、何とか近づこうとした。
 今この入口の板を戻し、上に家具を置いて閉じ込めたとしても、防音ではないこの板では、父が下から叩き続ければ誰かが気づくかもしれない。ここに来る人間などいないが、可能性はゼロでなかった。僕は息を飲み、耳を澄まそうとしたが、自分の呼吸が邪魔をし続けた。だが、階段の下からあの部屋のドアが開き、そのまま閉じる気配がした。僕は痺れていく手に力を入れ、意識的に息を吸った。
 今から自分も階段を降り、このリュックからクロタマゴテングダケの入ったケースを取り出し、ドアを一瞬開けて中に投げ入れ、またドアを閉める。そして用意した棒でドアのレバーのノブをとりあえず固定し、父を閉じ込め、さらにその棒をクーラーの残骸と取り替えしっかりとはめ込み、ドアを塞ぐ。クーラーの残骸はまるでそれがつくられた目的であると思えるほど高さがちょうどよく、奇妙なほどに、ドアのレバーと階段の間にしっかりとはまり込むのだった。。そして階段を駆け上がり、蓋の板をはめ、その上に重さのある家具をずらして全てが終わる。僕は、もうやるしかなかった。殺すのではない、自分と香織へと続く父の出口を塞ぐだけなのだと、何度も言い聞かせた。これは僕の人生に初めて生じた、やらなければならないことだった。取り除かなければ自分の全てが崩壊する、僕の人生の途上に出現した、重石のような初めの塊だった。リュックからクロタマゴテングダケの入ったケースを取り出し、階段を静かに降りる。足が震えているが、どうしようもなかった。喉が渇き痛みを感じ、なぜか、僕はその痛みを覚えておこうと思った。階段の脇のコンクリートの壁に深いヒビがあり、なぜかそのヒビが深かったことも、覚えておこうと思っていた。狭くなっていく視界に、かすかにドアのレバーが見える。あれを一瞬開けるのだ、と思った瞬間、目の前のドアが開き、圧倒的な光で目が打たれた。逆光を背にし、父が立っている。僕は声を上げ、目の前の父を両腕で押した。
 あの時、僕はなぜ父の身体を押すことが出来たのか。父の身体を押し、父をドアの向こうの部屋に、突き落とすことができたのか。ドアの手前から見ると部屋の床はやや低く、このドアの下には部屋へ降りる二段ほどの段がある。あの時僕は、自分が父の身体にふれたのは、いつ以来だろうと、その場にそぐわないことを呆然と考えていた。もしかしたら、最初の記憶、ようやく立つようになった僕が父に足でどけられて以来かもしれなかった。押すことが、ふれることができたのは、恐らく逆光となった光により、父の姿が影となりはっきり見えなかったからだった。父は部屋の床に倒れ込み、ドアの前に立つ僕を見上げた。僕は、身体が動かなくなった。
 父は部屋の床に座り込み、痛めたのか、足に手をやった。僕と父の間には、部屋からドアに上る二段の階段があり、僕はドアの前でなおも立ち続けていた。部屋にある白いベッドが、なぜかわずかに膨らんでいる。何かの、遺体のようなものが微かに見えたが、あの時の僕は、それどころではなかった。クロタマゴテングダケのケースを投げ、ドアを閉めなければならなかった。だが意識が実際に消えていくようで、自分の腕に、伝わる何かが遮断されるようで、腕に力が入らずこのまま何もできるわけがないと思えるほど、意思も指先さえも動かなかった。状況についていくこともできず、僕はその場で立ったままただ父を見ていた。
「……なるほど」
 父が、小さく言った。僕はその声を聞いた時、心臓に激しい痛みを覚えた。父が、僕の肩のリュックサックに視線を留めている。
「殺すのか。そうか。……覚えていたか」
 父は、足に手をやりながらも、無表情だった。父の半分に欠けた左の耳がやけにくっきりしていた。
「お前の教育に関すること。……あれは何だったのか。何か恐怖に関することを言っていたという記憶ではなく。……実行されるものとして、確実な予定として、覚えていたか。私があの娘を部屋に呼んだのも、影響したらしい」
 僕は、なおも動くことができない。
「お前は、やはり『邪』になる素質があった。クズになれる素質があった。このようなことを、考えるのだから。……羊のように大人しくしているのではなく、親を殺そうと考えるのだから」
 父は、なおも表情を動かさない。
「覚えておくといい。……幸福とは閉鎖だ」
 僕はベッドの膨らみを気にしている自分に気づき、天井の白い照明が、少し弱くなっていることに気づき、そしてこのような状況で、意識が他へ逸れていく自分に気づいた。視線を無理に戻すと、当然のことながら、目の前にはまだ父がいた。
「お前が『邪』になる素質があった最大の理由は、私の血を受け継いでいることだ。私がこれまでどういう人生を歩んできたか、いずれお前の兄姉に聞いてみるといい。……お前に地獄を見せることはできなくなったが、同じことだ。お前は私を殺すのだから、お前は人間を殺すのだから」
「違います」
 なぜあの時、僕は不意に言葉を出すことができたのだろう。
「……殺すのではありません。僕は、あなたの通路を」
「人間を殺すということは」
 父は、僕の言葉をつまらなそうに無視し、言葉を続けた。
「この世界にある決定的な第一線を、踏み出すことだ。……なぜ、人間を殺すとそうなるのか。それは、人間の生物としての本質によるものだ。生物は、基本的に同種を殺さないようにつくられている。本能が邪魔をするのだ。生物学の本でも読んでみるといい。共食いという現象は、あくまでも稀で特異なケースでしかなく、あらゆる生物が、本能で、人間でいえば無意識で、基本的には同種を殺さないように有史以前から動き続けている。古来からの、生物共通の基本ベースでそうなっているのだ。……それを人間特有の理性や意思で踏み越えれば、理性や意思で、殺人へと踏み込めば、当然のことながら、その人間は誤作動を起こす。罪悪感、などというものではない。本能的な拒否を消化できず、いつまでも、その生物の歪みの中で苦しむことになるのだ。殺人による罪悪感とは、理性のレベルでは、他人の秘密を抱えるストレスや、自分は善人であるという自己の認識が破壊されたことによる苦痛であるが、生物としての人間のレベルでは、同種を殺害したことの生物の歪みが意識化され表面化されたものに過ぎない。社会通念や道徳も、遥か昔の、そういった生物の歪みが意識化され共有されたものに過ぎない。だから道徳を越えたと得意になったとしても、意味はないのだ。殺人を正当化し理性で包むのはまやかしだ。言い聞かせるように、自己への洗脳に過ぎない。……もちろん、人間は無意識の発動によっても同種の殺害を起こすことがある。無我夢中という状態だ。だがそれは、深層からの無意識の暴力性の噴火が、表に出る過程で人間特有の理性や意思や暗い感情に侵食された層を通過することで、本来他種への攻撃性や激しい性衝動としての攻撃性だったものが、同種殺害へと変容してしまった現象にすぎない。……その無我夢中の動きは突発的に表へ出るが、長続きはしない。長く安定的に眠る無意識の深い根本ともいえる層は、その人間よりも生物に近い領域は、そのことによる違和感で不気味な影を含み歪み続けることになる。生物は他種を激しく殺害し、同種を激しく攻撃はしても、同種の殺害はしないように根本的にはつくられている。自己への洗脳をやめ、真正面から受け止めた時、その生物の歪みに人間特有の細やかな意識は耐えることができない。お前は決定的に歪むだろう。私のように」
 僕は、父が椅子に座っているように思えてならなかった。父が椅子に座り、ここは父の書斎で、僕は立尽くしたまま、父の話を聞かされているのだと。逆光で、また父の身体が影になっていく。だが、窓のないこの部屋の中央で床に腰をつけている父が、逆光で影になることなどあるわけがなかった。
「何も変わらない。お前は『邪』となる。この世界に負として働く存在になる。お前は私を殺すことで、私をその内部に取り込むことになる。他人の命を損なうというのは、そういうことなのだ。そしてそれが、殺人の、ある意味で最も魅力的なところだ。他人を取り込む。生物としての歪みと引き換えに」
 父が、静かに息を吸う。僕は自分が父の書斎にいるようでならない。
「お前はその歪みが意識化した罪悪の感情により、苦しむことになる。人殺しとしての自分に耐えられなくなる。人間を殺した人間は、これから、全ての温かなもの、美しきものを、真っ白な感情で受け入れることができなくなる。何か幸福なことがあった時、その瞬間に、しかし自分は人間を殺した人間なのだという事実を突きつけられるだろう。命の喜びを感じた時、しかし自分はその命を損なったという事実に苦しむだろう。特に、お前のような貧弱な精神では、それに耐えることはできない。ましてやお前には、私の遺伝が流れ込んでいる。自分が殺し存在を否定した人間のDNAが、埋め込まれている。私はこれから、お前が幸福になる度に、お前の意識の中に出現するのだ。この部屋に閉じ込められ、飢え、お前を恨みながら、目を剥いてのたうちまわる姿として、お前を責め続けるのだ。お前の中に流れる私の血液を通して、お前の中にある私の血液を沸騰させるように、お前の脳の中にある私から遺伝された脳細胞の全てを通して、身体全体を通して。お前は私を取り込むのだ。私はお前の中で動く。永遠に。もうお前に幸福はない」
 僕は、呆然と立つだけだった。
「お前はこれから、世界の幸福を平然と見ることはできない。なぜ自分はこれほど苦しいのに、他の人間達は幸福なのかと、お前は思い続けるのだ。なぜお前がそうなったか。私のせいか。違うのだ。全ては、人間というものの、性質によるものだ。人間が、そもそも悪になる可能性があるものとして、つくられているからだ。同種を殺さないように基本的につくられているにもかかわらず、そこに踏み込もうと思うことができ、実際にそれを踏み越える行為をすることができ、あらゆる欲情を所持することが可能な存在として、つくられているからだ。恨むべきは、この世界の成り立ち、人間そのものの不完全で矛盾した成り立ちなのだ。不公平を生むこの成り立ちなのだ。幸福とは閉鎖だ。幸福とは、お前のような存在を、お前のように苦しみや悲痛を持つ人間達を無視し、飢えや貧困を無視した上に成り立つ、運のよかったもの達だけが享受することができる閉鎖された空間なのだ。お前は、全ての幸福を恨め。人間を殺した人間は百パーセントの善を手に入れることはできないが、百パーセントの悪であるのなら手に入れることができる。それがお前の生きる道が。お前には力があり、資金がある。全てを破壊しろ。あらゆる人間とあらゆる幸福の全てを破壊する強大な悪のエネルギー、その業火に身を昇華することで、お前は激しい快楽の一点に到達することができる。それは連続通り魔や、爆弾テロなどといった、そんなつまらないものでは絶対に得られない。もっと巨大な悪だ。もっと巨大な」
 部屋の中が、静かになる。僕は、無表情のまま僕を見る父に視線をとめながら、さっきまでの言葉を本当に父がしゃべっていたのか、わからなくなった。僕は身体のバランスを保つために、ドアの脇の壁に手をつけていた。哀願するように、僕は口を開いていた。
「でも、僕があなたをそうしなければ、香織が」
「そうだ」
 父が、その場でゆっくりと立ち上がる。
「私は多くの人間達を使い、お前の目の前であの娘を損なうことになる。お前が私を閉じ込めなければ、私は絶対にそれをやることになる。お前達が逃げようが警察に駆け込もうが変更されることはない。私を止めることは不可能だ。それはもう私にもやめることはできないのだ」
 僕はそこで初めて、目の前の父が、またアルコールで酔っていることに気づいた。
「私は生きていれば、必ずそれをやる。私の砕けていく意識は、もうそれしか望んでいないのだ。私はもう自分でもそれをやめることができない。お前への地獄を越え、余興を超え、私はアルコールの中で揺れながらあの娘が完全に損なわれる光景に全身で焦れているのだ。いいか」
 父は、片足に重心を乗せていた。
「お前は『邪』に育てるために、私の意思で生まれた。お前に生得の権利などない。お前は『邪』になる。お前は『邪』を避けようとして『邪』となる。それは変更されない」
 その時、僕の手から、クロタマゴテングダケの入ったケースがすべり落ちた。強い音を立て、ケースから、無骨なキノコが散らばる。父はそれを、ぼんやりと目で追った。
「私は」
 父は胸元から小瓶を出した。
「そのようなものを必要としない。私はすぐ死ねる薬を所有している。お前は、強固な父を乗り越えるのではない。アルコールで溶けた醜い老人を飢え殺すのだ。私はこの部屋で飢え、苦しみ、目を剥き出しにしてお前を呪いながら、この薬を飲む。激しい苦痛と共に。私はその時、お前の中に侵入するだろう。惨めな老人を飢え殺した『邪』の中に」
「でもそうしなければ」
「そうだ、私はどんな手を使ってもお前達を損なう。そして、お前は私を殺すことで決定的に損なわれる」
「僕は殺すのではないです」
 叫んだ僕の声は、小さかった。
「僕はただあなたの通路を塞ぐだけだ。あなたは勝手に自殺するだけだ」
「私はもう死骸だ。遥か昔に」
 僕はその時、何かに追い立てられるように、全身の力を使い、ドアを閉めた。この不可解な存在を、粘つく奇怪な老人となっていた、最後までわからなかった父という存在を、強く部屋の中に感じながら。それはこれから激しく飢えていく、小さく醜い狂人であるのだと思いながら。ドアを閉めた瞬間、後戻りのできない、大きな音が鳴った。その硬い金属の音は、ドアの音なのか、自分の頭の中で響いたのか、わからなかった。
おわり
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