デュラララ
折原臨也に似た人外の何かと平和島
過去の折原臨也と、平和島静雄の犯した罪
 平和島の指が、ざくざくと土を掘り起こす。
 殺意のために、殺傷能力を向上させた拳銃という武器が創造されたという事実は、人類の発展である。道具、という新しい腕、ないしは足を創造、獲得したのだ。
 道具の成り立ちは、いついかなる時も存在し得る何某かのための──他の動物と比較して人類の寿命の長さ数えれば妥当な表現ではないが──速攻性の要された事象である。何故道具が必要だったかと言えば、人間には代替物を必要としなければならないほどに、それを為す牙も爪も、動物と数えるには図体に対して全てがひ弱であった。必要の物体をがしりと掴もうとする握力などではリーチも短く、住処に持ち帰るなら背負う両足も細い二本しか生えていない。
 道具は人間の手足であると共に、人間を作ろう遺伝子から派生した分裂を繰り返すだけの細胞では無いので、指の先まで滲んでいる感情も意識も受け取らない。ただ道具として、命令を待つ身分だけがある。引き金を引くことと、弾が発射されることは、各々が同期しているのではなく導線の繋がりしか持たない。引き金を引くことと、弾が発射されることは、人間が結びつけただけであり、足が動くこと、走れること、目的地に辿り着くこと。そういった過程を必要とした結果である。引き金を引くから殺すのでは無く、引き金を引くことで弾が発射されその弾が照準になった人間を殺すのだ。
 だが、引き金をひく指にだけは。、明確な殺意が滲んでいる。
 指先は、引き金を引いてしまえば、弾が(中略)人間を殺すことが出来ると知っている。発生源である意思と結果だけが残り、引き金を引けば人間を殺せるのだった。
 であるから結果として、道具は人間の手足と数えられる。
 平和島の指がざくざくと土を掘り起こす。
 それまで面をしたように無表情だった平和島の眉間に、僅かに皺が刻まれる。養分が枯渇した硬い土を掘り起こしていた平和島の指が、人工的でざらついた素材を撫でた。彼はその深さを確認すると、検討のつく大凡の幅を広げていった。
 人間の重要視するのは意識という掴みどころのない代物だった。殺意があれば量刑が重くなる。殺意が無ければ──無いと見做されれば──判決は変わるのだった。人が幾人も死のうが、殺そうという意識が無ければそれは事実上殺人と断罪、糾弾されようがない。
 植物は本能の形をしている。虫の捕食も、火を求めざるを得ない種子の遺し方も、曝け出した生殖器もすべてが本能に基づいている。植物は本能の形をしている。適性を見極め、進化し、種としての個を全うするために極限にスリムな形をしている。脂肪の無い本能は植物の形をしている。
 拳銃は、殺意の形をしている。限定的に発展した道具だった。転用は出来ようが、闇のように暗くある銃口の先が同種か異種かに分かれるのみで、殺める手段には間違いなかった。飛距離を伸ばし、連射速度を極め、局面に拠って小さな、また或いは、地面を抉るほどの大きな弾を込められるような開発を繰り返し、多種多様な殺意がこの世に生まれた。
 殺意のエネルギーは殆どの場合、個人の感情に大幅に左右される。拠って、殺意の開発そのものには殺意は必要無かった。開発を抵抗感無く促すのは利潤である。殺意を促すことは利潤を生む。平和を謳えど戦争が無くならないのと同じ理屈だ。
 平和島の指がざくざくと土を掘り起こす。
 そうして、スコップもシャベルも重機も無しに掘り起こし終える。青いビニールシートにこびりつく土塊を繊細な手つきで丁寧に払い、平和島は穴から這い出てから片手で軽々と重みを引っ張り出した。成人男性分の重量を片手で引き上げる。肩に乗せるとそれはくたびれた座布団くらいに、くの字に曲がった。
 目印になっていた大木から西へ向かい、人跡未踏の獣道を辿ると、唐突に木々が開けた。空にはプラネタリウムみたいな星空が広がり、それを背景と背負うには似合わない寂れた山小屋が立っていた。屋根が風化によって崩れかけていたが、平和島は気に留めずに踏み入った。それ以上の背負っていた荷物をぞんざいに放る。どすん、としっかりと重量感が空気を震わす。埃というより砂埃が舞った。ビニールシートに括られた紐を、ぶちぶちと引きちぎる。
 ちかちかと明滅する電球。
 手元が悴むように震えながらも、青のビニールを剥き、苛立ちが募っていくとそれを握りしめ、クリスマス当日もらったプレゼントを見て急いた子どものように破き、中身を暴いた。
「ああ……、やっと、こんなところに」ぐう、と呼吸を飲み込んだ。「いた。見つけた」
 まるで、ビスクドールに身綺麗な死体があらわれた。
 死を疑わせる肌艶は陳腐なほどに陶磁器を思わせ、肉が付いている不審を、浅はかな羞恥ほどに消滅させていった。目立った外傷は見て取れない。ただ、そこに実在していた。まるで生きているかのような瑞々しいうつくしさは、脳髄を揺らし、常識を奪っていく。疑うべくあるのはしっとりと水分の保たれたような柔らかそうな唇とは相反した、肌の血脈を疑えるあおさ。
 平和島の記憶に拠れば、この物体は少なくとも数ヶ月、或いは一年を超えてこの状態なのだった。
 薄い肌の頬に、公園の砂の城がごとく触れる。
「どうして……」
 平和島はつぶやくと、唐突にその頬を叩いた。じんわりと赤く灯り、明らかな傷跡になる。右手が頬を叩く、右手が頬を叩く、右手が頬を叩く。瞼は閉ざされたままだ。
「おまえが……っ! おまえが……っ!」
 ぺちん、ぺちん、ぺちん、と生温い音が鳴る。
 暴力を蔓延らせた手のひらが、頬を叩く、頬を叩く、頬を叩く。
 次第に平和島の理性は、易く、焼き切れていく。辿り着いたささやかな理由を忘れ、容赦無く頬を叩く。音が強く鳴っていく。
 絶対的に美しいものは、損なわれてさえも、美しさから逸脱しない。死体と言うべきか迷える、柔らかな物体は色づく頬に、艶めかしささえ宿す。
「起きろ……っ! つぐなえ、死んで詫びろ……っ!」
 平和島は明らかな死体に向かってそのような無駄を繰り返し、頬を叩き、涙を流し、絶望の払拭されないだろう失望に絶叫した。
 獣のように吠えた。
 いつの間にか雷鳴が轟き、半端に残ったトタンでできた屋根を叩き付ける豪雨が響いていた。生命のある身体から熱を奪うように、何かを洗い流すかのように降り注いだ。見捨てられ、脆弱になった山小屋が、近くに落ちた雷に揺れる。
 平和島は、ひたすらにその行為を続けた。
 ひたすらに、暴力を行使する。
 ひたすらに、後悔を重ねている。
 小さな窓から、何度目かにも成る、一瞬の青い光が差した。陰影がはっきりと浮き出る。
 ──折原臨也。
 間違えようも無い。平和島は大凡殺意では無い手のひらで、目の前の色付かない頬を叩いていた。願う殺意は根底に抱いてはいたが、現在この瞬間では無かった。今この瞬間に死んでいては欲しくなかった。
「おまえが……!」
 容赦を覚えたとしても、平和島の掌底にも関わらず、その頬は赤く色づくにとどまり痣さえこさえずに、腫れもしない。
 平和島の手のひらは痛みを感じない。腫れもしない。時間経過を知らない。
「生きている方が、こんな、辛い」唇が破れるほど噛み締める。「お前が、味わえ……っ!」
 平和島の慟哭は雷鳴を凌駕する。矛盾の末、鉄錆がわずかに滲みる。
 そのとき、雷鳴を静粛にさせる、平和島の鼓膜にだけ触れる嘲笑が響いた。
「馬鹿らしい。だったら君が──君こそ、一度くらい、死んでみたらいい」
 それは、秋冷の、天井知らず突き抜けた青空を錯覚するほどに、清涼な声だった。
 はっきりとした声が幻聴だったかのように眠たげに開いた瞼の下で、最後に稲妻の光が瞳に走った。
 ぐるりとあたりを観察し、荒い息遣いに定め、鋭く細められた瞳。笑い声を上げた。大口を開けた、粒の揃った白い歯の向こう側、赤い口内がねっとりと生きていた。
 平和島は、腕の中の折原臨也と目が合うと途端に加減を忘れて突き飛ばしていた。弱く痩躯が吹き飛び、直線上の壁に激突した。狭い山小屋がみしりと音を立て、パラパラと何かが降ってきた。
 ぐう、と肺から空気が吐き出されている音が平和島の鼓膜と平常を揺さぶった。
 後退り、遠巻きに具象化された、折原臨也という実在。のっそりと面を上げた。ぐるりと黒目が回り、虫のように観察する。
「……ああ。そうか。なるほどな」
 床に崩れ落ちた存在は不快そうな表情で起き上がった。暗闇でも分かるつくりもののような白い肌が、動きに連動して艶めいている。思い切り伸びをしてから、片方ずつ肩を回した。平凡な生き物、つまらない人間のように。
 うごいた、平和島は背筋が冷えるように痺れた。
「こんなにも熱烈に求められたのは初めてだったから、眠たさに感けた瞼も開けてしまった」
 合間に、ピシャリと稲光が発光する。
 喉を詰まらせ緊張に強張った平和島を見遣り、それは首を傾げた。
「この姿は起きたよ」あの声だった。「これで用済みかな。なら、さっさと帰るといい」
 折原の瞳は、竦んだ平和島を見据えている。
 責めるでもない、誠実に怜悧な瞳が、平和島を射貫いていた。
 求めていたはずなのに、何も発せられないでいると、ふと、その存在は今更驚いたように瞬くと、顎に手を当て、軽く首を傾げる。
「思わず起きてしまった」声から、感情が急に濯がれた。「深く眠っていられると思っていたが、なるほど、随分と熱烈だな」
 朗らかな様子で、『折原臨也』は、すべてを許容するように『平和島静雄』の鼓膜に響いた。まるで、青空の下を歩いているだけで褒め称えられたような気恥ずかしさが身体に駆け巡った。考えたこともなかった、おかしな感覚が平和島を襲った。
 それは、『折原臨也』が『平和島静雄』に向けるべきでないような、母性にはかけ離れた、だが全てを見過ごしてやれる、秋晴れのような暖かさが含まれていた。
「君もこの美貌に魅せられたクチかな?」
「あ……?」
 平和島の困惑を他所に、おや、と『折原臨也』は首を傾げる。違ったかな、とワンクッション置いて、口を開いた。
「この容姿は便利だ」にこやかに、それは語る。「街へ下りれば民は群がり、食事や、酒、女、おさなご、新聞を初めとした書物に、最早望めば望む以上に献上される」
 一歩踏み出した足の甲を平和島は視認する。顔を見えない。
「それでも、掘り起こすほど、生き返らせたいと思うほどとなると──この私でもわかるよ、この身体は、顔は、芸術足る」
 納得をしたように『それ』は頷き首肯した。ばきり、平和島が掴んだ板張りが鳴る。ささくれだった木目が、平和島の手のひらをくすぐる。怒りでは無い感覚で、平和島の膂力が反応していた。
「そうだよ」窘め、同情するように『それ』は言った。「俺はね、君の求める折原臨也でありつつ、君の求める折原臨也でははない存在だ」
 混乱する平和島にもかかわらず、『それ』は怒濤に言葉を抽送する。
 まるで折原臨也のように。
「例えば──人間を象り、人間を模倣し、人間に溶け込み、その実警戒心を抱かせないままに人間を捕食することを目的とする害悪という名前の害悪が存在するならば、そう、君の求めた『折原臨也』はまだ可愛げがある。この私という区分こそが、人間にとっての化け物で、ひたすらに害悪だよ」
 化物を自称した『それ』は言った。
「見目を必要と欲しただけでこれを奪ってしまったのだが、君のような、……? そうだ、人間からの他称による集合体たちに近しいものを引き寄せたのなら、両得だったな」
「……俺? いや、俺のことは、それはいい」
 平和島は困惑を抱きつつもやっと応え、首を振って見せてから、改めて疑問符を提示した。
「臨也は、いや、臨也なら、お前、お前は、臨也じゃ──」
 確信がブレていながら、その言葉にこそ真偽を求めていた。
「私は折原臨也であると同時に、数多の他人だ。君が求める人間という規格には嵌まらないだろうな」
「俺の、求める……」
 それは薄く微笑みを貼り付けたまま、じ、と平和島を見ていた。その顔は、果たして見知った顔だったか。平和島は、その実折原臨也の顔をまじまじと見つめたことがなかった為に、目の前の朗らかな表情と同一と断言するには、記憶という根拠が揺らぎ始めていた。強烈な違和感は、平和島の折原臨也への印象そのものを壊しかねなかった。
「わかるかい?」諭すように折原臨也の声は言う。「君が掘り返したかった折原臨也は、残念ながら、既にここにはない」
 平和島は幼子のように、ぱちくりと瞬いた。
「記憶や感性、強固に備えた知識や……」それは似た色合いの唇を歪め、やれやれと息を吐いた。「つまり彼を構成する細胞は保てるのだが、それを活用する意識だけはどうにもね」
 平和島はその声が発した言語を噛み砕いて噛み砕いて、理性の中で思考してみる。あえなく暴力に意識が占領され、目の前ではあやふやの存在が傷ついていた。
「人間のようにいうなら、よそ行きの洋服を身につけたとて、洋服の意識に奪われるわけでは無いだろう?」
 くっく、と悪戯が成功したとでも言いたげに喉を鳴らした。
「言ったろう? この顔は、街へ下りれば金も、女も。有難い容姿だ。ああ、困るなあ」
 平和島は肩を揺らした。
「──まあ、本当のところ、全く困ることはないんだけど」
 傷があったとてこの美貌が引き算とされることはないから、とその存在はまるで慰めるように言った。しどけなく柳の眉が下がり、稚児を眺めるように笑みが讃えられた目尻の細さ。
 平和島は慰められる、という感覚が湧き立ち、その声色が遅れて鼓膜を揺らがせ、かんばせなど知りもしなかった相貌により改めて脳髄を殴りつけられた。
 ぐあん、と脳が揺れた。気が付く間もなく、物理的に、平和島は卒倒していた。
 鏡が間にあるだけだ、とその見目美しい男は素っ気なく言った。
「構いませんよ、どのように扱われようと」
 素気ない言い方に、好感と興味が沸いた。その無表情さは、どちらかといえば人間的な表情であるのは内側が成していない己の方だと客観的に理解した。人間的、というものの置き方も改めなければならないけれど。
「気持ち悪く無いのかな?」
「外面がどうであれ、俺は俺でしかない。並列的ではなく、同じだけ、貴方は貴方でしかないでしょう」
 貴方の行いなど、どうとでも。と、見目麗しいだろう人間は溜息をはいた。無関心さは、逆説的に他への好奇心の強さを思わせた。
「まあ別段、許可などとる意味もないのだけど」
 人間の枠に収めるには惜しい眉目秀麗は、鏡を挟んで小さくなっていくまで、不機嫌では無いと伺えるものの、笑い返しもしなかった。
 平和島が目を開けたとき、雨は止んでいた。違う。正確にいうなら、家屋として当たり前にある屋根の下にいた。
「目が覚めたか?」
 そのように言語として聞き取れたのは、瞬時に聴覚が伝達できたのではなく、今の状態がかけられるべき文章を先んじて頭の中で作られていたからであり、実際にはその声はくぐもっていた。
 視線を向けると、それは食事をしていた。幼気な下品ほどに頬へともごもご詰め込み、美味しそうに咀嚼して飲み込んだ。
「うん、すまない。目が覚めたようだね」
「……ああ。……ここ、は」
「もらった」
 どこだ、という問いかけの前に、それが答えた。
 起き上がるのに手のひらが押した感触が柔らかく、ベッド──それも清潔な──に寝かされていたことに気が付いた。周囲を見渡せば、崩れかけていた天井は梁の顕れた壮大な木理が堂々とあり、脆弱そうだった壁はスッキリとしたオフホワイトでほのかに室内を明るく反射していた。
 つまり、人間が暮らせるような、生活感の残る部屋だった。
「ああ、私が持っている割りの綺麗さか。定期的に掃除をさせて、季節によっては貸し出しもさせている。全ての質量あるものは、使用されていないと衰えるものだからね。そういう管理を買って出よう存在は人間の美徳か或いは、愚陋かな。勿論、その行動起源を煽れようこの存在こそ希少ではあろう」
 浅い底を見通すような瞳ではあったが、平和島の知るあの瞳とは違い、大枠として種別の意義を図っているような、強大なる抗いようのない視点に思われた。
 平和島は、逃げようのない襲われ得る体験をしたことが無いため、恐らく人間として平均以上に実体的な恐怖に抱かれた。抵抗できないと悟り、諦念としてもはや何をされてもよかったが、何か遺伝子さえ作り替えてしまえるくらいの影響力を持つその存在に対しての忌避があった。
 たとえ、その存在から折原臨也本人と感じられなくとも、折原臨也を象ったそれが、平和島静雄という存在を損なわせることが許せなかった。
 憎悪。
 暗く燃える折原臨也の瞳を覚えている。
「お前を何と呼べばいい」
 くす、とそれが笑って、笑い転げて、唐突に止んだ。得心したように頷いて、何らかの意図を持って目が細められた。
「君はかわいらしいなあ」
 何がおかしいのか、と目くじらを立てて問い返すには、声色があまりに軽快だった。
「ああ、そう、お気付きの通り、馬鹿にしようとして、それを人間で言う常識でラッピングしたまでだよ」
 憤りが発生するかと思ったが、不思議とそれに聞き入った。セリフの中身は似ていたかもしれないが、声色が違った。
「私が観てきた人間で言う幼年を思わせる。まるで悪いなどと私はいえないけれど、──まあ、君は苦労してきたのだろうね」
 憐憫はあまく、誰より、何より許容に満ちていた。
 それが、折原臨也の容姿をしている以外は、まるで平和島に望まれて生まれた唯一だとも思えてしまう。
 精巧につくられた罠を疑ってもよかったが、心地の良さがそれを見ないふりした。
 少なくとも折原臨也では無いのだと、思うに至った。ならば折原臨也の許容が存在するようだった。
 平和島は、その存在に向けて、全てを吐露した。
 抑えきれない暴力からここへ辿り着かざるを得なかった顛末まで、ベッドのヘッドレストをへし折り、スプリングを露出させ、ダイニングテーブルを割った。感情を体現して、気付いた時点で起こった、自らが起こした具象を見渡し、飲みこんだ。
「今の話、信じるに値するよ」
 けらけらと笑う姿に、折原臨也の悪辣を思い返し、馳せた。
 腹を抱えて、ようやく呼吸を整えると、目尻に溜まった涙を指先が払いながら、視線で平和島を指した。
 射殺す切先ような圧力は、そこに含まれていなかった。平和島自身が、折原臨也の明確な指摘を、今ようやく、受け入れていたからだ。
「ああ、今この瞬間なら、君を人間と認めても良いけれど」
 どうしたい、と憤怒を司る幻影が嘲笑った。
 どうしようもない。
 今この瞬間から遠ざかっていくはずの過去が平和島の背中を撫で、しだれかかるように張り付いて、絡めとるように全身を重たくする。等速のマッハスピードで離れていってしまうはずの重量が伸し掛る。淫らで浅ましく感情的に耽溺した汚泥のような狂信者のように、平和島の苦悩を弄んだ。
 首元も脱力して俯くと、手のひらが汚れていた。残ったのは、今まで意識することのなかった他人を損なわせた感触。それと刹那の過去を証明する、逃げられなくする、生温い熱だった。
 俺は、と平和島は、月明かりを背負う位置に座した、見下してせせら笑う折原臨也を眩しく見つめた。
「そうか」
 折原臨也の容姿は懐かしむように頷いて、平和島を眺めた。
「それで」憐憫を湛えた瞳が瞬いた。「君は彼に、助けてもらえたのかな。そんなことはないと、覚えているけれど」
 平和島は一呼吸おいて、続きを語った。
 あの時折原臨也は確かに平和島を助けなかった。今ならそう思える。果たして折原臨也が平和島静雄を助ようとするのか。
 だがあの時の平和島静雄は我を失っていた。憤怒という逃げきれないはずの暴力さえ取り落としていた。平常心でいられる方がおかしいのだ、という慰めが思いつかなかったわけでもなかったが、自分から手を伸ばして良い感情ではなかった。
 全ての指示を聞き入れる身分が不思議だった。犯罪と呼ばれるような理が、まだ犯罪とは定義されていないような事象が、歌うようにあの口から紡がれるとき、あの声は美しくあり、清廉に似て、平和島を責め立てた。責め立てられる過去がそばにいることがよかった。その数が多くなれば多くなるほど、初めの一件も、洗脳によるものだったのではないかと思えた。
 思わされた、という意図があったのだろうことはわかっていた。折原臨也が意図のない行為を、他人、或いは狭義的に別の存在に指図するはずがなかった。徐々に回復していく意識は、激情を忘れていた。怒りへつながっていた回線を遮断させられていた。そうっと蓋をして、中身がぐつぐつと茹だって、時間が立って水面が静かになっていく様を初めて知った。
 燃えて損なわれていく平原を見ながら。
 だけれど内側は平和で、静かで、ただ甘やかに安寧だった。
 折原臨也の意図は読めなかったが、背中に張り付く後悔がある限り、側を離れるわけには行かなかった。或いは逃がさないという意思でもあった。意図を問い質してしまった瞬間に、今ある全ての均衡が途絶える。平和島は、これが救助ではなく、ただの興味だったと明確に伝えられてしまえば、今平和島から剥がれて、崩れて、バラバラ散っていった、暴力や、憤怒や、興奮や、激情が、あのときの愚かな罪が、歓声を上げて迫りくる。平和島静雄の元に戻ってこそ、完璧なのだと体現するように、平和島静雄という存在が折原臨也を損なうのだろう。
 折原臨也を失うことはどうでもよかった。折原臨也を、脆弱な他者を損なおうとする自分に成ることが嫌だった。何にへりくだろうと、何を侵そうと、何を失っていたとしても、もう暴力を振るえる存在に成る以上に嫌なことはなかった。
 折原臨也の指示の間隔が広くなっていき、ついには前に接触した季節が恋しくなる目安になっていた。
「うまくやっているようだね」
 決まって晴れだった。平和島は、顔を見て怒りを覚えた過去も含めて忘れた。今の平和島にとっての彼は、ただただ近況を報告するだけの存在だった。隠すことなど元よりなく、平和島は正直に全てを報告する。言語による告白は最早得手でもあった。折原は頷いて少し黙ると、笑ったように目を細めた。
「なら、あとは任せたよ」
 平和島は素直に首肯した。平和島の任はここ一体の統括であり、それは不穏の影のひとつもなく順調だった。信頼の証としての言葉だった、と理解していた。
 平和島が今愛していたのは、ここの土地だった。全てが曖昧に、中途半端に、浅く、ぬるま湯のように甘やかすように優しかった。ここでなら、平和島がたとえ殺人を犯した秘密を持っていたとしても、それを暴こうと下卑た感性に振り回されることはなかった。空虚な関係性を生んだ、距離感を愛していた。
「なるほど」
 青く明瞭な声が遮った。平和島静雄を取り戻させられる前に知った声が思い返させた。
「その先の想像はつく」宥めるような口調に、握りしめていた拳を解いた。「というよりも、君より正確に知っている」
 平和島は改めて、その美貌を仰いだ。微笑みは、きっと同じように美しいとされる容貌だった。
「だから、無理に思い返してしまうことはないんだ」
 だが、その声は、清涼な美しさを讃えつつも、にわかに焦りを帯びていた。
 折原臨也が? 平和島は、ふっと、疑問を抱いた。
「彼が何を考えて君を犯したのか。知りたいかい?」
 折原臨也が?
 純真な疑問符は憤りを手繰り寄せた。
 平和島静雄は、いまこそ完璧な存在となった。
「まあ、シズちゃんならいつかには、とは思っていたよ」
 折原臨也は嘆息した。
「だからこそ許したくなかった」
 どうして、と平和島は懇願した。
「平和島静雄までも許容されることが。──違うな、君じゃない。人間の許容の奥深さか」
 折原臨也は、突き抜けて届かない青空のように、只笑った。
「その許容はいつかに拭うことの許されない信仰になってしまうよ。信仰なんてものは、根源的恐怖でしかないんだから」
 とつとつと語られる言葉が平和島をなぶった。
「君はね、受け入れるしかないんだよ。そういう風に育ってしまったんだ。俺は、他の道を見つけられずに育てられてしまった、などと特定の人間に背負わせる非情は口が裂けても言わないけれど」嘲りは平和島へ向いてたので、怒りは込み上げなかった。今後起こり得るだろう結果から逆算した名称なのかも知れなかったが。「ここにある君は、俺が何と表現しようが現実、育ってしまっているんだ」
 羞恥心を煽られている気がした。違う、言葉にもはや意味はなかった。折原臨也がわざわざ意図を込める必要がなかった。言葉が名称として現実へ昇華し具現させていた。
「君という存在は、本当は何を奪い去って、何を貶めて、何を損なったっていいんだよ。全てを破壊しつくしても許され得る存在なんだ。そうでないとその膂力と釣り合いがとでない。それこそが許容という信仰なんだよ。だからこそ俺はね、君がその自覚を汚物の中に捨て去ったことが許せない。膂力を奮いながら、特別に用意されたはずの許される立ち位置に唾を吐いて人間にしがみついていることが許せなかった」
 折原臨也はそこで唐突に笑い出した。
「ああ、今この瞬間なら、君を人間と認めても良いけれど」
 悪魔という存在があり得るのなら、それは紛れもなく人間なのだろう。
 折原臨也という名は、平和島の管理していた一帯では、過ぎた言葉を使えば神格化されていた。
 元々は飢えた土地だった。そこに、植物を生きさせる土を作らせ、動物の生まれる環境を教え、命の尊さを学ばせ、人間を誘致した。
 それは全て、折原臨也という糸をたどって作られたものだった。果たして実際に尽力したかは定かではない。だが疑おうものなどいなかった。
 安寧とは、思考を奪う幸福という楔を持った刹那だった。
 今この瞬間に身を落としている人間は、朗らかで、陽気で、空虚で、義務的で、個体を失くした笑顔だけがあった。
 折原臨也が死んだ。
 いや、殺された、という噂がにわかに沸きたった。
「は……?」
 混乱に落ちた。
「お前が殺したんだ」
 平和島が許せなかったのは、噂が発生したことでも、被疑者に立てられたことでも、平穏だった街がさざめいて、人間の蓋をさせられているべきパンドラが開かれたことでもなかった。
 管理されるべき、愛したはずの人間達に責め立てられる中、平和島静雄は自身が殺し損ねた折原臨也が、簡単に死んだことが許せなかった。
 己という暴力が殺せなかった存在が、何に損なわれようか。
 平和島静雄は許せなかった。
「起きろ」
 その瞼が平穏であるかのように閉じていることに。
「償え」
 平和島静雄という意義を貶めたことに。
「死んで詫びろ」
 己の手によって。
「生きている方が、こんな、辛い」
 達成し得なかった快楽を永劫探し求めるかのようだった。
「お前が、味わえ」
 俺を愛せないという屈辱を。
 手鏡が割れた。
「……不吉だなあ」
 折原臨也は自身の発言に苦笑して、痛む腰をかがめて破片を拾い上げたが、そのまま捨てた。懐かしむように瞼を閉じる。
「そんなこともあったのかな」
 歌うように、夢心地のように、ようやく腰をおろし、その身を横たえた。
カット
Latest / 293:23
カットモードOFF
50:09
ななし@2b7c2a
お疲れ様です
52:31
アワワワ
ありがとうございます!!
97:03
ななし@9ee267
句読点の呼吸がいつまでも好きなので一生文章書いてください。
チャットコメント
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
イベント用
初公開日: 2021年09月19日
最終更新日: 2021年12月05日
ブックマーク
スキ!
コメント
webイベント用 攻めの擬態と受け
2026/7/17 待ち時間
MDZS瑶と曦現代転生IFショートショート
ぴぉ
えふごとシノアリクロスオーバー「人魚姫と作者」
タイトル通りのクロスオーバー。この二人で書いてみたかったので……話の展開とか何も考えていないのでとん…
リュックでか子
筋トレ
名なしのAさんは月夜に、テーブルにカップが置かれたままの部屋でフォーチュンクッキーを貰った話をしてく…
瀬をはやみ