「今日午前九時ちょうど、首相より『非常事態宣言』が発表されました」
そんな言葉が、パソコンの画面から聞こえてきた。
要は、『不要不急の外出は控えましょう』とのことだ。
そんなのわざわざ発表しなくたって、僕の生活には関係がない。
埃っぽい部屋、薄暗い照明、敷きっぱなしの布団、エアコン、冷蔵庫、パソコン。
食料はパソコンで注文すれば冷蔵庫に勝手に届く。
人が生きるにはこれで十分だ。
カーテンで閉じられた窓に、人影が映る。
ガラスに張り付いて、トカゲみたいだ。
窓を激しく叩かれる。割られるのも嫌なので、仕方なく開ける。日差しが眩しい。
「やあニートヒーロー。今日も元気に引きこもっているかい?」
「なんですか」
お団子頭の彼女は、笑顔で侵入してきた。体にぴったりしたスーツと、手足に吸盤を持っている。壁をよじ登ってきたみたいだ。
いつものことなので、もう驚きはしない。
「そんなにぶすっとした顔してないでさ。ほらほら、大好きな餌を持ってきたよ〜」
「いらないです。頼んでもいないもの持ってこないでください」
彼女がスーツのポケットから取り出したのは、1枚の紙だ。
僕はこれでも人間なので、紙は食べない。いらないと言っているのに、彼女は毎回持ってくる。
「最近流行ってんじゃん、あれ。コロネだっけ?」
「新手のスイーツですか」
「それの関係か知んないけど、ここ2、3日依頼が少ないんだよねー」
「いいことです」
彼女は紙を読み上げる。
「だから今日も1件だけ。この下の公園でおじいさんが足挫いちゃったから肩貸してくれってさ。ほらほら、早く着替えるぅ!」
「はあ」
急に、テンションが高くなる。毎度のことながら、付いていけない。
いそいそとヒーロースーツに着替える。
素材はニット、ズボンはジーパン。夏は暑いし、冬は寒い。ヒーロー用としては最悪のスーツだ。スーツというかただの私服だけれど。
一応髪を櫛で梳かしてから一つに縛る。
これでニートヒーローの完成。
依頼用紙に書かれていた場所は、公園の真ん中だった。
買い物帰りに足をくじいて、痛みで歩けなくなっているとのことだ。
「ああ、ヒーローさん来られた。悪いねえ」
ベンチに老夫婦が座っている。横にはトイレットペーパーが2袋。
「それも、ですか?」
「お願いできますか?ばあさんももう手が痛い痛い言うんで」
「はい」
両手に1袋ずつ持って、おじいさんを背負う。
「朝からお店行っても、おひとり様1袋までって書かれてましてね〜」
「そうそう。うちはまだ3袋あるから大丈夫だけど、よそのお家は大変よね〜」
そんなに集めて何に使うんだろう。
「あの、家の場所教えてください」
「ああ、えっとねえ、このマンションの16階だよ」
おじいさんが指差したのは、僕がさっき出てきたマンションだ。
「ほんとはもうちょっと高いところが良かったんだけどね、もう買われてたのよねえ」
「ありゃあやっぱり金持ちの買い占めだろう」
「上層階半分も買うなんて、どこの企業さんかしらねえ」
おじいさんとおばあさんは、ずっと話しながらも道案内をしてくれた。
1604号室の扉の前で、おじいさんを降ろす。
「ここでいいですか」
「ありがとねえ。とても助かったよ」
「どうもありがとねえ。ヒーローさんもこのご時世大変でしょうに」
「仕事なので」
二人が部屋に入っていくのを見届ける。
用事が終わったので、僕はまっすぐ家に帰る。
エレベーターに乗って、ボタンを押す。
ここからの5分を、いつも長く感じる。今日は16階分、ちょっと短かった。
エレベーターの扉が開くと、彼女がそこに立っている。
彼女は開口一番、いつも同じことを聞いてくる。
「お疲れ、ニートヒーロー。今日の首尾はどうだった?」
「いつも通りです」
「……あのおじいさんとおばあさんも知らないんだろうね」
「なにがですか」
「まさか、君がこの街の政治を受け継ぐ跡取り息子なんてさ」
このやり取りが毎回行われる。好きであの人の息子に生まれたわけでもないし、好きでこんな仕事をしているわけじゃない。
「あっは。そんな顔しないでよ」
だから、僕は苦いような、気持ち悪いような、変な顔をしているんだと思う。
今日は体力を使ったから疲れた。
もう、仕事は嫌だ。外に出たくない。
『非常事態宣言』とか関係なく、外に出ないでいたい。