空を飛べると思った。キミと出会ったときのことだ。笑われるかもしれないけど、そんなことで笑ってくれるなら嬉しい。
「あなたもそんなことを考えるんですね」
と、ちいさな声が耳に届いた。
「考えるよ。ばかみたい?」
「……、子どもみたいだ」
ゴホ、といつもの乾いた咳が、たまらなく胸をくすぐる。どうしてだろう、それを聞くだけで胸の中で何かが膨らんで本当に嬉しいんだボクは。
水色の空が透けている。冷たい風が吹いて、シーツの波を揺らした。屋上に干されたシーツの群れのせいで、彼の姿は見えない。いや、ボクにはその場所がわかる。目を閉じてもコツコツとコンクリートを叩くかかとの音。夕暮れの風になびく髪の匂い。
タバコに火をつけたら、セト、と咎められた。
シーツの影から顔を出して、「匂いが移ります」とかすかに眉をひそめる。ほんとはそんなこと、どうでもいいのにね。
「はぁーい」
コツコツと音がする。風になびくシーツ、斜陽が彼の長身を影絵のようにうつす。ボクはタバコの火を消さない。もう一度名前を呼ばれたい。
足音がボクのところへたどり着き、薄い布を隔ててキスをした。
「……、ゴホ」
ちいさく呆れたように息を吐いて、彼の長い指がシーツをたぐる。水色の空を背に、白衣に身を包まれた身体の薄さが愛しかった。
「見つかっちゃった」
「そんな、子どもみたいに」
「可愛い?」
見なくても伏せられた目の色が優しいことを知っている。
屋上の縁まで歩き出て、深く紫煙を吐き出す。胸の中に空気が膨らむ。空を飛べると思う。キミがいればいつでも。
「ここから落ちて死んだらその時は好きな体の部位を持ち帰っていいよ」
彼はしばらく、何も言わなかった。呆れたかな。それとも、
「……そんなこと、を、考えるんですか。あなたでも」
「えー?」
死なないけどね。ボクは死なない。ふわっと落ちて、きっとキミが投げ出したシーツが斜陽を舞うだろう。飛んで戻って、その顔を見て笑うよ。それで、いつも変わらないその顔が泣いたり叫んだりしていたら、たまらなくなっちゃう。
「……でしょうか」
「何?」
顎に手を添えて、テオくんが何かを言った。
「歯、です。だって好きな部位でいいんでしょう?」
「歯ぁ?! えーっ、心臓でも頭でも指でも言えないようなとこでもいいのに?!」
放り捨てたタバコは弧を描いて落ちていった。
くすくすと笑いながら、彼はゆっくりと白い波間を歩いてシーツを取り込んでいく。「すっかり冷たくなった」と呟く声が柔らかい。空は色を深くして、もう夜がそこまで来ていた。
「セト。理由を考えて」
謎謎を出すような、いつになく上機嫌な声音。そう、上機嫌でしょう。誰にも分からなくても、お見通しだ。
理由。歯。理由。教えてよと言ってもたぶん教えてはくれない。そういうところも好き。ボクがどんな答えを期待していたか、彼は知っている。そのはずだ。
「いらないよ理由なんて」
だいたい、死んでても生きてても細胞のひとつひとつ、ぜんぶキミのものなんだから。
ああくだらない質問をした。
ひんやりと体温を奪う風が吹いて、晒された首筋に噛み付いた。テオくんは怒りも呆れもせず、くすぐったそうにかすかに目を細めた。
「ずっと触れたままですから」
「……歯は?」
「歯だけは、ね」
わかるような、わからないような気がした。ボクらの身体は、毎日死んで生まれ変わっていく。空を飛べると思った日から、きっとぜんぶがすっかり入れ替わったことを、嬉しいと思った。
おわり