『ジャージ』『ホワイト(白)』『おやすみなさい』
ひらり。
明り取りの窓からふわりと迷い込んだ薄紅色の花びらが、蛟の瞼をそっと撫ぜた。
妖は人の子のように日々の眠りを必要としない。
夢うつつに、隣で眠る英の真似をして瞳を閉じていた彼は誘われるように身を起こした。
白んできた空をはじめ、世界が色を変えていく。
紫煙をくゆらせたような薄雲が流れていく様子が愛おしい。
妖にとっては刹那。瞬く間よりも短いそれを、後幾時同じく過ごせるのだろうか。
静かに寝息を立てる愛し子の、瞼を覆う傷痕をなぞり蛟はほうと息を吐いた。
ぽう。
一つ光れば、呼応するように薄闇に光る淡い光源。
子を成すために番を探すそれは、等しく在るいのちを主張しているようで、目を奪われた。
「美しいな」
「人間界にはいないのかい?」
ふらりと迷い込むよう止まったその光源を眺め、英は口元に笑みを浮かべる。
「ああ。帝都ではとんと見なくなったな。地方へ行けば居るんだろうが、ここまで見事な景色は無い」
ふわりふわりと周りを飛ぶ灯りが、二人の姿を照らし出していた。
「それが、こんな宿の中庭で見れるなんて贅沢だな」
「この光景を気に入ってくれたなら、よかった」
彼との逢瀬に利用している宿。ここは、季節を通して趣のある庭を供すると有名な宿だった。
何代も前の主人より、奉られたもの。
庭から湧き出る水はある種の結界となり、蛟にとって居心地のいい場所となっている。
「さあ。濡れないうちに部屋に戻ろう」
「何を……」
腰を上げた蛟に怪訝な顔をした英は、いつの間にか蛍が消えている事に気付いた。
「空気が湿り気を帯びてきたから、直に雨が降るよ」
さぁおいで。部屋に銘酒を用意させているから。
ゆるりと目を細め、蛟は英を誘う。一瞬迷ったように動きを止めた彼は、ゆっくりと腰を上げた。
ぴぃー。
高く響く声に反応し、近くにいた烏がバサバサと音を立てて飛び立っていく。
真っ赤になった空に飛ぶ黒い影が、どこかもの悲しさを感じさせた。
びゅうと吹く風には、迫る冬の足音が乗っていた。
たなびく裾を追えば、その先には烏を追って空を見上げた英の姿。
その表情はどこか固く、心ここにあらずといった体。
きっと、きな臭くなってきた帝都へと向いているのだろう。
この灯影街は、人間界と断絶した異界の地。その門前に灯影街を造り人の子は妖を遠ざけた。
しかし、妖たちにとってそれは何の障害にもならない。彼らの中には、遠く離れた場所すら見通す瞳をもった妖がいるからだ。
「英。大丈夫かい?」
「……問題ない」
その声は、来る冬の寒さに耐え忍ぶように強張っていた。
賑やかな虫の声も、どこかもの悲しく響いている。
びゅうと一陣の風が吹き、二人の間を駆けて行った。
ざっざっ
「蛟っ!!」
「英……」
深い雪をかき分け、英は必死で蛟へと駆け寄った。雪のせいで転びそうになりながらも、なんとか彼の傍へと辿り着く。
「よか……った。元気そうだね、英」
「私は元気だ!お前が死にそうではないか!!」
触れた身体は氷のように冷たく、その息は細い。
「ずいぶんと、逢っていなかったから……顔を、見に来たんだ」
「命がけで人間界に来るやつがあるか!!」
短い呼吸を繰り返す蛟の息は、微かに白く色付いていた。
(吐く息すら外気とあまり変わらないほどなのか!?)
「動けなくなる前に……会えて、よか……った」
ゆっくりと落ちる瞼に気付き、英は慌ててその身体をゆする。
「おい、寝るなっ!!起きろ!!」
「うん。だい……じょうぶ……」
鈍くなる反応に、チッと盛大な舌打ちを鳴らす。自分の首にかけていた大判の襟巻で蛟を包み、その肌を乱暴に擦る。
自分の体温すら奪われるほど冷たくなった蛟の身体に、再度舌打ちを鳴らした。
「この借りは……絶対返してもらうからなっ!!」
そうやって、英は寂れた仮宿へと蛟を背負って行った。
「ふぅ……。生き返るようだよ」
「……そう言えば、爬虫類は外気で体温が変化するんだったな」
石油ストーブの前で毛布にくるまった蛟は穏やかな表情で梅昆布茶を啜る。
雪と汗でびしょぬれになった英は、軽装でその隣に腰を下ろしていた。