というわけでようやくエトワってきました。(足立区の方言で「パリに咲くエトワール」を見てきましたの意)
面白い、とてもいい作品、棒術マンという評判がはもちろんチェックしてましたが、見るのがだいぶ遅くなってしまいました。
コナンの新作も公開されたのでもう上映終了となってしまうかとも思いましたが、幸いにしてまだ上映が続いているので間に合ってよかった……。
公開から時間が経っているので、SNSから漏れ聞こえる情報から話の筋はだいたい察しがついてましたが、ネタバレによって鑑賞の楽しみが損なわれるタイプの作品ではないのでそこらへんは別に気になりませんでしたね。それに最大のサプライズは完全に回避してたのでOK。これについては後述。
舞台は20世紀初頭のパリ。画家志望の少女・フジコは、親の反対を押し切って遠く離れた異国で一人暮らしをしながら絵の勉強をしていました。
そんなある日、悪漢に絡まれたところを、華麗に薙刀を振るう少女に助けられるフジコ。その少女こそ、かつてフジコが日本のバレエ公演の際に出会っていた薙刀道場の娘、千鶴でした。千鶴は道場の跡取りとしての薙刀の稽古に励むいっぽうで、幼少期に出会ったバレエにも憧れを持っていたのでした。
これを知ったフジコは、同じアパルトマンの住人ルスランの母オルガがかつてロシアバレエを学んでいたことから彼女にレッスンを依頼。薙刀を稽古する一方で、オルガの志望のもとバレエのレッスンに励む千鶴をサポートするフジコ。しかし、フジコ自身は自分の絵を描けずにいた……。
いやーいい映画だった……。
本作の感想を一言で言うなら、「奥ゆかしい」という言葉がふさわしいでしょう。
本作はド派手なバトルや巨大な陰謀などを魅力とするタイプの作品ではありません。いやバトルはあるけれども。
とかく本作はわかりやすい派手さに頼らない堅実な作品という印象です。ビジュアル面もそうですし、キャラクターの感情やストーリーの起伏は、フィクション的な大げささがないとも言えますね。こうした作品はともすれば地味で退屈な作品になってしまいがち。では本作は地味で退屈な作品かというとさにあらず。
確かに本作は「静」の作品であり、見た目にわかりやすいスペクタクルはありません。では、本作の面白さはどこにあるかというと、「身の裡」。
居合において鞘に収められた剣にこそその真髄があるように、本作はこれみよがしに抜き身の刃を振り回すことなく、剣を鞘に収めたままの「静」の姿勢を保ったまま、しかしその身の裡に納めた「格」でもってことを終える。そんな奥ゆかしさを感じました。魅力を大げさにアピールするのではなく「醸し出す」、そんな作品だったと思います。
まず本作、話の筋からして普通ならもっともっとエモーショナルな部分に長く尺をとっていてもおかしくないと思うんですが、思い返してみると本作ではそうしたシーンに長く尺を取っているところがほぼなかったように思えます。
これがもたらす効果はずばり「あまりにもわざとらしい、あざとい感動シーンで話の流れがストップするのを防いでいること」だと言えます。話には流れがあり、作品は限られた尺の中にその流れを納めなくてはなりません。然るに本作は、演出するべきところはしっかり演出し、強調するべきところはしっかり強調するという配慮が行き届いており、変なタイミングでストーリーが停滞しない。むしろ本作では、キャラが感情をあらわにするエモーショナルな部分はいわば「業と業のつなぎ」の部分に使われており、その結果キャラがどう変化したのかという部分をこそ強調しているように感じられました。なので、いわゆる「アゲ」の部分にストーリーの進行が邪魔されずスタートからゴールまで駆け抜けられたと思います。
また、多少なりとも武道を嗜んでいる人間としてはやはり言及しておきたいのが薙刀のシーン。千鶴のファーストバトルであるvs棒術マンのシーンの、あの中段に構えたときの美しさよ。
わたくし人形使いは薙刀の心得はありませんが、あの切っ先と眉間が一直線上に結ばれた立ち姿だけで練度がわかるというもの。
そしてフジコも思わず見入ってしまったあの足さばき。前述の「ド派手なバトルや巨大な陰謀などを魅力とするタイプの作品ではない」って話にも繋がるんですが、ここ、やろうと思えばいくらでも3メートルくらいジャンプしたり派手なカメラワークを使ったりできたと思うんですよね。しかしこのシーン、文字通り地に足がついた描写になっているのがまた美しい。
これは「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」のダンスシーンや「若おかみは小学生!」の神楽のシーンでも思ったことなんですが、「体軸と体重移動をしっかり描けるアニメーション」ってすごいですよね。
カメラワークぐるんぐるんで目まぐるしく動くバトルシーンに食傷気味だったというのもあるとは思いますが、やはりこの「体軸と体重移動」をしっかり描けてるアニメは、「キャラクターが質量や重量を持ってそこにいる感」をしっかり感じられます。
そして対する棒術マンの動きもまたすごい。動作が細かいとかではなく、素人目にも明らかにチンピラのケンカではなく体系化された武術(おそらくラ・キャン)を習得しているとわかる動作をしっかり描けているのがすごい。これだけでこの劇中では名前すら出ない棒術マンのバックグラウンドが想像できます。そう、これもまた前述の「奥ゆかしい」の話なんですが、キャラの設定や生い立ちを直接的に説明したり見せたりするのではなく「匂わせる」「醸し出す」技法がいい。
で、この棒術マンなんですが、ある意味本作の最大のサプライズは彼です。
なんというかこう、
棒術マン!
棒術マン!!!?!?
棒術マン!!
といった感じ。なんでこのキャラが話の要所で出てくるの!?
いや普通ああいうキャラ、バトルシーンがどれだけ話題になってるとは言え序盤のチンピラ三人組、別にストーリー的には重要なキャラでもなんでもないと思うじゃないですか。
ところがどっこい、この棒術マンことエンツォ・カウフマン、「主人公の一人が最初に戦う相手」「道に迷い力を失った主人公の前に再び現れる、しかも『お前、前より弱くなったな』というセリフ付き」「主人公のピンチに(金で雇われたとは言え)駆けつける」「最後に主人公とともに日本に渡る」というどう考えてもお前それライバルキャラがやることだろというムーブをやっており、劇場でなんだかよくわからない笑いが出てしまいました。なんなんだよこの棒術マン。このキャラだけでスピンオフが作れるぞ。
本作はいわゆる「若者のビルドゥングスロマン」という側面があります。千鶴もフジコも若くして日本を離れて遠い異国であるパリでそれぞれの道を模索する若者です。そしてビルドゥングスロマンというからには物語が終わったときには彼女らは大きな成長・変化を遂げているわけですが、その成長・変化をもたらしたものはなにか。それは「自分以外の新しいものと融和したこと」にほかならないと感じました。
千鶴は自己主張の苦手な少女であり、薙刀も彼女が望んで進んだ道というよりはあらかじめ敷かれていた道だったでしょう。そこに、はじめて自分が自発的に好きだと思えたバレエという新たな道を見い出す。それらふたつの道は困難を経てやがて融和する。
フジコもまた、画家への道を模索してパリに来たものの、あまりにも偉大な先達の作品の前に「自分の絵」を見失っていた。そこに道は違えど同じように己の道を模索している千鶴と出会い、そしてその助けをすることで己の描くべき己の絵を見出す。
そしてもうひとり、大きく変化した人物がいます。千鶴の母・邦枝です。彼女は時代背景的に当然とは言え保守的な考えに固執しており、千鶴が結婚相手も探さずにバレエの道に進むことを許さず、最終的には自ら赴いて実力行使で千鶴を帰国させようとします。しかし、日本への電車から飛び降りた千鶴に、邦枝はなにも言わずに薙刀を託します。そしてラストシーンではその保守的な考えをほどき、千鶴が新しい道を見出したことを喜んでくれるのです。
これらは個人の変化であり、舞台である20世紀初頭という激動の時代の中では取るに足りない変化であり、もしかしたら今にも時代の波にさらわれ消えてしまうかもしれない小さな小さなものでしかありません。
しかし同時に、これらの変化はまさにパラダイムシフトと呼んでも過言ではない、個人の視点からすれば文字通り世界が変わって見えるほどの大きな変化だったと言えるでしょう。この「固執からの脱却による変化」こそが、本作のメインテーマの一つなんじゃないかと思います。
あと本作、中盤辺りから姿を消したと思ったらラストでおいしいところを持っていった若林のおじさん。店のものがほぼ全部質に入れられる中で唯一残った信楽焼のたぬき、あの中に相当の価値がある金塊が隠されていてそれを早く言ってよトホホのシーン、あれってつまり、フジコが冒頭でもらったダイヤの原石と合わせて「価値あるものはすでにそこにあった」という「青い鳥」文脈だったんじゃないでしょうかね。そういう意味では、本作は「価値あるものを手に入れる話」ではなく「価値あるものの存在に気づく話」だったのではないでしょうか。
あーもう書きたいことが山ほどあって書ききれないので上映が終わらないうちに2回目3回目見に行かねば。今回は詳しくは触れませんでしたがマチルダ様大好き。こういう作品においては金髪ライバルポジのキャラはいじめっ子と相場が決まってますが(※昭和的価値観による発言です)、安直なツンデレではなくただひたすらにストイックなお方なのがいい。