〇ワンライ「寝癖」
「すっすみません、俺、遅くなっ……すみません!」
 ぜいぜいと息を切らして、旗野くんは両膝に手をつきながら頭を下げた。下げられた頭のてっぺん近くでは、髪がぴょこんと不自然に跳ねている。
 俺が手にしていた携帯の時刻は、待ち合わせ時間とぴたりと一致している。遅刻ではない。
「遅くなってないよ。時間ぴったりだから」
 映画館のビルの入り口には俺たちのほかにも待ち合わせの客だらけだ。そうはいっても、全速力だろう勢いで飛びこむように走ってきて謝っているイケメンは目立つらしい。近くで人を待っているらしい女性がちらちらと旗野くんを見ている。
「アンタのことっ、待たせっ……」
「全然待ってないよ。どうしたの、寝坊?」
 呼吸で喉を鳴らしながら、旗野くんが掠れた声で言い募る。底冷えする寒さの中、軽装に見えるブルゾン姿で上がった息を整えようとしている。こんなに空気が冷えているのに、暑そうだな。
 気の毒になるぐらい乱れた呼吸も気になるが、それよりも、下がったままの頭から飛び出ている髪が気になる。髪が長くても、こんな風に寝ぐせがつくんだな。
「昨日、バイト、時間、長引いて」
「そうだったんだ。大丈夫、疲れてない?」
「平気、です。ただ、それで、うっかり目覚まし、かけ忘れて」
「よく起きれたね」
「時間ぎりぎりで……すみません」
 なるほど、髪を整える時間がなかったと。靴下が色違いとかそういうべたなことはしてないんだろうか。足元を見てみるが、ズボンに隠れててわからないな。座ったときにでも見てみるか。
 寝ぐせは、指摘した方がいいんだろうか。でも今それを言ったらもっと恐縮されそうだな。黙って直してやるべきか。いや、口で言おうが黙って直そうが、同じだろう。縮こまって謝り倒す旗野くんが想像できる。
「ちゃんと間に合ってるからいいよ。入口上の階だから、行こうか」
 入口からすぐのところにあるエスカレーターを指差し促す。肩で息をしたままの旗野くんは黙って頷いた。
 案内表示を見ながら、該当の階へと上っていく。その間も旗野くんは申し訳なさそうな気配を漂わせていた。多少遅れるぐらい気にならないし、映画に間に合えばいいと思うが。そういえば、これまでの待ち合わせで、いつも俺より早く来ていたな。待たされたことは初めてかもしれない。
「飲み物とか、買いますか」
「ああ、同じフロアに売店あるみたいだからそこで買おう」
「俺、出します」
 エスカレーターで振り返った旗野くんが強い声で言うが、跳ねた寝ぐせのせいで冗談を言われているような気にすらなる。これで電車乗ってたのか、面白いな。
「いいって」
「でも」
「ポップコーン、何味食べる?」
 押し問答するうちに目的のフロアの売店が見えてくる。列に並び、メニューを眺めながら注文を選ぶ。不承不承といった様子でそれぞれの支払いになったが、こんなことぐらいで奢っていたら仕方ないだろう。
 ポップコーンとドリンクを乗せた紙トレイを手にして座席へ移動する。
 開始まではまだ時間がある。旗野くんがトイレに行くというのでその間、さっそくポップコーンをつまみながら携帯を眺めることにする。塩キャラメル味、やっぱうまいな。
 しばらくすると旗野くんが、しょんぼりした様子で下を向きながら戻ってきた。なんだ?
「俺、寝ぐせついてましたよね……」
「……そうだった? ごめんね、気づかなかった」
 まあ、盛大についてたな。話してる内容より気になったし。
 トイレの鏡で気づいてしまったのか。頭のてっぺんあたりから重力に逆らって飛び出ていた寝ぐせは少し名残があるが一応おさまっていた。
 隣の席に腰を下ろした旗野くんは、気恥ずかしそうな表情でこちらをじっと見ている。気づいてただろ、とでも言いたいのだろうか。
 ふと先程靴下の色が気になったことを思い出した。視線を足元へ下げたら、手前の足は濃紺の靴下が覗いているのに、その奥には柄ものの靴下が見える。いやさすがにそれは履いてるときに気づくだろ。
 視線を外して前のスクリーンを見る。見とがめられないよう口元に手をやって流れている予告編に集中するふりをする。少しすると諦めたようにのろのろと前を向く旗野くんの気配すらおかしくて、映画本編が始まるまで、つい笑ってしまいそうになるのを我慢しなければならなかった。
カット
Latest / 62:03
カットモードOFF