帰り道のスーパーの前で、犬が飼い主を待っていた。真っ白な犬だった。トイプードル、にしてはサイズが大きい。ビジョンフリーゼだろうか。ふわふわで、まんまる。置いていかれた恨みもなく、ただひたすら脇目も振らずに飼い主を丸い目で待ちながら、尻尾を緩やかに振っている。
まるでわたあめのように柔らかそうな白い毛が、スーパーから漏れた蛍光灯を照り返して、キラキラと光っていた。
シャンプーを流してシャワーを止める。訪れた静寂の向こう側で、扉が閉まる音がした。あぁ、ローが帰ってきたなと、スモーカーは思った。足音がして、洗面所の引き戸ががらがらと音を立てる。ローは外から帰ると必ず手を洗う。スモーカーは体を洗い始めた。自分が上がればローがシャワーを浴びるだろう。
「おいスモーカー」
だから、不躾に風呂場のドアを開けてきたローが素っ裸だったことには少しギョッとした。
「もうちょっと待てよ」
「まぁいいから、髪洗ってやるよ」
「もう洗ったよ」
ローは何も聞いていない顔でズケズケと風呂場に入ってくる。
恋人と二人、風呂。だがローは、事の後ならまだしも前には一緒に風呂に入りたがらない。なにやら悪戯に光る目に、人の話を聞く気のなさそうな仁王立ち、これは色気のある方向にはいかない空気だな、とスモーカーはこっそり諦めた。
「まぁ触れ、体でも洗っとけ」
スモーカーは低い風呂用の椅子に強引に座らされる。正直立ったままの方が体は洗いやすいのだが、これはもう自分の意見が聞き入れられないだろう。ローは背後に立って、シャンプーをしゅこしゅこしゅこと3回手のひらに出している。多くないか、その量は。
もう一度洗った髪はしっとりと温まっている。その上にぺちゃりとつけられたシャンプーはひんやりと冷たい。ローは短い爪を立ててガシガシとスモーカーの頭を洗い始めた。あっという間に泡が立って、目の前の湯気で曇った鏡では、スモーカーの頭が大きく膨れて見える。シャンプーの無駄に甘い花のような香りが、風呂場中に満ちていく。
スモーカーは出来るだけ頭の位置を変えないように、脚を上げてこっそりと洗った。その間も、ローは丹念に髪を洗っていく。頭頂部から、額のギリギリまで降りた指は、生え際に沿って耳の後ろへ左右に分かれ、後頭部で合流し、また側頭部に分かれていく。
信頼している人に髪を洗われるのは気持ちがいいのだと、スモーカーは知った。別に髪を洗われている時に頭を狙われることを危惧したことはないけれど、それでもロー相手だと、こんなに気が抜けるのか、と。
「お痒いところございませんか、って聞かれて、痒いところ言ったことある?」
「ねぇな」
「痒いところそんなねぇよな」
「鼻は痒くなるけどな」
「あーわかる、あの薄い紙のせいだろ? こっそり掻いてる」
「べつにこっそりやらなくてもいいだろ」
「たしかに」
言いながらローがシャワーに手を伸ばす。蛇口を捻るとざぁと髪にかけてくるので、スモーカーは咄嗟に目を閉じた。暖かなお湯が、大量のふわふわの泡と共に体を流れていく。少しくすぐったい。
しばらく流すと、今度はコンディショナーだ。これは流石に1プッシュ。手のひら全体に絡ませて、櫛で解くように馴染ませていく。
「ちょっと放置な」
「お前の髪も洗ってやろうか」
「え?」
予想外だったのだろう。振り返るとローがきょとんとしていた。それでも断る理由もなかったようで、
「じゃあ…」
と応じたので席を変わる。
シャンプーは1プッシュ。手のひらで少し泡立てて、黒々と光る髪になでつけていく。指の先を立ててわしゃわしゃと動かすうちに、泡が立ち上がって、髪の間で膨らんでいく。
すん、とローの鼻が鳴る音がする。機嫌の良い時にローが出す音だ。
「体洗っとけ」
「後でいい」
気持ちいいのだろう。首が少し上を向いている。小さな頭だな、とスモーカーはこっそり思う。スモーカーの大きな手ではあっという間に洗い終わってしまう。さっき自分が気持ちよかった耳の横を、もう一度丁寧に洗ってやった。
「流すぞ」
「おう」
シャワーヘッドを手に取って、ローの頭をざぁと流す。洗う前よりも黒が深くなったように見える。そのままスモーカーは自分の髪も流した。コンディショナーが流れて、少しだけ体がぬめぬめとする。
シャワーをフックに戻して、スモーカーはもう一度ボディソープを手に取った。髪を洗うと、肩や胸元だけは洗いたくなってしまう。ローもいつも使っているスポンジにぷしゅぷしゅとボディソープをつけてモコモコと泡立てている。スモーカーは、ろーの背中だけ、手のひらの泡で洗ってやった。
思っていたより長く風呂場にいたので、スモーカーはもちろんローもほかほかだった。ゆらゆらと湯気の立つ肌を、部屋に干されて少し硬いタオルで拭く。
「ドライヤーしてやるから」
ローが言うので、スモーカーは怪訝な顔をした。
「放っておいてまだすぐ乾くだろ」
「ほら、しゃがめ」
ローは話を聞かない。仕方がないのでしゃがんでやると、スクワットの途中のような高さになる。身長差を考えれば当たり前だ。さすがにこの体勢は気の毒だと思ったローは、すたすたとダイニングに向かった。仕方がないのでスモーカーもついていく。
ソファの後ろのコンセント口にローがドライヤーのコンセントを指すので、スモーカーはソファの端に座ってやった。ぶおぉ、とドライヤーが温風を吐き出す。普段スモーカーはドライヤーを使わないので、久しぶりの轟音だ。
シャンプーの時と同じように、ローの指先は丹念に、順番に、髪を乾かしていく。後頭部は短く刈り込まれているのであっという間に乾いてしまう。一方でいつも撫で付けられている前髪は少し長い。櫛のように通した指先が、少しずつ水気を失っていく。
人の髪なんてそんなに触る機会がないけれど、こんなに手触りが違うんだな、とローは思う。自分の硬くて腰のある髪に比べて、スモーカーの髪はふにゃふにゃと柔らかくて細い。指の間をくすぐるみたいに、甘く揺れる。乾くほどに空気を含んで、ふんわりと膨らんでいくようだ。ふわふわと、しろく、まるく。
かちん、とドライヤーのボタンを押すと、突然部屋が静かになる。苦い香りの染み込んだ部屋に、ふんわりと甘い香りのする二人。
「やっぱり」
「ん?」
「お前ならなれると思ったんだよ、わたあめみたいに」
「は?」
振り返ったスモーカーの目が、真っ直ぐにローを見る。いつもより乾かされすぎた髪がふわふわと立ち上がっている。ふぅ、と息を吹きかけてやると、ふにゃんと揺れた。
ローはスモーカーの頭にそっと顔を寄せた。ふわふわだ。右手で撫でてやれば、柔らかさがとても心地が良い。いつものスモーカーとは少し違う優しい香り。鼻を突っ込んでみると、奥の方に嗅ぎ馴染みのある匂いがした。
おわり!