夏。それは一年で最も気温の上がる季節の名。そして現代においては最も日数の長い季節。ハチャメチャな気候に合わせて人々は梅雨寒に備えるために着用していた薄手の長袖を脱ぎ、半袖に腕を通す。そして、ズボンの丈も短いものを選ぶようになり、そうなると自然と肌は露出し、ついでにそのハチャメチャな気候に合わせて活動が活発になる昆虫という生態系がこの地球上には存在し、その中でも特にこの地域においては「蚊」と呼ばれている種類が、その生殖活動のために人の血を吸い───…。
 単刀直入に言うと、虫に刺される機会が増える時期なのである。
「───痒い!!!!!」
 その被害を一身に受け、余りの苦痛に全裸で叫ぶ人間がいた。私である。隣からうるさいよと注意が入る。友人のドゥラカであった。
「他の客もいるんだから」
 至極真っ当な指摘に生まれたままの姿ではいと返事をする。ここは旅館なので、確かに他の客もいた。当然、女風呂なので女性しかおらず、年配の方や子ども連れのお母さんなどが脱いだり着替えたりドライヤーでぶおーと髪を乾かしたりしていたが、お母さんぽい人はきゃあきゃあはしゃぐ子どもと格闘しており私の奇声を気にしている余裕はないようだったし、何人かはちょっと視線を向けてきたが、年若い友人同士の愉快なやりとりと認識してそこまで気に留めている人はいないようだ。中にはちょっとにやつきながら視線を逸らす人もいた。恥ずかしい。大声を出してごめんなさい。一人、心中で誰ともなく謝ってみる。
 ドゥラカは既に着替えを済ませていた。いつも高く結い上げている黒髪が肩にかけたタオルへしっとりと降りている。じゃあ先に、と出口へ向かおうとする直前、彼女は足を止めて私をじっと見つめてきた。ぱしぱしとした睫毛をまとった三白眼が、私の裸体の上から下までを移動する。見すぎだろ。ウケる。同性とはいえ友人の裸体をまじまじ観察する失礼さが普通に面白かったので、やだ~、ドゥラカちゃんのエッチ~などとほざきながらカゴからバスタオルを引っ掴み、自分に巻き付けた。もちろん、肩を上げ肘で乳房を中心に寄せるようなお色気モーションも忘れない。
 私が懸命にアニメ声やお色気モーション演じたにも関わらず、ドゥラカは「すごい刺されてるね…」と引き気味に呟くのみであった。
 身体を張った渾身のボケをスルーされたことに怒りが湧きつつも、今回は仕方がないだろうとあえてわざとらしく眉と唇を歪ませながら笑ってやる。彼女が言っているのはこの、四肢のそこかしこで赤く腫れ上がっている虫刺されのことだろうから。私はすごいでしょ、と腕を横に伸ばしたり足の片方をつま先立ちにさせて足首やふくらはぎをよく見えるようにしてやった。手足のあちこちが大小さまざまに大きな円の形で膨らんでいる。うーわ。ドゥラカの驚く声がする。
「刺され過ぎじゃない? なんでこんなに刺されてんの?」
「ちょっと星を見てたんだ。半袖短パンだったし」
「草むらとか歩いた?」
「うん。うちのアパート、すぐ裏が山でさ」
 梅雨明けで、空が綺麗だったからさあ。皮膚が直接水分を吸っているんじゃないかと思うほどの暑い夜、しかし空はよく晴れており月もなく、天上におわします神がいたづらに針で細やかな穴を空けた黒画用紙を世界にそのまま被せたかのような星空で、ただ美しかったのを思い出しながら付け加える。星座アプリを片手に夜空を眺めてアプリ内に表示されている星の名前と自分の頭上で実際に輝いている星を見ながらその名を口ずさんでいる間、地上の蚊と呼ばれる虫どもは無防備に晒された私の腕や足に舌鼓を打ちまくっていたらしい。もちろん、今できている虫刺されが全てその日にできたものというわけではないだろうが、まあ似たようなことを2-3日繰り返し、全身虫刺され女ができあがってしまったのだ。
 ドゥラカは困ったように笑いながらなるほどねと息を吐いた。髪を下ろしていることもあってか、いつもより少し艶っぽく見える。友人の一味違う雰囲気が見られるから、旅行や合宿というのは楽しい。なんてことない会話なのに、どこか口元が緩んでしまう。
「人間バイキング会場だったってわけだ」
「平日のランチ帯には時間制限なしのプランやってます」
「商戦を練らない」
「あはは」
 血液を食品として取り扱うあたり、独占企業になるのだろうか。など他愛もないこと考えながら手にした下着に足を通そうとして、その前に固く膨らんでいる虫刺されに爪を立てる。湯上りの直前は体温が上がり血流がよく巡りまくることもあり、痒みも一層に酷い。痒みというのは厄介だ。その部分がうずうずとじわじわとしてたまらない。あーとぼやきながら手早く下着を一枚だけ着用して、長椅子に座った。一度刺激を与えると他の部分も気になりだしてしまう。腕や足の皮膚へ爪を立てる私を、ドゥラカは気の毒そうに見つめる。
「今日の観測に出るなら虫よけスプレーくらいはつけなよ。サークルのほうで用意してるから」
「ああ、まあ…。覚えてたらね」
 曖昧な返事で頷いた。せっかくの気遣いなのだし、実は少し苦手なことをわざわざ伝える必要もないだろう。それにしても痒いな。バリバリ!とうとう結合したマジックテープを分離させているような音を奏ではじめた私に、ドゥラカは大昔のネットミームを体現したかのような「やめて」という合いの手を打ってくれた。そしてハッと何かを思いついたような表情をして、手持ちの荷物を漁る。
「そういや薬があったような」
「え? あるの?」
「うん。田舎のホテル行くならっておじさんがくれた…はず」 
「あるなら借りようかな!
 もう痒くって痒くって」
 不確かな言い方でポーチを漁っていたドゥラカはしばらく荷物を漁っていたが、やがてあったあったと私に何かを差し出した。白いキャップに、茶色の小瓶。てっきりチューブかプラスチックの青いメーカーのものがくると踏んでいた私は、予想と違ってしっかり重みの感じられるビジュアルに思わずまじまじと見つめてしまう。白地のラベルに記されていた鮮やかなオレンジの文字を読む。これは…!
「キンカン!?」
「うん。叔父さんがよく使ってるんだ。沁みれば沁みるほどよく効くからって」
 
 うわ~っ!おじさんがよく言うやつだ…! ドゥラカの叔父さんって何歳なんだろうか。本当におじさんじゃん。こんなんおじいちゃんかおばあちゃん家でしか見たことないよ…! 私はドゥラカと違って品行方正な女子大生であるため、胸中のみでそう叫ぶ。過去に経験したことのある痛みを思い出し素直に受け取れずにいると、ドゥラカは「ここに置いておくよ」と私のカゴにその劇薬を置いた。いらないよ、もっと沁みないの持ってきてよなんて礼を欠いた発言をするより、私の苦痛に悶える様子を哀れに思って親切に薬を貸してくれる友人の心遣いに感謝をするほうが、いい女というものではないだろうか…。言い聞かせ、唇を噛みしめながらありがとうと礼を述べた。
「じゃあ私は先に行ってるから」
「うん…」
 脱衣場から出ていく背中を見送る。全身虫刺され女の私もいい加減に服を着なければ。話し相手もいなくなって寂しくなったため、着替えに集中することとした。
 ドライヤーを済ませ旅館から支給された浴衣を身に着けた私は、赤い暖簾に刻まれた堂々たる筆遣いの「女」の前にてキンカンを眺めていた。なんでキンカンなんだろう、ほんと。事前に痛みが来ると分かっていればこそむしろ塗りにくいではないか。結局一人で塗る勇気がなくただ脱衣場を出てしまった。処置するとなるとゼクロムみたいな声で絶叫する事態は避けられないだろう。それにつられて現れたポケモントレーナーに捕獲される危険性もある。それを防ぐためにも一旦、どこか人に見られないスペースで落ち着きたい。部屋に戻って塗ってもいいが、その際にドゥラカと会って未だ使用していないことを話さなければならない流れになるとなんか気まずい。
 自販機やマッサージ機が置かれている奥に、照明の落ちた通路が繋がっており、そこに細い木材のようなものが複雑に編まれた透かし彫りのパーテーションが立っている。恐らく先にはホテルの従業員が夜勤の際に使う部屋などがあるのだろう。その辺りへなんとはなしにすぱすぱ移動する。
 このパーテーションの向こうにうっかりベンチかソファなんかが設置されていたりしなかったりして。そんな都合のいいことがあるわけないと思いつつちょっとだけ期待して覗き込むと、自分の欲しいものが全て用意された空間があった。喜び勇んでその暗がりへ飛び込む。こんなところをわざわざ覗き込むような客もいないだろう。なんて都合がいい。ここで儀式をしよう。
 パーテーションで区切られたそこはベンチしか置かれていない密室のようだった。ホテルについてからあまり一人になれる時間がなかったため、久々に訪れた一人の静けさと暗がりに少し安心しながら、やっぱり患部に手を伸ばす。かゆい。バリバリ。
 薬を塗るという目的も忘れて一心不乱に皮膚を掻きむしりつつ、今日のことを思い出す。サークルどころか通っている学校さえ違う人間なのに、みんな随分と良くしてくれた。やっぱ偏差値の高さは社交性やコミュニケーション能力のそれとも比例するわ。うちの大学と違ってな。ちなみに私立文系である。ラランドの偏見ゲームにてニシダが「それを選んでしまったということが愚か」と評しているあの私立文系に通っている愚人(おろかんちゅ)とは正に私である。
 そう、私はドゥラカやその他この天文サークルの面々とは違う大学に通っている。バイトが終わってあー疲れたーと自室のベッドに転がったところ、高校からの友人であるアルベルトより一件のメッセージが届いていたのだ。アプリを開くなり飛び込んできた「合宿に行くのに車が一台足りないため、運転手として合宿に参加してほしい」「宿代はサークルの予算から半分ほど出す」という文面に私は即OKのスタンプを返した。人を乗せて運転するだけで温泉・朝夕付きの宿泊代が半額だなんて優良案件に乗らない手はないだろう。建前としてはサークル行事の手伝いだが、内容としては気心の知れた友人であるアルベルトとドゥラカをマイカーに載せて休憩のために立ち寄った道の駅で一緒にお昼ご飯を食べたりアイスを食べたり車内でカラオケ大会なんかができたので、実質は旅行そのものであった。
 ドゥラカの割り勘の金額を出す速度が異様に早かったことや、何度も流れるミセスに辟易していたアルベルトがしかしサビに入る度に「やっぱりいいかもしれない」と目つきを変え認識を改めるムーブをミセスの曲が流れるごとに必ず繰り返していたのを思い出して、思わずふふっと吹き出してしまう。本当に楽しい一日だった。また機会があれば是非参加したいものだ。一人にやにやしながら爪を動かしていると、元々暗かった視界がさらに暗く、見えにくくなった。あれ、と思ったその瞬間、頭上より声が降ってきた。
「やあ、こんなところでなにをしているのかな」
「ぎゃあ!?」
 完全に一人だと思っていたところには話しかけられて、大袈裟なほど驚いてしまう。顔を上げると、私と同じこのホテル専用の浴衣を身に着けた男性がパーテーションに肘を乗せこちらを見下ろしていた。
「あー、えっと…」
 このサークルのメンバーはみんな親切だ。以前より付き合いのあったアルベルトはもちろん、大学生として新しく知り合ったドゥラカも、サークルの顧問となっている先生たちも、他の学生たちも、私という部外者がまるでサークルの一員であるかのような顔で活動に参加することを許してくれる。非常に居心地のいい空間だ。
 その中に一人、なるべく邂逅を避けたい人物がいる。彼だ。
「ラファウ先生…」
 私は、この人物が、少し苦手だ。
「おっと、すまない。
 驚かせてしまったね」
「あ…いえ、ちょっと休んでただけなので…」
 金髪に白い肌。そしてアーモンド型をした真っ青な瞳。すっと通った鼻筋と、形のいい唇。暗がりに閉じこもっていた私に、端正な顔立ちが逆光を背負っている。影の落ちた顔に目の青がいやに光って見えて、思わず肩がすくんだ。いやほんと顔がいいなこの人。教師ってポジションでいいのかな。俳優かモデルのほうが向いてるんじゃね…。月9のオフィス上司的な役とかもらえそう…最近のドラマ見ないから全然知らんけど…。
 戸惑いから少しぶっきらぼうな返事をしてしまった私に、先生はパーテーションの上で少し考えるように目線を斜め上に逸らした。正面で見ても上から見ても下から見てもイイ男なこと、ホントにあるんだなあ。世の中にいる大半の人間は下からの角度を避ける傾向にあるはずだが、この人間はこの角度から見ても顎に肉が無いし、鼻も高いから本当にモデルのスナップ写真のようにすら見える。顔、良~…とIQ3の知能で眺めていると、不意に先生は踵を返してパーテーションの向こうへ歩いて行った。
「甘いものでいいかな?」
「えっ」
 もしかして、奢られが発生している…!? 元ネタと違い怒りではなく善意による行動に驚いて即座に立ち上がる。パーテーションから顔を出すと、利用客の共有スペースとなっている空間の壁際に設置された自販機前にしている先生の後ろ姿があった。チャリンチャリンと小銭を投入する音に、その現象がマジに発生していることを知る。げげー!
「先生、あの、いいです、悪いので」
「入浴で汗をかいただろう。
 いくらか水分を摂取するべきだ」
「そ、それはそうですけど、あのホントに全然…」
「ココアは好きかな」
「あっ最近体型に気を使ってて、だからお茶とかだとありがたくて」
「…君には必要ないように見えるけど…」
 うっかり漏らした要望の通り、先生の美しき指先がプラスチックボタンに触れ、黒い楕円が緑に光った。ガゴン!重たいものが落ちる音がする。続けてチャリチャリと金属が重なる高い音。ああ〜、奢られの音〜…! 奢られ音(ね)を奏でたもの達を手に、ラファウ先生がこちらへ戻って来る。そのままはい、とペットボトルが渡された。プラスチック特有の発色で、パキッとした白地に黒い豆がところどころに描かれている。黒豆茶だ。
「あ…ありがとうございます…」
 一般的に教師と生徒という関係性にありながら奢り奢られ・買い買われといった構図ができてしまうのはなんだかとてもプライベートな関係が形成されているようで、少し居心地が悪いような。しかもお互いに他校のそれであるという妙なズレがもっと生々しくて、もっと気まずいような。
 とはいえ目上の人がせっかく気を遣ってくれているのを無下にするのも悪いだろう。そう思い直し、イソフラボンの豊富さを謳っている飲み物を受け取った。
 私の隠しきれない困惑を感じ取ったらしいラファウ先生が少し困ったように笑う。
「もしかして、迷惑だったかな」
「い、いえ!全然! 全然、迷惑とかじゃないんですけど、なんだか悪いなって」
 パタパタと手を振る私に、相手のバランスよく配置された目と眉がふと緩んだ。はは、と優しく笑う声がする。
「君らしい」
 親し気な表情と共にそんな言葉を与えられた私は思わず綾波になった。ごめんなさい、こういうとき、どんな顔をすればいいか分からないの…である。己を綾波レイに引けを取らない美人であると自認している私は、とりあえず新劇場版のシーンを真似て笑ってみた。湯上りでぽかぽかしているしうってつけだろう。
 ぎこちなく表情を作りながら、先生の言葉についてほんの少し考える。私らしい。他校の教員がかける言葉にしてはやはり不自然に思える。一体、私の何を知っているんだろう。
 しかしラファウ先生はいつもそうだ。この大学の天文サークルの活動を手伝うことはこれが初めてではなく、これまでもそういった機会は数回ほどあり、先生とも度々顔を合わせている。そうした交流を重ねるなか、様々な形で先生と関わる度、ちょっとした一瞬、私に対して教師でも他人でもない誰かになるときがあるのだ。どうしてそんな顔をするのか、推測としては過去、私の物心がつかないうちから実はプライベートでの関わりがあったのかな? ということくらいしか思いつかないが、この予想が的中していても怖いししていなくても怖いので、あえて深くは聞かないことにしている。触らぬ神に祟りなしである。
「隣に座っても?」
「…え!?」
 な、なんで? 何のため? 何の用? 全く想定外の展開に数々の疑問を覚えつつ、しかし顔の良い人間には一定の権威があると認識している私の本能が反射的に腰を上げた。いいですよと横に座る位置をずらし、ベンチにスペースを作る。
「突然すまないね。失礼するよ」
 言いながら、パーテーションの内側へ一歩、緑のスリッパが踏み込む。自分より体の大きい人間がすぐ隣にいることの圧迫感から逃れるため、必要以上に広く距離を取ってしまう。にも関わらず、先生のほうから湯上がり良い香りが漂ってきた。ときめきよりまだこれから何が起こるか分からない不安のほうが勝つ。何?と思いつつ実際に「何?」と聞く度胸はないので、重ねた両手を膝の中心に配置するという卒業式の座り方をしながら相手がいる方向とは反対方向に体を引いてじっとしていると、ラファウ先生はその薄い唇に何を考えているか分からない微笑みをたたえたままこちらに手を伸ばしてきた。怖い怖い怖い怖い怖い何何何何何。おばけより怖いこの人。おばけになってても怖いと思う。何を考えてる? どういう微笑み? 何故笑っている? 何が可笑しい? 脳内にいる自分が代わる代わる疑問を提示するがそのどれも口に出すことができず、じっとその手の行き先を見守ることしかできなかった。暗がりのためかいっそ青白いほどに思えるそれは、やがて私の手に重なる。温かく、しっとりしていた。
 誰かー! 男の人呼んでー! しかし声は出ない。そう、私にはとにかく度胸が無い。ラファウ先生は男性モデルみてーな指先で私の手の甲を包んで、自分の方へ引いた。そのまま煎餅の焼き加減を確認する遊戯よろしくこちらの手をひっくり返し、浴衣の袖を腕の奥へとずらす。隠れていた数多の虫刺されが顔を出した。
「さっき見えたこれが気になってしまった
んだ」
「ああ~っ…そういう…」
「虫刺されかな?」
「は…はい、いつの間にか結構刺されてたみたいで…」
 ヤバ~。何かと思った、マジで。このままいかがわしいことされるのかと思っちゃった。でもそうだよね、ちょっと変だけど教師やってんだもんね。そんなわけないよね。いかがわしいのはこちらのほうでした…。自分のいやらしさを見抜かれないよう全体的にすごくってェ〜、などとギャルになりきって己の腕の内と外をくるくると回転させる。見なよ、俺の虫刺されを…。コーチを自慢するいのりちゃんみたいにどやってみるも、先生の視線は皮膚の至る所に現れる腫れにくぎ付けだった。少しだけ眉をひそめている。
「可哀想に。痒いだろう」
「それはそう」
 それはホンマにそう。本当に痒い。頷きながら瞼を伏せる。それは本当にそう。
「しかしすごい。まるで星空のようだね」
「………」
 さすが名門大学の最年少教授。感性までがシャレオツ過ぎ。でも普通、空とか言うかな。こんなに刺されてる人の患部を眺めながら言うかな。星とか。一般的な教育者としてはまず「薬は塗った?」とか「冷やしたら?」とかじゃないの。やはり名門大学の最年少教授という名誉ある肩書を持つ人間であるためか、人として大事なものが欠落しているようだ。あとシンプルに全然別物だろ。度胸がないので心の中でのみけちょんけちょんに貶していると、先生がもう片方の手の指先で数ある虫刺されのうちの一つに触れた。そのまま別のところにあるそれに指を滑らせる。く、く、く、くすぐったい。
「これがおひつじ座で…これは夏の大三角だ。ふふ…ああ、こっちのほくろを入れたほうがそれらしいかな」
「くっ…ぐ…そ…そうですか…」
 指の腹で緩やかになぞられてこそばゆい。相槌の合間、奥歯を噛みしめて変な声が出ないよう耐える。マジでやめてほしい。ただでさえ人前だから掻くのを我慢しているというのに、発声まで自制しなければならない事態になってしまった。掻きたいものも掻けない、言いたいことも言えないこんな世の中じゃ…ポイズン。
 幸か不幸か、他人の目に晒されている間は患部に余計な刺激が与えられないのは事実だ。今すぐこの無許可で女性の手を取りおびただしいほどの虫刺されの症状が出ている皮膚を星図に見立てて指で星座を結ぶといった奇行に勤しんでいる非常識極まりない男の手を叩き落として雛見沢症候群のL5を発症したかの如く一心不乱に搔きむしりたいところではあるが、私もまだ、良識のある人間でいたい…。しかし手腕が自由にできない一方、足の痒みがどうしても気になる。皮膚の内部からちくちくと優しく針を刺されているような疼きを解消しようと必死に貧乏ゆすりをしていたが、とうとう耐えられなくなった私は腰を曲げて掴まれていない方の手を足に伸ばした。爪を立てると、刺激が相殺されてどこか気持ちよさまで覚えてしまう。
 残業中に食欲を我慢できなくてカップ焼きそばを机から取り出そうとしている望月さんの顔で突然姿勢を変えた私に、ラファウ先生はしかし顔色一つ変えず「足も刺されているんだね」と穏やかに声をかけた。「はいッ…!」次から次に発生する痒みを掻きむしり涙ながらに返事する。ああ、でもやっぱりどこか気持ちいい。痒みが頂点に達したところに刺激を与えることによって脳に快楽物質が分泌されるこの現象を、これから虫刺されスパイクと呼ぼう。虫刺されが「ある」のがいけない。「ある」のがいけない! スパイクに至って無心でバリバリしている私は、先生が長椅子から立ち上がりかがんだのに気づかなかった。
「少し掻きすぎだよ」
 皮膚の赤みに薄い皮が逆立って白い線になってきた頃、私のより一回り大きい、関節の目立つ手が私の手に触れた。声にハッとして顔を上げると、なんと先生が床に膝をついているではないか。独特なスタイリングの前髪から覗く青い瞳が私より低い位置にある。いつもは高い位置にあるはずのそれが自分のずっと近く、しかも手の届くような距離にあるのを見て、度胸のない私の口からも「何してんですか!?」という素っ頓狂な声が上がった。自分は座っていて、相手はそれにかしずいている。構図として見たらこれほど無礼なことはない。
 
「立ってください! え!? ちょっと待って!? 私も床に座ります!」
「ああ、君はそのままで。足の状態が見たいんだ」
「いや、そういうわけには」
「少し裾を上げてくれるかな?」
「ええ…」
 自分より立場も年齢も上の人間の言うことに従うべきか、自らの困惑の解消のため拒むべきか考えあぐねて手を中途半端な位置でさ迷わせている私に痺れを切らしたのか、ラファウ先生は失礼、と私の脛あたりにかかっている浴衣の裾を少しだけ捲った。パンツとか見えてない?その位置。大丈夫…? さすがにパンツ見えてたら言うよね? ひやひやしながらそれとなく太ももを内側に寄せ、足に寄せていた顔を上げるため少しだけ体を起こす。月9の顔面が近いのも心臓に悪い。
「またこれは随分と…」
 先生は私の踵を包むように手を添え、少しだけ上げた。そうして、もう片方の手の甲を、ぽつりと固いしこりとなっている部分を避けながら、皮膚の赤くなっている部分へ冷やすように当てる。ああ、冷たいな。入浴を終えたばかりの人間の肌よりも温度があるらしい。やはり少し腫れているようだと語るラファウ先生の首や肩が意外としっかりしているのが妙に気になって、はあ、そうですかというまたしても愛想のない相槌を返す。こんな上からの角度から先生を見る機会など今まで一度もなかったため、落ち着かない。
 先生の掌がふくらはぎを包むように位置を変えた。ちょっとふくらはぎは肉があるからあんま触ってほしくないんですけど、の「ちょ」だけは口にすることができたが、さらに角度を変えながら眺める月9の主演の顔に蹴りを入れる勇気が私にあるはずもなく、先生の手に余計な重みがかからないよう足に力を込めて姿勢を維持することだけ考えることにした。
「痛々しいな…いつ頃から?」
「ここ数日です。アパートが結構山の方にあるんですけど、その中を毎晩散歩してたらこうなりました」
「薬は?」
「あ~…ありますけど…」
 沁みるのが嫌という動機が今更幼稚な言い訳に思えてきたので、先生から視線を外して口をつぐんだ。向こうもそれ以上は聞かずにそうかい、とだけ返して、脛のある一か所に置いた親指を、傷口を確かめるように上下させた。くすぐったいとはまた違う変な感じに、また奥歯を噛みしめる。
「この等間隔に並んでいるかさぶたも虫刺されかな」
「っく…。…それは引っ掻いてできた傷みたいです。私もなんだろうと思ってたんですけど、多分そうだと思います」
「ああ、これは爪でできた引っかき傷なのか。だからこんな風に…なるほど…面白いな…」
 面白いてお前…。ヤバすぎて逆にこちらまで面白くなってきたので、にやつく顔を見られないよう即座に顔を背けた。見せもんじゃねーのよ。人の傷見て言う? さっき痛々しいとか言ってたよね? 本当に同じ人間の口から出てる言葉? その部分だけをまじまじと注視する視線の強さに、レーザーが当てられているのと錯覚してしまうほどの形容しがたい感覚に襲われる。さすがにちょっと足を動かして観察を妨げると、ああこれは失礼と私を見上げて微笑んだ。いいですよ。その顔に免じて許します。伝わるはずもないテレパシーで話しかけ、私も少しだけ笑い返す。
 しかし失礼といいながらまた手を添えて私の足を確保したので、さすがに頬がひきつった。まだやんのかよ。人の虫刺され見て何が面白いん? 不満を抱えながらされるがままになっていると、刺し跡と引っ掻き傷との区別がつかないまま炎症を起こしている一部分の近くをまた親指で触れられる。やはり硬く膨らんでいる部分を避ける良識はあるようだ。じゃあ、なんで人の足は普通に触るんだろう。やっぱまともなのかそうじゃないのかよく分からない人だ。
「…ここはアルデバランのようだ」
「アルデバラン?」
「ああ。二つの刺し跡の起こしている炎症が一つの塊になっている。そこに爪からの刺激で傷口が広がってしまって、このようになっているんだね」
 アルデバラン。確か、冬の空にぼや~っとした煙がまとまっているような星があって、そのなかにまた小さい星がごちゃごちゃしている星だったような気がする。過去、どこかで見た写真を思い出しながら傷を見るとあ~~~と思わせられた。まあ確かに見えなくもないかもしれない…。この「あ~~~」は口に出して言ったものなので、ラファウ先生は共感されたのが嬉しかったのか見えるだろう、と顔をほころばせる。子どもみたいな笑い方になんだか微笑ましい気分になってそうですねと目を細めた。まともなのかまともじゃないのか、大人なのか子どもなのか、やっぱりよく分からない人だな。
 先生はスリッパのまま持ち上げていた私の足を床に下ろして、こちらに視線を合わせた。そして申し訳なさそうに眉を下げる。
「いやすまないね、女性の腕や足を星図に見立てて遊ぶなんて、全く非常識なことをしてしまった」
 分かってるやん。じゃあ途中でやめてくれよな。別に酷いことされてないからいいけどさ。私はそれにお茶代としておきますねなんて生意気を返す。向こうは一瞬だけきょとんとして、参ったねと頬を掻いた。ちょっとだけ優越感を覚えた私は、先生に当たらないよう足をゆっくりとばたつかせる。相手は気分良くにこにこしている私の隣に改めて座り直した。
「次は虫除けスプレーを使うといい」
「あ…家になくて。なんか、買いに行くのも面倒だなーって。あとなんか、皮膚に薬剤のかかる感覚も好きじゃなくて…」
「ふむ…でも、こんなに掻いていたらいずれ痕になるだろう。今日の夜の観測では必ず使うんだよ」
「…まあ、それもそうですね。ありがとうございます」
 まあ、多分付けないけど。心の中で舌を出しているのを悟られないようそっぽを向く。緩んだ空気に気持ちもほだされて、手が自然と痒みに伸びた。爪という固く板状のものが与える皮膚へのちょうどいい刺激にまた夢中になっていると、急に指が動かなくなった。見ると、先生の手が絡んでいる。
「やめるんだ」
「すみません…」
 だって痒いんだもん…。やはり幼稚な言い訳なので唇を尖らせて黙り込む。いい年なのに大人から注意を受けた恥ずかしさで肩を竦めていると、先生の視線が私の座っている位置から少し離れたところにあるキンカンに移動した。ヤバい!すかさずそれを掴み取る。
 
「薬だね?」
「薬じゃないです」
「見せて」
「いえ、これは薬ではないので」
 AIのような返答を続ける私に、先生は大きめのため息をついた。思わず肩がびくつく。あ、怖い…。大人の溜息、怖いです…。ラファウ先生のちょうどいい厚さの唇が名前の形に動く。しっかりとした発音で私の名前を形作られて、汗ばんだ掌にあるキンカンを何度か握り直した。先生が、しっかりと顔を上げてこちらを見る。冷静で穏やかな印象の目と眉が、いつもの位置から少しだけぴりっと上がっている。真っ青な瞳に浮かぶ黒い点が、確かにこちらを見ていた。
「見せなさい」
「はい…」
 美人は怖い。特に目が。私は調査兵団のように胸元に押し付けていたキンカンをラファウ先生に渡した。顔の良さと社会的権威は比例関係にあって、先生の顔の良さをその図式に表すと先生は総理大臣並みの権力を持っていることになって、そして私には権力に逆らう度胸はなかった。私の掌に丁度いいサイズのキンカンは、先生の手の中では小瓶のようだ。それを見て、先生の表情が元の優しいものに戻る。
「キンカンか。はは、確かにこれは沁みるよね」
「分かってくれますか…」
「自分から塗ろうとするのには勇気がいるだろう。誰かから借りたのかな?」
「ドゥラカからです」
 ああ、ドゥラカくんかとにこにこ笑う先生の顔には先ほどまでの剣呑な表情は伺えない。しかし、問題はこれからの展開である。全身虫刺され女が一人、その治療薬を持ってる人間が一人、そして虫刺され女は「沁みるから塗りたくない」という課題を抱えている…という背景のあるこの状況から予想される先生の動きとしては…。頬を冷たい汗が伝った。その冷たさから会話の切り札を創造する。こうだ。───先生、私たち少し話し過ぎましたよね。もう湯冷めもいいとこですし、お互い部屋に戻りましょう───。完璧だ。よし。なんとかしてこの場から逃げ出さなければ。よし、今だ!行け!胸中で発した決死の掛け声と同時に私もにこりと笑顔を作った。
「せ、先生、わ」
「どれ、せっかくだから僕が塗ってあげよう。ほら、腕を出して」
 来ると思った…!! 来ると思いました、始まりましたよ! この戦いが! カーン! ゴングの幻聴を聞きながら私はいいんです、大丈夫です、と隣にいるラファウ先生に向かって両手を広げて前に突き出した。猫のような曲線を描くように意識しながら目を閉じて、懸命に頬の筋肉を上げる。まずは柔和な態度から。
「ええと、本当に、そんな、申し訳ないし」
「腕を出して」
「あ…湯冷めします先生!冷えちゃいますから」
「腕を出して」
「あの」
「腕を出すんだ」
「はい…」
 わずか3秒で勝敗が決してしまった。そう、相手は顔面総理大臣なのだ。国家権力には、逆らえないのであった…。わざとらしく音を立てながら手を合わせてみたりそれを首を傾げてみたりといった小細工を止めると、私の腕は勝手に先生の視線の先へおずおずと移動した。もはや反射で動いている己の体の異変とこれから味わうだろう消毒の突き抜けるような痛みに怯えながら泣きべそをかいている私に、ラファウ先生はいい子だねとTL漫画の攻めみたいな台詞を吐いた。恐怖と羞恥がミックスされ、今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られる。その時点ではすでに手首をがっしりと掴まれているので、逃げようがなかった。最後のあがきに、せんせい、と情けない声で彼を呼ぶ。涙目のまま彼を見た。
「じぶんでやります…」
「………」
 先生は目を閉じて少しだけ顔を逸らし、そのまま数秒ほどしてから改めてこちらを向いて「大丈夫、すぐ終わるさ」と笑った。完全に予防注射に泣いている子どもの親である。あとなんだ今の。なんの間? 目の前の人物の不審な行動に疑問を抱きながら、恐怖から逃避することを諦めない私の体は、先生の握る手首の拘束を振り払おうと少し大きく腕を動かした。
「や、やだ、やだです…」
 ぐっ、ぐっ。一度、二度と動かしてもびくともしない力の強さにまた怯えが強くなる。嘘…こんな綺麗な顔をしてるのに、力はゴリラやん…。恐怖で正確な情報の判断ができないまま先生の脳内認知がゴリラに書き換わる。やっぱり人間じゃないじゃん、猛獣じゃん…! 勝手に置き換わった情報でさらに恐怖を高めながら先生を見ると、申し訳ないような、どこか嬉しそうな、気まずそうな表情で唇を懸命に閉じ、片手の親指でキャップを回して開けようとしていた。マジで何? なんの表情? どういう感情なの? 楽しんでる? 自分の教え子と同じくらい年下の大学生をいたぶって、喜んでいる? お前ッ…!! 自分勝手な妄想で先生の風評被害を作っている間に、準備ができたらしい先生はじゃあいくよと声をかけて瓶を逆さにした。 
「やだ! まって!」
 高く跳ねあがる拒絶の声も空しく、よく液体の染みたキンカンの丸いスポンジ部分が、私の患部にピト、と接触した。
「ア゜!」
 細く、強い痛みが電気のように走る。虫刺されとはつまり消毒液なのだ。当然、掻けば掻いただけ傷口の炎症も酷くなるのだから、その分用毒の刺激も大きいものとなる。旅行が始まる前から今に至るまでのほぼ全ての時間を使って虫刺されスパイクに至っていた私の傷口は、それはもう酷い状態になっていたのだ。それを、今、思い知っている。人の声帯から発するこのできる音とは思えない悲鳴を上げながら痛みに目を閉じ、懸命に腕を引く。当然、先生の手がそれを許さない。
「沁みるだろうね…すまない」
 先生が一つ一つの点へピトリピトリと丁寧にスポンジを当てていくたび、やはり電気に鋭く貫かれたような刺激が走る。それにいちいち体をびくつかせて文字では表せないような音の悲鳴を上げているうちに、もう片方の手を取られてそちらも丁寧に処理が施された。
「いたい、いたいですせんせい、いたい…」
「うんうん…」
 絵文字みたいな顔でしみじみと頷きながらも掴む力が緩むことは一切なかった。いたい、せんせい、という人語と人語ではない何かの音を交互に発声しながらようやく両腕の処置が終わって、先生の手は脱力しきった私の手首を静かに膝に置いた。紳士的なゴリラだ…。既に冷静になった頭でなお恨みを込めて先生そう罵っていると、ふっと隣の気配が動く。それは、そのまま先ほどまでのように私よりも低い位置に移動した。ぎょっとしている私の足に、先生がそっと触れる。コ、コイツ…いつの間に!? 私が即座に足を引くより、先生の手が私の足首を握りこむほうが早かった。まるでバトル漫画のような瞬間的なやり取りでまたしても敗北した私は、「先生!」と悲鳴のような声を上げた。
「君のためなんだ。分かってくれ」
 漫画やアニメなどの創作物でしか聞いたことのない台詞とともに、先生が私の虫刺されの一つに狙いを定めてキンカンのスポンジを当てる。ピアノ線がマッハの速さで突き刺さった、そんな瞬間的な強い痛みに天を仰ぎながら叫んだ。
「ナ゛!」
 バグポケモンの名前みたいな発音で痛みに震えながら、足を蹴るような動作で逃れようとする。しかし固定されて動かせない。その間にも先生は引き続き、腕と同様無駄のない動きで患部の一つ一つに的確にスポンジを当てる。断続的に上がる悲鳴と反射で瞬間的に跳ねる体ですっかり体力を消耗した私は、先生が足首から手を離したのと同時に背もたれに全体重を預け再度天井を仰いだ。長椅子に投げ出した両手もすっかり天井を向いている。
 メインの蛍光灯が届けている光が徐々にその強さを失っていくグラデーションを眺めていると、ラファウ先生に私の名前を呼ばれたので体を起こす。先生はまだひざまづいていた。もう年上への敬意とか礼儀とかを気にするのも馬鹿らしくなっていたので、じっと先生を見つめていると、そんな目で見ないでくれよ、と苦笑いをされた。文句はあるけど相手を困らせたいわけではないので、むっとした表情は崩さず、少し顎を引いてわざとらしく視線を鋭くさせる。あはは、と笑う先生はやっぱりまた視線の下にいる。
「…座らないんですか?」
「ああ、いや、うん、少しね」
 何が少し? まだ何か用事があるのだろうか。用事があるにしても、先程から先生がその姿勢を取っている理由は私の足に何かしら行動をするため以外のものはないとお見受けするが。何かものとか落ちたのかと私も視線を下げようとした瞬間、先生の広い手のひらがまた私のふくらはぎの曲線を包んだ。またこれかよ。もういいよ。なんだよ、また星か…? 不快ではないが普通に驚くので許可を取ってほしい。不満を露わに唇を尖らせながら、私はため息をついた。もはや抵抗すまい。もう疲れてしまった。ラファウ先生はただ触れるだけではなく、それを少し高い位置に持ち上げ、また浴衣の裾を払った。ついでにスリッパも取る。足の脛から足首までがまた先生の眼前に晒されているのにそわそわしつつ、もう好きにさせておいた方が早く終わるのかもしれないと思い、ただじっと静観した。
 いくら薬を塗ったとはいえ、刺し跡がすぐに完治するわけでもない。未だにぽつぽつじわじわと赤く腫れ、皮膚に滲んだように炎症を起こしているそれらを眺めて、先生はうっとりと感嘆の声を上げた。
「いや、しかし見事なものだ…」
 何がだよ。この期に及んで好奇心を優先することある? 先生は興味関心というより、熱っぽい視線をそこに注いでいた。正直ぞわぞわする。何だよその目は。どういう…何? 相手は私のことなど気にも留めず、また虫刺されを一つ一つなぞったり親指の腹で丁寧に撫でたり、まるで慈しんでいる、もしくは愛でるといった表現がふさわしくも思えるほどの触り方で私の足に触れていた。おい、マジでやめてくれないか…。笑いというより変に上ずった声が上がりそうなのをこらえ、この時間が終わるのを待つ。先生が、どこかぼんやりとした声で呟く。
「こんなに赤くなって…肌が白いからいっそ絵画的な華やかさも感じるなあ。虫にとってはよっぽどのご馳走だったんだね」
「あの…」
 先生が、アルデバランと称した部分に顔を近づける。おいおいおい。さすがに何かを感じ取り、今度こそ顔面を蹴りつけても構わないと意を決して膝を勢いよく伸ばすようにしたり太ももを上下に強めに揺すってなんとか逃げ出そうとする。そのどれもが相手の力に勝てず、さらに焦りが強くなる。驚きと困惑に目を見開きながら必死にそんなことをしていると、先生が低い位置から私に視線を合わせてきた。優し気に下がっている目尻がさらにとろけるように細められる。
「かわいいね」
 かわいいね…? かわいい…? どこが…? こちらがかわいく見せようと思っていないときに与えられる異性からのかわいいほど意味不明なものはない。動けず、止まらず、その状況で一方的に与えられた理由のない誉め言葉に呆然とするしかない私のふくらはぎの側面に咲いた、傷の多いアルデバラン。その赤に、先生が頬を寄せた。は? ぽかんと口を開ける私へ見せつけるように、先生はさらに目を細めた。そのままさらに顔の角度を傾ける。通常、手や足の感覚しか伝わらないふくらはぎに、よく保湿されている頬の触感が滑らかに触れた。そして、ラファウ先生の唇の血色感が、よく腫れている患部の赤と交わった。
 私の口が知らず知らず絶叫するための形を作っていく。ラファウ先生は、やはり瞼を重くさせて、どこか蠱惑的に零した。
「君って、そんなに美味しいのかな?」
「~~~~~~~~~~ッッッ!!!!!」
「なんだ…!? ポケモン…!?」
 ほかほかと温まった体でいい気分になりながら脱衣場から出てきたアルベルトの鼓膜を、突然の奇声が切り裂いた。キーンと鳴る耳鳴りを押さえながら慌てて周囲を見渡すが、特に異常はない。なんとなく初代のルージュラっぽい鳴き声のようだが当然架空の生き物なので、実在はしていないはず。では、一体どこで、何が。生まれつき獲得している高い視点から、共有スペースの全体をきょろきょろと眺めていると、視界の端に映った暗がりから見知った人物が電光石火の勢いで目の前を横切り、何事かを叫びながらどこかへ走っていった。勢いてすっぽ抜けた緑のスリッパが宙に舞い、アルベルトの目線の先に二つ落ちる。それが今日、彼がタクシー要員としてヘルプを出した自分の高校時代の友人であることを認めると、「やー元気だなあ」とさらによく知る人物が透かし彫りのパーテーションから顔を出した。よく整っている顔の半分に赤い跡が付いている。
「ラファウ先生…? なんですかその…手形…じゃなく足形…!?」
 珍しすぎる。これまでにない事例に、アルベルトは顧問の立場にある人物の顔を不躾にも凝視してしまった。ビンタの跡として落ち葉のような掌の跡が残ることはよく見るが、足形が頬に残るパターンはそう見ない。架空の物語でも例の少ないだろう現象を、まさかこうして現実で拝むことができるとは。などと考えながらアルベルトはしかし、その原因が先ほどの人物だろうことは容易に予測がついたので、また何かしたんですかとラファウに尋ねた。
「いやー、ちょっと虫よけ対策をね」
 尋ねられた方はそんなことを言いながらハハ、と頬を緩ませ、浴衣の袖口から一本の小瓶を取り出し、それをアルベルトに差し出した。アルベルトはなんですかこれと訝しがりつつそれを受け取る。
「彼女に後で返しておいてくれないか」
「…キンカン?」
「虫刺されだよ。足が酷くやられていてね」
「あー…」
 顧問の顔に足跡が残るような事態、その起承転結になんとなく想像がついたアルベルトは、大きく息を吐きながらラファウに向き合った。言っても聞かないだろうな、とは思いながら。
「あまり刺激しないでやってくださいよ」
「分かってるとも。…あーあ、彼女がこっちの大学に来てくれてさえくれていればなあ」
 ラファウがわざとらしく腕を組み、頭を傾げながらぼやく。その様子を横目に、アルベルトは「仕方ないですよ」と淡白に返した。
「彼女の意思を尊重するべきです。それに、以前に備わっていた知能が今も引き継がれているとは限らないようですし」
「そこを君に頑張ってほしかったよ、僕は」
「簡単に言いますね…」
「君だって、彼女とこのまま学校生活を送りたいとは思っただろ」
「…まあ、それはありますけど」
 しかし、それこそ今考えても仕方がないことだ。アルベルトは床に落ちたスリッパを二つ拾いあげる。それぞれの爪先がてんでの方向を向いていた。それらに少しだけ微笑みながら、大声を上げ自らの両足を、スリッパが脱げるほど思い切り踏み切んで駆けて行ったあのたくましく健康な姿が逃げて行ったのと同じ方向に歩き出す。ラファウもそれに続く。
「ともかく、あの子が元気そうでよかった」
 ラファウの安堵するような深く静かな声にアルベルトは友人と過ごした今日の一日を思い出しながらそうですねと同意した。
「虫よけスプレー、貸してください」
「敬語…?」
 怪訝な表情のドゥラカから手渡された虫よけスプレーを受け取った私はありがとうと言いながら既に明るいミントグリーンのキャップに取り付けられたボタンを強く押し込んでいた。シューーーという途切れることのない噴射音を聞きながら、腕や首、足、体のあらゆる部位、全身に余すところなくその煙を吹きかけた。時刻は22:00。観察会は予定通り開催できるようだ。天気は晴れ。新月。天体や星座を観測するのにはうってつけの夜になった。
 「草むらには入るけどそこまでじゃないから浴衣でも別にいいけどなるべく動きやすい服装を推奨する」というサークルリーダーであるアルベルトからのメッセージに従って、私は半袖短パンで参加することにした。
 ドゥラカと屋外に出るや否や、冒頭の通り大変礼儀正しい口調で虫よけスプレーを希望し体中に噴射しまくる私に、ドゥラカは「よっぽど痒かったんだね」と苦笑いをした。彼女と合流するまでにあったことを思い出しながら、うん、とだけ頷く。同時に浮かんできた皮膚を掴んだ長い指と、爽やかな見た目からは想像もつかなかったその力強さと、寄せられた唇の厚さに顔が熱くなる。恥ずかしさに歯を食いしばると、口から変な声が漏れる。
「ギギ、ガ、ギ…」
「あんた、さっきから変じゃない…?」
 レジギガスみたいな声出して…。ドゥラカのぼやきに、彼女がレジギガスという単語とその存在の鳴き声まで把握していることを知る。ポケモンどこまでプレイしたことあるのかな。アルベルトは今出てるAZまで全部プレイ済みらしいけど。ドゥラカにごめん、なんでもないと答えてスプレーを返した。そして自分の頬を両手で軽く叩く。忘れよう。少なくとも今だけは忘れよう。せっかく良いコンディションの気候になったわけだし、有名大学の歴史ある天文サークルの活動に参加しているわけだから、少しでも充実した時間にしなければ。
 そのとき、草むらに突っ込んでいる己の足を、少しだけ長く伸びている雑草の細い葉っぱに触れた。どこにでもある細長い形状の平たい葉っぱが自然と肌を流れたことで、忘れていた虫刺されの痒みがまた気になった。思わず脛に手を伸ばし、ピタッと止まる。視界に入った腕の一部分に、先生の指の感触が残っている。ほくろを入れて、夏の大三角形。ついついふくらはぎに目をやる。傷口のごちゃごちゃしている部分は、アルデバラン。それを思い出して、また顔が熱くなった。おいおいおい、本当にとんでもないよあの人…。
「ドゥラカさん」
「な、何…? さっきからなんで敬語なの?」
「もっかい虫よけ貸してください…」
「え? また?」
 訝し気に眉を顰めながら、さきほど返されたばかりの虫よけスプレーをまた私に渡してくれる。友人の意味不明な行動に当惑している様子がありありと見て取れた。自らの挙動不審で相手を戸惑わせているのを申し訳なく思いながら、しかし原因の在処は自分にはないため、その想いを込めてしゅーーーと噴射する。かけすぎじゃない? ドゥラカの声を聞きながら、間抜けな音と虫よけスプレー独特の薬剤の匂いに、もうこれ以上あらゆる意味合いでの「虫」が近寄らないことを切に祈った。
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ぱな
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ぱな
休憩~ 駄目だ疲れてきた…
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虫座(了!)
初公開日: 2025年09月08日
最終更新日: 2026年01月17日
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