「ゼロ地区――」
その言葉を口にした一瞬、ルビの目元がピクリと反応したのをキツネは見逃さなかった。
「渡辺ルビさん、あなたは自身が、なにかを失ったという感覚はありますか? あるいは――なにかが奪われたという感覚は?」
バロック自身にこうした質問をするのは異例だ。歪んだ妄想に囚われたバロックは自身を内省することが難しく、また自分から自身の抱える妄想を延々と喋り続けることも多いからだった。しかし、キツネはこの少女の奇妙な平静さから、聞き取りと話し合いが可能であると判断した。
キツネの質問にルビはしばらく黙って考えていたが、ややあって首を横に振る。
「ここを訪れる方の中には、心因性の症状をバロックだと誤解するケースも多い。あなたも、一時的なショックによる一時的な記憶喪失の可能性がある」
「あ、あたしはそんなんじゃ――」
反論しようとするルビを押し留め、キツネは話を続ける。
「先ほども言った通り、あなたの背中の傷は自分でつけられるようなものではない。かといって、事故などでつけられたものだとも思いにくい。それに――」
「それに?」
「あなたのバロックは、多くの傷跡に関するバロックの通例とは大きく異なっている。それに、現在データベースを検索したところ、あなたのバロックに該当、あるいは類似するデータは見つかりませんでした」
「それじゃ……お手上げってこと?」
「まさか」
キツネは座席の上のモニターを回して、液晶画面を示した。
ルビはそこに写っているものの正体を測りかねるように眉をひそめた。モニターに表示されているのは、スズメが政府のデータベースの奥底を洗って見つけてきた、謎の怪物「異形」のデータだ。
ルビはその画像をじっと見つめたままなにも言わない。キツネはその様子を観察する。
バロックは自身の抱える歪んだ妄想に自覚的であるとは限らない。しかし、そこには確かに歪んだ妄想があり、その存在、その種類、その正体を示す兆候は必ず何らかの形で現れる。本人の意志にかかわらず。
言動、呼吸、発汗、そして視線。自身のバロックにつながるものという刺激に対して、何らかの反応を示すはずだ。キツネはそれを観察する。
「――なに、これ」
観察するまでもなかった。ルビの呼吸は乱れ、視線が震えている。
それは、画面に表示された怪物の不気味さに対する反応だけではない。
ひとつの確信が得られた。やはり、【ルビの背中の傷はこの謎の怪物、異形に着けられたものだ】と見て間違いないだろう。
「これは非公開、非公式のアンダーグラウンドな情報なのですが……この画像に写っている怪物は『異形』と呼ばれている謎の存在らしいのです。そしてあなたの背中の傷は、これら『異形』によって着けられた可能性が非常に高い」
ルビの手が、おそらくは無意識に背中の傷をなぞる。
「この『異形』と呼ばれる存在の情報も、すでに集まりつつある。あとは、目撃情報のあった場所を調査して――」
(以降、本文とつなげる)