「おいルビ、なにして……」
 キツネが止める間もなく、ルビはカウンターの上に足をかけてよじ登った。とのときにはすでに、天井のパイプから流れ出ていた水は止まりかけ、床の水たまりもそのほとんどが排水口に流れ込んでしまって、異形たちは再びカウンターににじり寄ってきていた。あの腕の大鎌がふるわれれば、次の瞬間には無防備なルビの体はあっさりと切り裂かれてしまう。
 キツネがもう一度叫ぶより先に、ルビは跳んだ。いや――飛んだ?
 カウンターの下から見上げていたキツネの目には、ルビが確かに見えない翼を羽ばたかせて飛んだように見えた。ルビの背中の傷――背中に広がる血の染みが、一瞬真っ赤に染まった天使の翼だった。
 ――天使のバロック。
 これだ、とキツネはわけもなく確信した。ルビのバロックは、天使のバロックだ。
 足がカウンターの天板を大きく離れ、ルビは空中に躍り出た。地下クラブの暗い天井を突き抜けて、遥か高い天に伸ばされたかのような手が、天井の錆びついたパイプを掴んだ。ルビの体重にも耐えられないほど老朽化していたパイプはへし折れ、そこからは大量の水が吹き出した。
 無防備にカウンターに近づいてきていた二体の異形は、頭からその水をかぶる。水がかかった部分が茶色く泡立ち始め、溶け崩れていく。
 今度こそ力尽きたのか、ルビの手が掴んでいたパイプから滑り落ちた。カウンターから飛び出したキツネが、その体を受け止める。
 水で身体が溶かされ悶えている異形の横を、キツネはルビを引きずるようにして走り抜けた。溶け崩れつつある異形は大鎌で崩れた肉片をかき集めており、ふたりに気づく様子はない。
「これ、ひとつ貸しだかんね……」
 キツネに引きずられながらも軽口を叩くルビに安堵したのをさとられないように、キツネは正面を見据えたまま走る。
 ようやく慣れてきた暗闇の中に見えるのは、入口の鉄扉だ。キツネはルビを抱えたまま、迷うことなく鉄扉に全身で体当りした。ギギギ、という耳障りな音とともに鉄扉が開くが、まだ通れるほどの隙間ではない。もう一度体当たりを、と助走をつけようとした瞬間、言いようのない悪寒がキツネの背中を這い上がった。
 キツネは反射的にルビを抱え込んでかがんだ。そのときにはすでに、すぐそこまで追いすがってきてた体が半分ほど溶けた異形が、両腕の大鎌を振り上げている。
 瞬間、ルビが全体重をかけて思い切り鉄扉を蹴った。その衝撃でわずかに広がった鉄扉の隙間に、キツネは無理やり体を押し込んだ。デタラメに振り回された大鎌がぞっとするような金属音を立てて鉄扉をひっかく。
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