ルビは黙ってキツネの言葉に耳を傾けている。バロックは突然理性を失って暴れ出す者も珍しくはない。しかし、この謎の傷跡を背負った少女は困惑こそ見られるものの、比較的安定しているように見える。このタイプなら、カウンセリングの要領でバロックを輪郭を明確にしていくことができるだろう判断したキツネは、データベースを検索しつつもルビに語りかける。
「傷跡に関するバロックの大きな特徴は『印』です。傷跡という印を刻むことで、自身の特殊性をアピールする。自傷行為とは根本的に異なるのが傷跡に関するバロックです。しかし多くのバロックは、自分で自分に傷跡を刻むという点においては自傷行為と同じ。ですが――」
「こんな傷、自分で背中につけるなんて無理、だよね」
キツネの言葉を先回りしてルビが言う。やはり、この少女は他のバロックとはなにかが違う。違和感を覚えながらも、キツネは言葉を続けた。
「その通り。あなたのバロックはそうした意味でかなり特殊な部類に入るでしょう。それにあなたは、その傷のことを覚えていない。傷跡に関するバロックは、多くの場合その傷を『聖痕(スティグマ)』として認識しています。その傷は聖なる者の証であり、それによって自分は特別な存在であるというバロックを抱えている。しかし、傷のことを覚えていなければ、その傷を聖痕として誇示することもできない」
「……」
ルビは黙ってキツネの話に耳を傾けていた。バロックにしては奇妙なほど理性的――いや、この少女は本当にバロックなのか?
確かに、バロックを装ったエセバロックがバロック屋を訪れることは珍しくもない。神経症や統合失調症の症状をバロックであるとクライアントが誤解しているケースもある。しかし、そのいずれも十分な経験を積んだバロック屋であるキツネなら見分けることができる。目の前のこの少女は――そのどちらにも思えない。
いずれにせよ、バロックを特定しないことには話が始まらない。しかし、聖痕としての傷跡に関係しないバロックとなるとかなりのレアケースと言える。データベースを検索しているが、「聖痕」というキーワードを除外した検索結果は――ゼロだ。
キツネは、この少女が抱えているバロックをこれまでにない新種のバロックであると判断した。既存のバロックであればデータベースから取り出したものを与えてやればそれで済むことも多いが、データベースにない新種のバロックであれば一から構築しなくてはならない。これは骨が折れる仕事だと胸中でつぶやき、キツネは久々に「新規作成」の入力フォームを開いた。
「聖痕以外の、傷跡の持つ意味は――欠損です。渡辺ルビさん、あなたは自身が、なにかを失ったという感覚はありますか? あるいは――なにかが奪われたという感覚は?」
バロック自身にこうした質問をするのは異例だ。歪んだ妄想に囚われたバロックは自身を内省することが難しく、また自分から自身の抱える妄想を延々と喋り続けることも多いからだった。しかし、キツネはこの少女の奇妙な平静さから、聞き取りと話し合いが可能であると判断した。