「まタ、うごイた。ふシぎ」
 そしてまた、「その子」の表情はにじむようにして笑顔になって、こっちを見た。こんなに近くでだれかの顔を見たことがなくて、わたしは顔を真っ赤にしてしまった。
 わたしの胸の中に染み込んだ「その子」の手……ううん、「その子」そのものが、わたしの心臓をゆっくりと撫でているのがわかる。
「は……あ、あ……っん……」
 唇から勝手に、熱を帯びた吐息が漏れる。今まで味わったことがない……というか、ふつうなら味わうことなんてないはずの感覚に、わたしの心だけじゃなく、体全体が戸惑っているみたいだった。
「くスぐっタい?」
 「その子」は、子供みたいに無邪気な表情で聞いてくるけど、わたしはなんて答えていいのかもわからず、ただ、いちばんだいじな部分を優しく触られて、吐息をこぼすのが精一杯だった。
「わたしたちのも、さワって」
「え……?」
 体が熱を帯びて、なんだかぼーっとしていたわたしは、「その子」の言葉に声にならない中途半端な吐息で答えた。
 どういう意味か一瞬計りかねたわたしの手を、「その子」の水でできた両手がそっと掴んだ。そして、自分がやったみたいに、わたしの手を自分の胸に触れさせた。水と生身の体の中間の、不思議なやわらかさ。――こんなふうに人に触れたことなんてないんだけど。
「サわって」
 「その子」はもう一度そう言って――掴んだわたしの手を、自分の胸の、その奥に導いた。水が弾けるちゃぷんという音とともに、わたしの両手は、「その子」の胸の中に沈んでいた。
 わたしの手は、いつも「その子」の胸のあたりに浮かんでいる、赤い球体――わたしは漠然と、「その子」の核みたいなものだと思ってる――に触れていた。
「ン……」
 「その子」は目を閉じて、そんな声を漏らした。その表情はなんだかその……えっちな感じで、わたしもさっき同じような顔をしてたのかもと思うと猛烈に恥ずかしくなってきて、わたしは慌てて「その子」の胸から両手を引き抜こうとした。
「あ、だメ……もっトさわっテてほしい……」
 普段あんまり表情が変わらない「その子」の顔が、そのときには奇妙なくらい切なげに見えたのは、わたしの錯覚だろうか。
 わたしは「その子」の胸の中の赤い球体を、壊れ物に触れる気分で、恐る恐る両手で包むようにして触ってみた。
 その感触は――普通の人間で、まだたった17年しか生きていないわたしのどこを探しても、その感触を正確に説明できる言葉は見つからない。
 両手の中に包みこんだその球体は、わずかに大きくなったり小さくなったりしてるような気がした。小さくふるえているような気もした。かすかに音が聞こえるような気もした。少しずつ色が変わっているような気もした。
 頭の隅っこのほうで、わたしはいきなり気がついた。この感触がなんなのか。
 この世の誰もが持っていて、この世の誰もが直接触れたことがないもの。
 なぜ、それに気がついたのかはわからない。でも、はっきりとわかった。
 いのちの、感触だった。
 「その子」が触れているわたしの心臓よりも、もっと直接的で、むき出しの――いのちの形。
 そのことに気づいた瞬間、わたしの目からはなぜか、勝手に涙がこぼれていた。
「ないテるの……?」
 「その子」がわたしに顔を近づけてくる。お月さまと同じ金色の瞳が、わたしをじっと見つめていた。
 わたしはこみ上げる衝動のままに「その子」を抱きしめて――キスしてた。
 なんでそんなことをしたのか、わたしにもわからない。でも、体が勝手に動いて、そうしてた。
 唇に感じるのは、水の固まりっていうより、ゼリーみたいな柔らかい感触。
 ゆっくり唇を離すと、「その子」は少しだけ驚いた顔をしてた。
「ご、ごめんなさい! いきなり、こんな……」
 わたしが慌てて体を離そうとすると、プールから流れ出た水が固まりになってわたしを包みこんで、「その子」の方に引き寄せた。
「だメ。はなれナいで」
 「その子」はそう言って、わたしの顔を引き寄せて――今度は自分から、キスしてくれた。胸の奥に込み上げた明らかな嬉しさが、心臓を通して「その子」に伝わってほしい。そんなことを思った。
 唇を離すと、「その子」は今まで見たことがない種類の、甘やかな笑みを浮かべていた。
「うレしい。ふれアうの、うれしい」
 「その子」はそう言って、ちゃぷちゃぷ笑った。その笑顔を見てると、わたしはまた、勝手に涙が出てくるのを抑えられなかった。
 わたしが子供みたいにぐすぐす泣いてると、「その子」はそっと顔を近づけてきた。そして、わたしのほっぺたを伝う涙を、ぺろりと舐め取った。
 思わず、涙が蒸発してしまうくらい顔が赤くなってしまった。そんなわたしの顔を見て、「その子」はまた、ちゃぷちゃぷと笑った。
 わたしもなんだかおかしくなって、一緒になって笑った。
 ひとしきり笑ってから、わたしはまた、「その子」と抱き合った。
「人前でこんなに笑ったの、久しぶり。ううん――はじめてかも」
 そう言うと「その子」は、不思議そうな顔をしてた。その顔に、わたしはまた引かれるようにキスをした。
 そしてしばらくして、わたしはいつものように自分の部屋に戻った。眠って、起きれば、そこはまた普通の日常が始まる。――憂鬱だった。
「わたしも……」
 そのつぶやきは、ベッドの中にむなしく消えていく。どうせだれも聞いていないから、わたしはつぶやき続ける。
「わたしも……あなたと同じだったらよかったのに」
 ――そして、その日が来た。
 別に、その日にしようと決めてたわけじゃない。
 なにか、きっかけになるよう劇的な出来事が起こったわけでもない。
 ただ――今日だって思った。だからわたしは、そうすることにした。
 いつものようにプールに向かう。でも、わたしは水着を着ていなかった。――もう、戻るつもりはなかったから。
 生まれたままの姿でプールに足を踏み入れたわたしを、「その子」はまるで、わたしは今日このときにそうすることを知っていたみたいに、待っていた。
 プールの上に上半身を出して月明かりに照らされた「その子」の姿は、なんだか現実ではないように思えるくらい、綺麗だった。
 お月さまと同じ金色の瞳が、やさしく揺れている。
「わたしも――」
 一歩踏み出すのに合わせて、「その子」の体が、プールから溢れ出した。まるで、スローモーションで動く津波みたいに、25メートルのプールいっぱいの「その子」が、わたしを包みこんでくれた。
「わかってル」
 「その子」はやさしく微笑んで、わたしを迎え入れるように両手を広げた。
 わたしも合わせて微笑んで、「その子」に導かれるように両手を広げた。
 とぷん、と、かすかな音がして、わたしは――わたしは、
 もう、わたしじゃなくて、
 「わたし」なんて、狭くて、心細くて、孤独なものはなくなって――
 わたしは、もう――
 わたしたち、だった。
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