・エピローグ
 ――そんな余韻が続いたのは、たったの一週間だった。
「や、キツネ。遊びに来たよ」
 あのとき、歪んだ妄想の産物であったはずの天使の翼で羽ばたいて空に消えたはずのルビは、けろりとした顔で妄想解体センターの扉の前に立っていた。
 ルビが初めてここに来て、「天使のバロック」を持ち込んできたときに時間が巻き戻ったのかと、キツネは一瞬、本気で思いかけた。
 そんなキツネの困惑をよそに、ルビは勝手に事務所内に入っていき、勝手に戸棚を漁って勝手にコーヒーを淹れ始めた。
「――おい」
「なに? 自分の分は自分で淹れてよね」
「そうじゃなくてだな……」
 キツネの言葉を聞いているのかいないのか、ルビは茶菓子まで用意してテレビのリモコンを弄り始める。
「お前なあ、なに好き勝手にやってるんだ。ここはお前の家じゃないんだぞ」
「でも職場みたいなもんでしょ。別にいーじゃん」
「お前を雇った覚えはないんだが……」
「あ、ほんとだ! 未成年をタダ働きさせるとか今どきSNSで炎上したら一発だかんね。嫌なら正式に雇ってもらうから」
「……」
 閉口するキツネの代わりに、テレビからはニュースのアナウンサーの声が聞こえてきた。
『……このように、少年少女による集団自殺は増加する一方となっています。これに対し、教育委員会では全国の小中学校に警察組織や精神科医との緊密な連携を取ることによって対処する方針ですが、これらの集団自殺事件の原因はいまだ特定されておらず――』
 テレビから流れてくるニュースの内容は、ルビがこの妄想解体センターに転がり込んで来る前と何ら変わりない。今この瞬間も、この国のどこかでは歪んだ妄想に侵された――否、妄想とも知らずにそれを信じた少年少女たちの足が、屋上の縁を蹴っているかも知れない。
「――あんなことがあったのに、世の中、変わんないね」
 コーヒーを啜りながら、ルビがぽつりとそんなことを言った。
「そんなものさ。個人にとっては大きな出来事でも、社会全体から見ればなんでもないできごとだ。有名人の訃報だろうが殺人事件だろうが、SNSで1ヶ月も騒がれれば別のニュースにとって代わられて忘れ去られる」
「でも……バロックはなくならない」
「そのおかげでわたしたちバロック屋は食って行けているとも言えるな」
「ふうん……」
 ルビはテレビ画面から視線を外した。事務所の天井に向いたその視線は、一体どこに向いているのか、キツネにはわからない。
「……この世界が、燃えてしまえばいいのに」
 ルビがぽつりと漏らしたその声は、ルビのものではなく、知らない少年の声……のような気がして、キツネはモニターから顔を上げてルビの方を向く。
「……なんだって?」
「なんでもない」
 そう答えるルビの声は、もうルビのものだった。
「キツネ、さっき言ったこと本気だかんね」
「なんのことだ?」
「だからぁ、ここに正式に雇ってくれって話。わたしが色々役に立つのはキツネも知ってるでしょ」
「ふぅむ……」
 確かに、ルビの交友関係はキツネは持たない種類のものだ。情報源としての価値は高いと言わざるを得ない。それに――。
 キツネはルビの背中に視線をやる。
 あのとき――マルクト教団の本拠地で大量の水に飲まれたときに見たあの光景は――ルビの背中から大きな純白の翼が生えたあの光景は、果たして現実だったのか、バロックだったのか。
 バロックだったとすれば――あの「天使のバロック」は、いったい誰のバロックだったのか。
 なんでもない顔をして戻ってきたこのルビの背中には――あの傷はまだあるのだろうか。
「――なにじっと見てるのキツネ。やらしー」
「言ってろ」
 生意気な口の利き方は、間違いなくルビのそれだった。そのことに、キツネは安堵を覚えた。
 つけっぱなしのテレビの中では、なおもバロックが社会問題になっていることを評論家や研究者がさかんに議論している。
 それこそが、どこか遠い世界の話のようだった。
 バロック。歪んだ妄想。
 それを特定し、解体した先にあるのは、やはり同じ、歪んだ妄想だった。
 ならばこの社会は、この社会そのものが――。
 テレビの液晶画面に一瞬、まばゆく輝く白い羽根を幻視する。
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