鉛のついたように重たい一歩がぬかるんだ砂浜に沈み、足を取られる前にどうにか次の一歩を踏み出す。とうにブーツの中には海水が侵入し、歩くたびに水と空気で泡立つような嫌な音がしていたが、寄せる波を悪あがきで避けようとしてよろめき、その場にズデンと転がった。皆がここを去った後で良かった。そうでなければ、波を避けようと内側に踏み出した右足を避けようとした左足が右足に引っかかって足を交差したままスッ転ぶさまを一週間は擦られていただろう。
なにせ右腕の肘から下がないため受け身すらとれない。戦闘中に敵に切り落とされ、豊前江本体ごと海に飛んで行ってしまったのだ。申し訳程度の止血のために今右腕には山姥切国広のハチマキが巻かれている。どうせ終われば無かったことになるのだが、心優しい山姥切が「今はこれしか……どうにか、頑張れ!」とかいうふわっとした励ましを真面目な顔でするものだから何も言えなかった。
口に入った砂を一生懸命吹いて飛ばし、左腕の力だけでどうにか体を起こす。顔を上げると、少し離れたところに倒れている男が見えた。豊前は三つ這い(一本少ないため)でそこまで近寄ると、失血なのか元々なのか生白い横顔に呼びかけた。
「ささ」
笹貫はちょうど海の向こうに足を向け、仰向けに寝転んでいた。地面に広がった青藍色の上衣は今彼自身の血で染色されている。確か背を斬られ、豊前より先に戦闘不能となったはずだ。
「さーさ」
反応がないのでもう一度呼びかけて肩を叩くと、瞼が僅かに動いてゆっくりと開く。
「……おはよ……」
「か細(笑)」
心許ない返事に失礼ながらも少し笑ってしまった。まるでこれから息を引き取りますよといった声だが、本人も豊前につられて口の端を持ち上げた。
夏の恒例行事となった連隊戦、練度も上限を迎えた二人にとって久しぶりの戦場だったが、高練度の極たちに交じって最難度の演習場で戦っていると半ばでこのようなことになったりもする。戦闘不能になった刀はその場で待機となり、演習が終わると勝手に傷は回復するのだが、終わるまで痛いものは痛い。
「それ何針?」
「100はいくね~」
「ミシンのがはえーじゃん」
「アハハッ!」
「それは何針くらい縫うような傷なのですか?」「少なくとも○○針はいくと思います」という仲間内で散々擦り続けているやりとりなのだが、タイミングか呼吸が上手いこといったのか、軽いジャブに笹貫が大口を開けて笑った。一発軽く笑って終わるのかと思いきや喉をのけぞらせてそのまま腹を押さえ左右に身をよじらせながら笑い続ける。腹がよじれるだけ笑っているというより、笑うと傷が痛むのに止めることができないのと半々で悶えているようだった。少し咳き込むとやっと話せるだけの余裕が見えてくる。
「し、死んじゃう、ハァ……元気じゃん豊前」
「胴体は無事だからさ」
笹貫が左側に倒れているため体で隠れていた右腕の断面を見せる。一応申し訳程度になんとなく止血している風にしただけの処置のため、いまだぼたぼたと真新しい血が砂に染みていった。
「左じゃバブちゃんとそんな変わんねえからよ」
「んはは、右腕に全てを預けすぎ」
「そー。地位も名誉も誇りも全部切り落とされて海に飛んでった。あと俺のゲロ」
「ふっ、ふふふ……ヒィ……」
「めっちゃ笑うじゃんw」
冗談を交わせば交わすだけお互い体力を失くすだけなので黙って横になっている方がましなのだが、ついいつもの調子で軽口を交わしてしまう。ゲラの笹貫はまた腹に力が入っておかしいんだか苦しいんだかわからないようなくぐもった声と笑っているんだかしかめてるんだかわからないような表情をして震えている。こいつもそろそろヤバそうだ。そう思っている豊前もまた頭のてっぺんから体へ向かって徐々に冷たくなっているような感覚と共に視界が暗くなり始めており、体を起こしていることがつらくなってきたので素直に寝転んだ。ちょうど笹貫と同じように、空を仰ぐようなかたちで。首を捻って、咳き込みながら笑っている笹貫の横顔をじっと眺める。失血で青くなってようが、擦れた血が頬についていようが、砂浜に横たわって青空を背景に見る好きな奴の顔はどれほど眺めても飽きようがない。
笹貫は出会った頃より笑うようになった。前からこんなふうだったとも思うのに、そうであってほしいのかどうなのか、どこがどうとは言えないが前と笑い方が変わったようにも感じる。笹貫と仲良くなって、他にも仲のいい友達ができて、輪ができるほどの仲間ができて、今ここで豊前がそうと感じるまでの間彼の中で何かが良い方に変わって、笑うようになったのなら嬉しい。かつては相槌代わりみたいに、何かのついでみたいに口だけで笑っていた彼の変化に、少しでも多い割合で豊前が関わっていたら、本当はもっと嬉しい。血と一緒に頬に張り付いたひと房の髪をどけてやれたら、一人分ほど空いたスペースを縮めて、身を寄せ合ってじっと演習が終わるまで待っていられたら、じわじわと湧いてくる欲求を押し殺すように口を一瞬引き結んだ。少なくとも笹貫にとって、豊前はまだそんな間柄ではないはずだから。
「まだ言わないの?」
本丸の庭を借りて花火セットで遊んでいたとき、気を利かせた小竜が笹貫と二人で途中買い足しに行くように仕向けてくれたことがあったのだが、何事もなく戻った豊前たちを見た小竜が隣に来てそう言った。小竜景光は豊前が笹貫のことを好きだということを知っている唯一の友達で、言う前に悟られてもいたし、聞き出されてからはちょくちょく二人になるように機転をきかせてくれている。
「いやあもうちょっと……」
「ヘタレてるなあ」
小竜に笹貫のことが好きだと漏らしたころから似たようなやりとりを何度も繰り返しているからか、小竜の声にはさして失望の響きはない。最初こそ、豊前のこの感じでさっさと告白してしまわないことに驚いてはいたが、だいたいは元々垂れ目がちの目元を緩めて口先だけで呆れたようなことを言う。
「万が一ささが俺のこと振ったらよ。俺たちから離れていきそうじゃん」
「ああ……」
庭石に座って、火のついてない花火の先の紙を意味もなく指先で弄びながら、 視線は八丁から火を貰っている笹貫のほうを向いている。
いっそ今すぐにでも言ってしまいたい。ポロッと口や態度や目線やその他から好きが漏れそうになることも何度だってある。けどそれで楽になるのが豊前だけだったとしたら? 笹貫にその気持ちがなかった場合、きっと彼は豊前たちとは居づらくなるだろう。
「振られてもあわよくばもうワンチャン狙うけどな。でもささからいなくなりそうじゃんか」
「あの人だいぶ水臭いとこあるよね」
「振られても一緒にいてえわけ。だからそもそも振られたくねえの絶対に。そのためにぃ、今はぁ、耐えてぇ、満を持すわけよ!」
「がんばって満を持してください……」
豊前の横に立っていた小竜は言いながら、ゆっくりとしゃがみ、座っている豊前より少し下から目線を合わせた。
「でもさ、俺たち、ずっとこれからもこんなふうじゃないかもしれないよ」
豊前がその気になればいつでも笹貫に手を伸ばせるだけの性格であるのに、ずっと足踏みし続けていることに対して、小竜は説教じみたことを言ったりはしない。その時も、彼はどちらかというと、年下の弟や妹を見るような穏やかさで豊前を見た。しかしだからこそ刺さる言葉もある。
「あ誰が折れるとか死ぬとかじゃなくてさ。別にいくらでもあるだろ、理由なんて。明日には戦争なんて終わってるかもしれないぜ」
「ぐぅ。。。。。。」
「ぐぅの音出しちゃった」
わかってはいるけど、だとか、返せる言葉や態度の中で反抗的なものを選ばなかったのは、小竜が終始柔らかい諭し方であるからだ。とはいえたった今満を持すと言ったのを掌返しで撤回するのも格好がつかないから、冗談と納得の合間を取った苦し紛れが漏れる。
「まあ大急ぎする必要もないと思うけど。笹貫を一人にしたくないって豊前の優しいところ、伝わったらいいな」
そう言って小竜はニッコリ笑って八丁たちの元へ歩き去って行った。残された豊前はいよいよ火のついていない花火を手遊びしているだけになり、不思議に思われないために後に続くほかなくなる。
「なに?告白とかしてた?」
輪の中に戻った途端笹貫がふざけるので、「なんかぁ……心に決めた人がいるって……」としょげたふりをしてふざけ返すと、薄ら笑いが本気の仰け反り笑いになり、たたらを踏んだ足が火消しのバケツに嵌ってひっくり返りそうになった笹貫が肩にしがみつき、二人揃ってひっくり返りながら豊前はラッキーなどと思っている。
ラッキーと感じる一瞬は本当に一瞬で終わり、砂利で右の太ももが擦れる痛みと、笹貫の足でぶちまけられた水でサンダルごと足がびしょぬれになった最悪で塗りつぶされる。
「いっっち~~」
「ゴメーン」
「ぜんぜんサンキュー」
全くゴメンを感じさせない笑いを堪えるような表情がふてぶてかわいらしくて思わずうっかり好きが漏れてしまう。なんだぜんぜんサンキューって。亀甲の言う「ありがとうございます!」みたいなものか。
「ねえ~火事起こっても消火できなくなる。汲み直してきてはやく。連帯責任」
「火事起こる前提のバケツじゃないから……」
「一文字流ひと味違うな~」
何か絵面が騒がしいと思っていたら姫鶴が両手に噴出し花火を構えて現れ、八丁が控え目な合いの手を入れ、小竜が他人事のようなことを言う。今一番火事を起こしそうなのは姫鶴なのだが。上体だけを起こした笹貫が言った。
「ついでに足拭いてこよっか」
「だな」
また二人で抜け出しながら、姫鶴と八丁にもそれとなく感づかれているような気がしていた。特に姫鶴からは小竜のような生暖かい眼差しというよりはプレッシャーに近いようなものを感じる。もし姫鶴が本当に豊前の気持ちに気付いているのだとしたら実際に(姫鶴の性分を鑑みるに)苛立たれて然るべきペースだという自覚があるぶん、下手に聞くことができないでいる。小竜や八丁のようにやんわり本人たちのペースに委ねてくれるようなたちでは明らかになさそうだから、豊前がだいぶ先に設定しているゴールを強引に手前に引っ張ってきて「ハイ」と顎で促しそうだ。暗い庭を濡れたサンダルのまま歩いていると、小刻みにクツクツ笑いを堪えていた笹貫が耐え切れなくなったのか豊前の肩を叩いた。
「んふ、ヒヒwwねえ聞いて足からブーブークッションみたいな音するwwww」
「お前~言いたくても言えなかったこと言うんじゃねーよ!」
それでも、ふざけすぎてバケツをひっくり返したばかりなのに懲りない会話で笑っているうちはどうやっても言える雰囲気にはならないだろうから、いざというタイミングは自分で掴むしかない気がする。豊前も肘で小突いてつられたようにして笑いながら、イヤ、ここまで大笑いするほどの流れだったか?とうっすら我に返りかけてやめる。めちゃくちゃおかしいかと言われるとそうでもないが、笹貫につられて一緒に笑っていたかった。豊前にとって、笹貫と同じタイミングで同じことをして、同じ場所に在ることが重要なのだ。
例え片や右腕と本体が海に旅立っていても、片や背中にでかいバッテンがつけられていようと、波打ち際でこうして二人で空を見上げている、今この瞬間も豊前にとっては大切な記憶の一つになるのだという気がしている。そして、どれほど大切なものでも自分たちに終わりが来る限りいつかは消えていくのだということも、よくわかっていた。
これが本当の終わりではないと、演習だから、死ぬわけではないからという気があるから、笑っていられるのかもしれない。けれども、半分、いや、三割くらい、これが本当の終わりでもそれはそれで幸せなのかも、と思っている自分がいる。死ぬならせっかくだし好きな奴のそばがいいじゃん。
「いいわけねーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
いい気分でニコニコと気絶しようとしていた豊前は唐突に我に返り、飛び起きようという心意気で目をカッと開いたが、開いた瞬間に眩んで結果5センチほど後頭部と足先が浮かんで戻った。
「びっくりした……どったのいきなり」
こちらも向こうの世界へ行きかけていたのか寝起きのような声が返ってくる。
「いや……走馬灯見ちまってた今。」
「早い早い」
走馬灯とは少し違うのだが、考えていたこと全てを伝えるには大前提の『豊前の笹貫への好意』が必要だから、口からでまかせを言う。気絶寸前だったとしてもそこの一線だけは超えるわけにはいかない。今すぐ死ぬわけではないから、まだ言わない。
ただ、連隊戦などの疑似的な合戦場で戦闘不能に陥るときは本来なら死んでしまってもおかしくないような怪我で動けなくなるわけなので、意識がなくなる寸前ついうっかり「あー死んじゃう死んじゃう」と思って焦って笹貫に告白してしまう可能性もなくはない。誰かそのついウッカリが発生しないようにとどめをさしてほしい。
「だぁいじょうぶだって。死なないよ、オレたち」
黙りこくっていたせいか、笹貫が何か別の沈黙と受け取ったらしく、丸くて柔らかな声であやされる。
『まだ』がつかないのが笹貫らしくなく、つけなかったのが笹貫の優しさなのだろうなと思った。人間ですら放っといてもいつか死んでしまうのに、このような毎日を送る豊前たち刀剣男士がそうそう長生きできるとも思っていなさそうな顔をして、そんなふうに終わりを遠ざけようとしてくれる笹貫のことを尚更好きだと思った。
暗くて狭い視界で遠くなっていく彼の笑んだ口元を眺めながら、終わっていく瞬間までその笑顔を眺めていられる幸福を反芻した。もう二度とこんなことは考えないが、やっぱり本当にその時が来るとしたらこんなふうだったら、と願わずにはいられない。その時には、笹貫が豊前と同じ気持ちであったほうが絶対にいい。だからそうなったらいいなと思うのはこれで終わりにする。疑似的であったとしても、こんなところで死んでいる場合ではない。
「あ、起きた」
寝ても覚めても笹貫の顔というのは幸福度が高い。どのくらいの間気を失っていたのかはわからないが、どれくらいかぶりに開いたせいでしぶい目とにやつく口でトータル酷い顔になっている気がする。
「24時間くらい寝てた人?」
「هذا ليس صحيحا……」
「なんて?」
「おーい撤収だってさ~!あっ」
笹貫に助け起こされながら徐々に自我を取り戻していると、戦闘を終えたらしい仲間たちが続々と二人を回収しにやってくる。うち一人が二人と同じように極に混じって戦っていた八丁で、二人を見るとなぜか歩みを止め口だけで笑いながら「アハハ~なんか大丈夫そうだし、帰還地点行こ!」と引き返した。
これは間違いなく絶対に八丁には漏れている。別に笹貫に伝わりさえしなければそれでいいのだが、豊前が笹貫へ想いを伝えるまでの間、これだけ分かりやすく気を遣われ続けるというのも居心地が悪いというか、気恥ずかしい。
「元気になったし行こっか。急がないと主命の人にケツ叩かれそー」
「この年(顕現後換算5歳)にもなってお尻ペンペンはヤだな」
連隊戦が行われるたびホワイトボードの前でノルマの数とにらめっこをしている男に尻を叩かれている想像をしては寒気を催し、言葉のわりにノロノロと歩いている笹貫の後ろを行く。
ついて行きながら、白くかすむ水平線を見つめる横顔を盗み見る。
告白をするなら本物の海がいい。斬られたって刺されたってどうせ死なないってわかっているような偽物の海ではなく。現実の、塩臭くて生臭い海がいい。そう決めて、彼は演習場を後にする。