魔界都市ワンドロワンライ2025
『〈河田町〉の歌姫』
歌声は天に昇る。
歌声は地を降る。
遠くとおく、どこまでも。
彼女の歌声は彼方まで届く。
「歌姫を見つけて来てくれ」
と、乾きひび割れた唇が告げた。
皺と垢に埋もれた表情はうまく読み取れないが、淡々とした口調には切実さが滲みだしていた。
「これが手付金だ。残りはなんとかかき集める」
節くれだったごつい指が麻袋を掴み上げて、卓袱台の上でひっくり返した。戻す手で固まり絡まった白髪をごりごりと掻く。
ごそりと落ちたフケにも、仲間内でかき集めてきたであろうくしゃくしゃの札の山にも視線を向けず。秋せつらは〈再生画家〉がものした似顔絵に目を落とした。
「〈河田町〉の歌姫」
茫たる声音に、ホームレスの男の表情が歪む。
「俺らの生きる糧だ。十日前から行方がしれねえ。日曜日になりゃどんな天気だろうと歌いに来てくれてた広場に、あの娘が来ない筈はない。それが二度続くとなりゃ……」
がりぼりと無意識の手が頭を掻きむしる。
「とにかく、頼む。金ならなんとかする」
がばり下げられた白髪頭は、「お受けします」とかけられた声に謝意を示すように、より一層深く下げられた。
名も判らぬ、出自も知れぬ歌姫がいつからか〈河田町〉を塒にして。妖気渦巻く〈最高危険地帯〉以外には行き場のない人々に癒しを与え始めたのがいつからだったのかを誰も覚えてはいない。
噂が広まり始めたのは最近のことだ。〈危険地帯〉実況と銘打って、向こう見ずな配信者が踏み込んだフジテレビ跡の一角でひっそりと行われていた歌姫のライブを。文字通りライブ配信したことで世間の耳目を集めることになった。
人体の喉から発されるとは思えぬ倍音を幾重にも重ねた旋律は、粗末な配信カメラ越しでも人々の心を震わせて。瞬く間に数十、数百万再生を達成し。今なおカウンターを回し続けている。
「なあ、いい加減歌ってくれよ」
粗末な事務所の一角でソファに腰掛けた娘を覗き込みながら、オールバックの男が懇願するように言った。今にも土下座しそうな勢いである。
「あんたが歌ってくれないと、オレが兄貴にドヤされるんだよぉ。な。たのむ」
顔の前で手のひらを打ち合わせ、拝むように頭を下げる。
「上納金の代わりになるようなたいそうな価値があるってことを見せねえと、オレの内臓が売られちまうんだよぉ。なな。人助けだと思って」
勝手な言い分を並べたてるオールバックに困ったように視線を向けて。娘を左右に首を振る。
彼女はこの事務所に拐かされてきてから、一度も口をきいていなかった。オールバックが彼女の声を最後に聞いたのは、〈河田町〉を歩く娘を背後から抱きすくめたときにもれた、かすかな悲鳴。そこから先は一向に、脅しても、宥めても、口を開こうとしないのだった。
「あんたにとっても悪い話じゃないだろう。〈区外〉でデビューして、がっぽり稼いで。オレは紹介料をたんまりいただいて。win-winてやつなんだよ。なな。頼むよぉ。兄貴に歌、聞かせてくれよっ」
悲しげに眉を寄せる娘の顔を見て、オレだって辛いんだ、と続ける。
「明日までに。なんとか明日までに頼むぜ、なな、悪いようにはしねえから」
びくりとオールバックの肩が跳ねる。外の通りから響く聞き覚えのあるエンジン音に耳を澄ませる。ゴンゴンと外階段を踏みならす足音が近づいてくる。上等なブーツだ。
「邪魔するぞ」
「あああ、兄貴ぃ」
「逃げてないかと見に来たが、カネの用意もなさそうだな」
「きき、期日は明日」
「たまたま近くに来たんでな」
ずかずか入り込んできたダブルスーツの男が、無遠慮な視線を歌姫に注ぐ。
「おめぇのマブかい。これはまた、べっぴんさんだ」
落ち着いた視線で見上げる歌姫の顔を舐めるようにして覗き込む。
「あんた、どっかで見た顔だな」
「兄貴、その娘を〈区外〉の芸能事務所に斡旋してその金を――」
「ああ〈河田町〉の歌姫かい、あんた」
兄貴分の手が娘の顎をぐいと掴む。
「おめぇにこんな度胸があるとはなぁ。で、味見はもうしたのか? こんな上玉だ。アソコの具合もいいんだろ」
「ままま、まさかそんな。これから外で稼ごうって娘ですぜ。綺麗な身体で送り出してやらにゃあ」
「アホかお前は」
兄貴分が娘のブラウスを掴む。薄い布地を一息で引き裂く。手慣れた動きだ。
びくりと震えた娘はそれでも声ひとつ上げない。透けるように白い肌を隠すように、両腕で引き裂かれたブラウスをかき集める。
「黙って見てろよ」
人にらみで弟分を固まらせて、べろりと舌なめずり。
「〈区外〉なんてもったいねえ。〈新宿〉の女は一生この街で、男の食いもんにされるって決まってんだよ」
男の手が乱暴に、娘の両腕を頭上にまとめる。空いた手が乳房を掴み、こねる。娘は唇を噛んで、声を必死に殺している。
「動画で聴いたあの声でたっぷりよがってくれよな」
乳房をこねていた手がじわりと下がる。必死に閉じようとする股をこじ開けて、閉じた蕾をほぐそうと迫る。
娘の見開いた瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「あ、あ、あ、」
男の理性を蕩かす声音が、人の心を震わす倍音を幾重にも重ねて。硬く結んだ唇から徐々に洩れ始める。
ぎゅ、と瞳がきつく閉じられる。はらはらと涙が頬を伝う。
「そうやって大人しくしてりゃ、すぐイイ気分にしてやるよ」
欲に濁りきった目が娘の裸身をじっくり鑑賞する。淡く色づいた痩身が大きく息を吐き出したことに、男が気づいたか、どうか。
――LAAAAAAAAAAA
歌と、呼ぶべきなのだろう。
澄んで響き、すべてを圧倒する。
遠く、彼方遠くまで。
「……驚かせやがって。興ざめだが最後まで付き合ってもらおうか」
男が娘の両脚を高く持ち上げる。白い股の間に身体を割り込ませる。
娘の歌声は止まない。どこか遠くを見たまま、痩身のどこから、と思われる肺活量で。仰向けとは思えぬ声量で。長く長く、遠く遠く。
ずん、と事務所ビルが震えた。
娘にのしかかっていた男が床に放り出され、青い顔で突っ立っていたオールバックの弟分が尻餅をつく。
どん、と天井に衝撃が響いた。ばらばらとコンクリ片が降り注ぐ。
何度も、何度も衝撃が続く。床下からも、天井からも。
先に崩落したのは天井だった。雪崩を打って室内に、怪鳥どもが雪崩れ込んでくる。
間を置かず床が陥没する。〈新宿〉の地中を塒にする大蛇どもが、飛び上がって侵入してくる。
「あぶねぇっ」
正気を取り戻した弟分が、娘をかばうように覆い被さる。その上に蛇の妖物とコンクリ片が降り注ぐ。ひび割れた窓をぶち破って、大蝙蝠の大群が飛び込んでくる。
周囲のビルに被害はない、局地的な現象だった。
娘だけは守ろうと弟分の両腕が痩身をきつく抱く。
とりわけ巨大な蛇の一撃がビルの基礎を直撃して。全ては瓦礫に飲みこまれた。
娘は目を開けたことを後悔した。
これから先の人生を、目蓋の裏に焼き付いた美貌を見つめて過ごすことが決定づけられてしまったからだ。
「あなたを抱いて離さなかった男なら、今頃はメフィスト病院です」
辺りを気にする娘にのんびりとした口調が告げる。
「歌声は〈新宿〉中に響いたでしょう。おかげで見つけることができました」
黒のコートに娘を包んだまま、そっと降ろして立たせてやる。
「ここは〈河田町〉です」
せつらのその言葉を聞いてようやく、
「ありがとうございました」
娘は口を開いた。
「ここはまだ〈主〉の領域だ。いくらあなたの声に惹かれようと、妖物どもは近寄れない」
彼女が歌う倍音は、人の可聴域を遙かに超えて、超音波すら響かせる。遠く遠く、高く高く、その歌声届く場所全ての妖物を惹き寄せるセイレーンの歌声なのだ。
〈河田町〉の歌姫は、〈主〉の領域からは出られない。
歌を奪われては生きられぬ娘は〈最高危険地帯〉の色濃い妖気にこそ護られている。
フジテレビ跡からどたどたと、ホームレス達がやってくる。彼らの歌姫を迎えるために。
次の日曜日にはあえかな調べが、再び彼らを癒やすことだろう。
おしまい