毎週木曜日は滑り込みの日。なんですが前回書いた通り今週はスケジュールが変則的なので今日は久しぶりに朝イチで塚口に行ってきました。そして豪華3本立て!
まず1本目はこの作品!
単館上映から日本アカデミー賞受賞という大勝利をキメた本作、公開から未だに上映され続けているのが実に素晴らしい。映画の価値は制作費や出演者の知名度で決まるんじゃねえんだよこの■■■(このブログは未就学児でも読める良い子のブログなので過激な言葉は検閲削除します)野郎が!!!と日夜心の中指をスタンディングオベーションしている紳士淑女のみなさまにおかれましてはまさに拍手喝采の出来事だと言えるでしょう。
そんな中、我らがサンサン劇場でも本作が再上映されるということだったので早速見てきました。2週間上映なので上映終了までにはまだ間がありますが、シアター4での上映は今日までだったのでどうせならいちばんいい環境で見たいということで見てきました。
久々に朝イチで映画を見てきましたが、開館前の劇場にはけっこう人が集まってました。そしてその中のまたけっこうな人数がシアター4に入っていったことから改めて本作の人気がうかがえるというもの。
今回が2回目の鑑賞となりましたが、前回の感想でも書いた通り、本作においては虚構と現実は対立するものではなく両者は協力関係にあるという構造を要所要所で強く感じました。
まず主人公である高坂について。
改めて見てみると高坂が幕末からタイムスリップしてきた本物の侍であることを知っているのは、同じくタイムスリップしてきた山形彦九郎こと風見恭一郎しか知らないんですよね。
もちろん、高坂が突然現れた撮影所の人たちは彼を最初は不審がるも、結局その正体を問い詰めたり調べたりしない。高坂も自分が本物の侍であることを言おうとしない。結局最後まで高坂の正体が周囲に漏れることはない。
そして最終的に高坂は元の時代に戻ることもなく現代にとどまります。では彼は、かつての侍であった自分を捨てて現代人として生きることにしたのか? 答えは否。
高坂は完全に現代に馴染んで過去を捨てたわけではなく、かといって現代でも侍として振る舞っているわけでもない。いわば「過去の高坂」と「現代の高坂」の二重生活をしているようなものなんですが、これが本作における「虚構と現実」の協力構造に対応しているような気がします。
過去の高坂も現代の高坂もどちらも高坂であり、いちおう現代に適応しているとはいえ、高坂は要所要所で過去に引き戻される。そして最終的には、仇敵であった風見との対決という形でほぼ完全に過去の高坂に戻る。
では高坂はそのまま過去の、侍としての高坂に戻ってしまったかと言うとそうではないし、風見との決着ががついたからといって侍としての自分を手放したわけでもない。これ、どちらが正しいというわけではなく、どちらも高坂新左衛門というひとりの人間のアイデンティティなんですよね。彼の中では幕末に生きる会津藩藩士としての自分(=現実)と、現代に生きる斬られ役としての自分(=虚構)が矛盾なく同居している。高坂のこの特殊なアイデンティティこそが本作の「虚構と現実の協力関係」を端的に現しているものだと思いました。
また、この高坂の「アイデンティティの獲得」が本作の結果のひとつであるのなら、当然その前段階としては「アイデンティティの喪失」があるわけですよね。それが冒頭で示された「江戸幕府が滅んでからの失われた140年」です。あそこで高坂は明確にアイデンティティを喪失していたという描写をしっかり入れているからこそのこのアイデンティティの獲得が光るわけですよ。隙がない構成です。
そして本作でこの「虚構と現実の協力関係」が最高最大の形で効果を発揮するのが、多くの人が固唾をのんで見守ったであろうあのラストバトル。
あのラストバトルはただ単に緊張感のある戦闘シーンと言うだけでなく、虚構と現実が多重構造になっている素晴らしく、時代劇としてだけでなく「映画作りの映画」のひとつの到達点とも言えるシーンとなっているのです。
あのシーンは真剣を用いた殺陣という非常に危険なシーンではあるものの、客観的にはあくまで映画撮影、つまり虚構の皮を被っています。しかし、その死闘を演じる高坂と風見にとってはあのシーンは映画撮影ではなく、かつての対決の決着をつけるための、ふたりだけが共有している現実の戦い。対して、それを見守るクルーの面々も、自分たちが作っている映画をただの絵空事だなんて思ってません。そこには撮影クルーだけが共有している「『映画という虚構』という現実」という構造があるわけです。
そしてこ虚構と現実が何重にも折り重なったあの撮影シーンでなにが起こったか、なにが成されたか。
それはすなわち、「本来であれば二人のどちらかが死ぬしかない真剣勝負」を「映画の撮影」という虚構を噛ませることによって「最終的に風見が斬られて死ぬ」と「ふたりとも生き残る」と「二人の遺恨を解消する」の3つを同時に実現するという反則技を、虚構と現実のあわせ技で、映画という魔法で実現した、ということなわけですよ。
前回の感想でも書きましたが、現実と虚構は大抵の場合対立関係、優劣関係として配置されます。さらに言うなら虚構・フィクションを「現実ではないから」という理由で受け入れない人さえいる。しかし本作では虚構と現実は協力関係であることを前編を通して示している。だからこそのこのラストが成立するわけですよ!
あのラストは単なるすごい殺陣というだけではない、この作品構造の最終回答とも言えるシーンだったと思います。
続いて2本目はこの作品!
「ロブスター」「哀れなるものたち」といった奇妙でどこかユーモラスな作品を作るヨルゴス・ランティモス監督の長編第1作。例によって例のごとく塚口がきっかけで本作を知って見てみることにしました。
舞台はギリシャに大きな屋敷を構えるとある一家。その家の父母は3人の子どもを「外界は危険な場所である」として家の敷地から一歩も出さずに育てていました。
そんな中、父は思春期を迎えた息子のために外部からクリスティーナという女性を雇い入れます。しかしこのことがきっかけで、強固な閉鎖空間であったこの家庭に亀裂が入り……。
これまで見てきたヨルゴス・ランティモス監督作品は「ロブスター」「哀れなるものたち」「聖なる鹿殺し」「憐れみの3章」の4作ですが、そのどれもが「ルールに縛られた家庭あるいはコミュニティという閉鎖空間」を舞台にしています。
本作にてこの閉鎖空間を支配しているのは父親であり、その支配はもはや洗脳の域。冒頭、朝にテープレコーダーから再生される教示で、外界の言葉の意味をでたらめに教えるというシーンにそれが顕著に現れています。屋敷はプールや広い庭がある豪邸であるにも関わらず、本作は前編を通して異様な閉塞感を覚えました。
本作にはわかりやすい明確なストーリーや劇的な展開ほとんどなく、ラスト近くまで上記のような異様な閉塞感のもとで支配されている、そして支配されていることにも気づかない子どもたちの日常が映し出され続けます。実にランティモス節といった感じです。今まで見てきたランティモス作品の中ではいちばん濃度が濃いかも。まあ本当に変化がないので正直ちょくちょく寝てしまいましたが……。
そんな閉鎖空間は、外部から入ってきた要素であるクリスティーナによって少しずつ亀裂が入っていきます……という展開だと、いかにも「子どもたちが外界を知って閉鎖空間である家庭を出ていく」というラストになりそうなものですが、本作ではそうはなりません。
あてがわれた長男だけでなく長女とまで性的な関係を持ち始めたクリスティーナは父親によってクビにされて物語から退場。長女は外の世界に出ようとするんですが、それも父親の言う「犬歯が生え変わったら外の世界に出られる」という言葉に従っての行動。長女は父の車のトランクに隠れるのですが、物語は仕事に出る父親の車のトランクを写して――そこでなんの変化も見せずに終了。
これにはかなりあっけにとられましたが、今こうして感想を書いていると本作のあのラストは「死産・流産」だったような気がします。
外界から隔絶された家庭という子宮の中で、外界のことをなにも知らず育ってきた子どもたちが卵子。そして外界から入ってきたクリスティーナが精子。卵子と精子が結びついて子宮の中から外界に生まれる……はずが、最後までトランクは開かない=死産、という。
でもこの解釈だと性別が明確にあべこべになるんですよね。子宮たる家庭を支配しているのは男性である父親、精子としての外部からの侵入者であるクリスティーナは女性という。でもこのあべこべ、明確に企図されたもののような気がします。基本的にいびつなんだよなランティモス監督作品。
そして3本目がこれ!
肉だ! 肉が来たよ!
このネタが分かる人は俺と握手。サターントリビュートで移植されないかなあ。
塚口ではまさかスクリーンでこの作品が見られるとは!という作品を山ほど見てきましたが、本作もそんな作品のひとつ。
本作は脳内では「裸のランチ」と並んで「バロッカーにおすすめ映画グランプリ」となっている作品ですのでこのブログを見ているバロッカーの皆さんは見るように。
舞台は核戦争後のフランス。もうこの設定だけで4杯イケますね。
職を求めて精肉店(=デリカテッセン)を訪れたもとピエロの青年ルイゾン。なんとか精肉店での雑用係としての職にありつくルイゾンでしたが、その精肉店の店主は旅人を殺してその肉を販売するサイコ野郎だった! さらに精肉店のあるアパートの住人は全員癖のある人たちばかり。どうなるルイゾン!
……とこうやって書くといかにもグログロ系ホラーに思えますが、実際にはグロいシーンはそんなにありませんし、作品の空気感はブラックコメディであり、なんだか変なほのぼの感すらあって実に「変な映画」といった印象。
まず言っておきたいのはヒロインがメガネっ娘かつドジっ娘なのでそういうのが好きな人は見ろ。
また本作はCG以前のセットや小道具も魅力。特に得体のしれないガジェットが好きな人は見ろ。特にアパートの住人のなに作ってんだかわからない謎の機械とか好き。とにかくビジュアルがいいんですよね本作。
ストーリー的には大仰なスペクタクルとかはあんまりなく、この奇妙なアパートの中でのドタバタ劇を楽しむタイプの作品。でもそれで十分に本作の奇妙さを楽しめます。今ではとんと見かけなくなりましたが、かつては「めぞん一刻」に代表されるような「下宿もの」「アパートもの」といったような作品がありました。本作にはそういう作品の味も感じます。肉だけに。
あと、調べて知ったんですが本作の監督であるジャン=ピエール・ジュネは「アメリ」の監督でしかも「エイリアン4」の監督でもあるそうですね。アメリはともかくエイリアンは意外すぎる……。