コンクリートの床も壁も、思いの詰まった劇場の裏側にて、俺たちは心臓が取れそうな思いを抱えて立っている。スタッフがあわてて走る音が耳にがんがん響いて、震える足をさらに刺激していた。
劇場に来ている遠くの観客の声はやけにおおげさに聞こえるというのに、近くにいる演者やスタッフの声はまるで聞こえづらい。失敗するかも、という緊張より、成功しないといけないという緊張に先走った俺たちが、まともに会話など出来るはずもないことくらい、わかってた。
まあそうだろうなあと言う感じ。デジャヴのようにいつのまにか気付くあの気付きとは大きく違い、この気付きはずいぶん前から気付いていたの気付きだ。最初からここに立つということがどれだけ難しいのかは、想像にたやすかったということ。
「開演まで後どれくらいでしょう?」
「予定時刻まではあと28分くらいです。」
「わかりました。」
スタッフさんはあくまでも開演までは体を休ませちゃいけないのかな。俺にはもう今日の朝の時点で準備は揃ってたように見えたんだけど、今は思ったより余裕がないようだった。でも、そりゃそうだ。俺たちもギリギリまで台本をチェックしている目が止まらない。それと同じだ。
念のためってやつだよね。
「皆さんすいません。ただいまウィートンさんがいらっしゃらない状況でして、少しお待ちください。」
「え?なんだそれ。」
念のためというか、すごくまずくない。いや、まずい。結構まずいよね絶対。
「いや・・・・・・。本当どこ行っちゃったんですかね、心当たりとかある方いらっしゃったりしませんかね。スタッフ全員わかんなくて・・・・・・。」
心当たり。んー。
スタッフ全員が把握していない監督の位置を、もちろん演者が把握しているわけもなく、誰もスタッフの元に足を動かそうとはしなかった。
じっと台本を見つめたまま、ただ開演までの時間が過ぎるのを数えているだけで、監督が来る確証はない。なら、やっぱり動いた方がいい。
「あの!すいません、俺探してきます。」
「え?なにか心当たりがあるんですか?}
「えと、、とりあえず急ぎます!!」
「あ、ありがとうございます、?」
白い壁と床で構成された通路を走り抜けると、目の前が赤色のカーペットの鮮やかな色にこくりと変わった。劇場の裏から表を移動したのだから、見栄えが変わるのも当然。
ここからはお客さんがいるってことだから、なるべく早く監督を見つけ出さなきゃ。俺にとって心当たりとはもはや一つに絞られており、消えかけの希望だった。だけど、それを試さない手はない。そこに行くまでの時間なら余裕である。
確かフリアンさんが言ってたよな。今日は良く見える二階の特等席にいるって。てことは必然と、ディホールさんもそこにいるはずだ。ディホールさんと関係がもう断ち切れてしまったのかと思ったけど、やっぱりそうじゃない。絶対にそうじゃない。というか、そう思いたい。
永遠のライバルと言われて、たくさんの人に囲まれた大スターの二人。俺が小さかった時の二人の輝きが、もう二度と見れないかもなんて思わせないでくれよ。ずっとずっと俺の憧れるパリの大人であってほしい。
「二階、二階!」
あとちょっとだ。階段を上り切れば・・・・・・!
「あ。君、なんで、、」
「アントワーヌ君、久しぶりだね!」
階段の踊り場ですれ違うようにして、目が合った。
「ラザール。今日見に来てくれてたの?」
「うん。演技の参考にしようと思ってさ。それで頑張ってチケット取ったんだ。」
「演技の参考って・・・・・・。」
「あ!それじゃあ行くね。ごめん!」
「いやあのさ、ちょっと待って。」
また階段を降りようとしたラザールの背中に声をかけると、案外すぐにまた立ち止まってくれ、振り向いたラザールは、こっちの顔色を覗くように目を凝らして俺の眉毛あたりを見ていた。
「あの時、なんで自分から合格を辞退したの?聞いたんだ、本当は俺が主人公になる予定じゃなかったって。俺の合格は補欠、つまり二番だった。一番が、その前にいたんだよ。俺はずっと誰だろうって不思議だったけど、君の顔を見てすぐに分かった。」
「ラザール。ちょっとだけでいいから理由を話してくれないか。気になるんだ、どうして合格を蹴ったのか。」
「合格が届いた時、急に怖くなったんだ。主人公だって改めて認識するとプレッシャーに潰されそうで。」
そう言われるとジュール君の姿がなぜだか目の前に見えた気がした。ジュール君は意外に緊張に弱くて、でも演技に対する心構えが俺たちとは全然違く、そう見せない強さが彼にはあったんだ。
ラザールがもしもそうならば、確かに辻褄は合う。おかしい話じゃない。だけど、
「俺があの時、話しかけたから。ラザールは真面目で常に優しいから、俺のこと考えてくれたんだよね。」
「いや本当にそうじゃない、です。」
口調もいつもなら、です。ます。って敬語なのにやけに今日は親しみやすい口調に変えているような気がした。もうその時点で俺にはなんとなく答えが浮かんでいた。
「そうじゃないってラザールが言うなら俺はそれを本当だと解釈する。疑ったりはしない。だけど、今度の舞台は一緒に立とうね。約束だからね・・・・・!」
「うん。わかった。今日、ずっと見てるからね。頑張って!」
「うん!楽しんで!」
よく考えてみたら、これが本当に俺の言う通り、ラザールの優しさや気遣いならば、そこに無断で踏み込むような事は絶対にしちゃいけない行動だった。
階段を降りるラザールの背中を見つめたまま、俺はちょっとした後悔に駆られていた。
「あ。早く行かないと!」
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