匂いというのは厄介だ。
ひと嗅ぎしただけで忘れ去っていた記憶を呼び起こしてしまう。そして、それと同時に、その記憶に付随した感情さえも……――。
「「「今日はよろしくお願いします」」」
「ああ、よろしく」
神木坂レニは、丁寧に挨拶をしてくれた撮影スタッフたちに軽く手を挙げて応対する。今日は新フルール賞理事会関係の広報の撮影で、建設中の劇場の経過を撮ってもらう予定だ。レニは特に来る必要がなかったが、時間が空いたので顔だけ見せに寄った。と、そこで、撮影スタッフの中に見た顔を見つけた。
「うん? あれは、確かMANKAIカンパニーの……」
レニが見つめていることに気付いたのだろう、そのスタッフは顔を上げてレニを見ると、にこっと微笑んで近付いてきた。身長は元愛弟子・高遠丞よりも大きいだろう。丞ほどの華はないが、堂々としていて落ち着いている様子は好感が持てる。
「こんにちは、お久しぶりです。MANKAIカンパニーの秋組所属・伏見臣です」
そう言って差し出された大きな手を、レニは握り返した。温かくて分厚い手だ。
「……君とは確か、二度目のタイマンACT以来か」
「覚えてて頂けてたんですね」
「もちろんだ。あの神父役はなかなか良かった」
温和な表情の中に狂気を滲ませる器用さも、戦闘シーンの迫力も、どちらもレニの目に留まった。GOD座の俳優陣とは違う野性味溢れる力強さは、自分よりも幸夫が好みそうなタイプの役者だと思った。
「ありがとうございます。今日は撮影スタッフとして来ていますが、いつかここでも役者としてレニさんに覚えて頂けるような芝居がしたいです」
「今は撮影事務所で働いているのか?」
「はい。劇団ではカメラマンをさせてもらってるので、その勉強も兼ねて」
「ああ、なるほど」
そう言えば、MANKAIカンパニーは昔から自前で裏方スタッフを確保するのが得意だったな、とレニは思い返した。初代の頃、幸夫が集めてくるのは妙な一芸に秀でた者たちばかりだったが、どうやら娘も同じ才能の持ち主のようだ。MANKAIカンパニーのフライヤーを思い出しながら、臣のカメラマンとしての腕に信頼を寄せた。
「とはいっても、まだまだ下っ端なので、今は雑用係ばかりですが。今日も腕の確かな先輩たちが撮影を担当しますので、安心してお任せください」
「ああ、期待しているよ」
レニからすれば少し謙遜が過ぎるが、それでも仲間への尊敬を前面に出す点はやはり好感が持てる。それ以上はお互いの仕事の邪魔になるだろうと、軽く視線を合わせて二人は静かに離れた。
レニは顔だけ見せるつもりだったが、一度現場を覗いてしまえば気になることが色々目につき、現場の責任者とあれこれ話し合っているうちにすっかり昼時になってしまった。
(……少し腹が減ったな。あまり食べる時間はないが)
そう思って時計を見た瞬間、ふわっと鼻先を懐かしい匂いが掠めた。
(これは……善のシチュー?!)
反射的に匂いの元を辿って振り返ると、そこには大きなピタパンを頬張っている臣がいた。
「?!」
「……?」
自分を見て驚いたような顔をするレニに、臣は不思議そうに首を傾げ、歩み寄る。
「どうかされましたか?」
「あ、いや……君が食べている物から覚えのある匂いがした気がしてね……そんな筈はないのだが」
「覚えのある匂い……? ああ、もしかしてこのピタパン、初代シチューが入ってるからですかね?」
「初代シチュー?」
聞きなれない名前に思わずオウム返しになってしまうレニ。臣はにこにこと穏やかに頷いて、説明を始めた。
「これは、昨日善さんと作った初代から続くレシピのシチューを詰めたピタパンなんです。神木坂さんも食べたことがあるんじゃないですか?」
「初代から続くシチュー……」
それはきっと、幸夫が善に逐一注文を付けて作らせていたシチューのことだろう。再会してから何時時かに聞いた完成品は食べたことがないが、初期からの試作品は嫌というほど食べさせられたので何十年ぶりにでも匂いを覚えていたのだろう。
「はい。俺も善さんからレシピを聞いて、時々作るんです。すごく美味しいですし、カントクや左京さんが喜んでくれるので」
答える臣がそう言えば今のMANKAI寮の料理番だと、志太から聞いたことを思い出した。初代の善もそうだが、いつの時代にも世話焼きの料理上手はいるものだな、とレニは妙なところで感心してしまう。
レニがなにか返答する前に、レニのお腹がくぅと可愛らしく鳴いた。
「!」
なんとか羞恥心を飲み込み表情を変えなかったレニだが、臣の聴覚は耳聡くその音を聞きつけ、にこりと笑ってピタパンを差し出した。
「懐かしみついでに、良かったらおひとつどうぞ。味は善さんからの保証付きですよ」
「…………頂こう」
ここで意地を張るのも逆に子供っぽい気がして、レニは平静を装ってピタパンを受け取った。外はほどよく焼けており、そのまま齧るとシチューがとろっと溢れ出してきた。
「!」
口いっぱいに広がる優しくも濃厚なシチューの味は、冷えていても間違いなくあの頃食べた懐かしい味だった。
(……いや、正確に言えばあの頃食べたものよりも味が複雑で美味しいな)
これが幸夫と善の改良の結果だと思うと、なんだかおかしかった。そう思いながら顔を上げると、予想外に優しい顔をした臣と目が合ってしまった。
「!」
「あ、すみません……お口に合うかなって思ってたらつい見つめちまって……」
照れたように笑った臣が、しかし次の瞬間目を見開いて手を伸ばし、レニの口元を太い指で拭った。
「!?」
その感触に昔の感触が蘇ったレニは、思わず顔を赤くする。
「あ、すみません! 口元にシチューがついてたから、ついいつもの癖で……」
相手がレニだということを思い出した臣が我に返って慌てると、レニは再び平静を装って「気にするな」と言った。ハンカチを取り出して口元を拭い、今度は慎重にシチュー入りピタパンを食べる。空腹で疲れた身体に、シチューがじんわりと沁み込むようだった――まるで、あの頃のように。
「……美味かった。礼はまたいずれ返そう」
綺麗に食べ終わって、レニは臣に感謝を告げる。臣は照れながらも「お礼なんて気にしないでください。お口に合ってよかった」と返した。そして、そのまま踵を返して立ち去ろうとするレニに、臣は背後から声をかけた。
「あの! 良かったらまた寮に来てください。他にも……神木坂さんのお好きな物、ご馳走しますから」
そう言われくるりと優雅に振り返ったレニは、ふっと美しく微笑んで答えた。
「では、君の好物を頼もうか。君のお勧めならばハズレはなさそうだ」
「っ!?」
そのあまりの美しさに、臣は思わず顔を赤くしてしまう。先程の仕返しが出来て満足したレニは、再び踵を返して歩き出した。
(先程、彼に口元を拭われた時は不覚にも思い出してしまった……立花にそうされた、あの頃のことを)
『レニ、シチューが口についてるよ。もう、レニってば意外とドジっこだよね』
『あ、すみません! 口元にシチューがついてたから、ついいつもの癖で……』
自分も口の周りを汚しながらそう笑ってレニの口を拭った幸夫と、先程の臣を重ね、レニはゆっくりと己の口元に指先を這わせた。【終】
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【臣+レニ】懐かしい匂い
初公開日: 2025年03月02日
最終更新日: 2025年03月02日
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神木坂レニが建設中の新劇場で、仕事中の伏見臣に出会って差し入れを貰う話