①
田中さんは雲ひとつない晴れの二月の正午、湯治場できみの影がどんどん薄くなる話をしてください。
温泉なんかにくる人生だと思ったことがなかった。だから全部が夢のように思える。頭の芯まで温まって、下駄の音を響かせて、歩いていること自体が夢のようだと思う。目の前に、大事な人がいて、大事だと思っていることも、特殊なイベントでしかないような気がする。ゲームの、分岐ルートを上手く踏んだら、回収できるイベントみたいな、温泉旅行をしている。
「オカピ」
「ピ。ピューマ」
「マーモセット」
「トビウオ」
だらだら喋るかわりに動物の名前を並べてしりとりをしている。二月、寒い空気の中、人通りの少ない温泉街で、何を買うでもなくぼんやり歩きながら、たわいのない話、話ですらない、やりとりを続けていて、すごく普通で、すごく普通であるということが、奇妙だった。
やっぱりこれってなんか、そういうイベントなんじゃないか。ゲームの。
自分の人生に、起こるはずのないことが起こっていて、それは、佐藤に起因していて、でも俺の人生は最初から、佐藤に起因しているような気もした。そこから始まって、そのまま、佐藤に巻き取られて生きているような気がした。佐藤が俺の人生をつくっているような気もした。
あんまり良くない思考回路だった。俺は多分、のぼせていたのだと思う。湯気にではなく、状況に。
腕を掴む。
オ、で始まる動物は、簡単だったと思うのだが、佐藤は続けなかった。続けられなくしたのは俺だった。佐藤がどんどん薄まって、世界になって、拡大して、いなくなるような気がした。掴んでいられなくなるような気がして、俺は佐藤の腕を引いた。佐藤は黙って振り返って、何、とも、どうした、ともきかずに、俺が喋り始めるのを待っていた。
でも変だったから、何を言ったらいいのかわからなかった、佐藤に、世界にならないでほしいと言うのはあまりにも変だった、変だったから、俺は立ち止まったまま、佐藤にキスをした。立ち止まってキスがしたかっただけのひと、みたいなふりをして、普通に近づいて、普通にキスをした。
何もかも少しずつ滑り落ちていく。言語化できない言語が、形にならない感情が、欲しいもののすべてが。でも今、ここはとても静かで、俺は佐藤に触れていて、佐藤は黙って俺の唇を待っていたから、多分それだけで十分だった。
②
佐藤さんは風変りなニュースが流れる朝、変わった朝顔の鉢のある縁台で机の引き出しから見つけたものについての話をしてください。
朝起きると、ニュースが流れていて、朝起きてニュースが流れているのってすごく家って感じだ、と思った。僕のいまの家にはテレビがないので。
田中はテレビを見ながら、歯磨きをしていた。田中は、朝ご飯を食べる前にも歯磨きをするタイプの人である。そういうひとが、歯磨きなんてどうでもいいような状態に陥っていた時期のことを僕は知っているわけだけど、そういうときの歯のことは本人の中でどういう種類に分類されてるんだろうな。破滅って意外と、小さなことも含んでいる。
田中が破滅せずにここにいてくれて、温泉まで来てくれて、テレビをつけて朝の時間を過ごしていてくれて、よかったなと思う。
「冬なのにアサガオ」
「二月って冬かな」
「どうだろう、春かな……」
田中が起きてつけたらしい、朝のテレビのニュースでは、冬咲きのアサガオについて紹介していた。季節外れに思えるアサガオは、いろんな家に、それぞれの形に飾られている。珍しいものだと思うのだけど、そこに咲いてしまえばそれだけの、そういうもの、とも思えた。
そんなものなのかもしれないな。
田中がここにいること、ここにいてくれること、一緒に温泉までやってきて、同じ部屋で過ごしてくれること、歯磨きをしていること、これから朝食に出かけていくこと。旅館の箪笥の引き出しにしまった朝食券を取り出して、ふたりぶん確認していること。冬のアサガオだって、それが当たり前なら、そこでただ咲くだけなのだろう。
「今日って帰るだけ?」
「多分。でも、別に、どっか行ってもいい……運転するのは田中だけど」
「自動車免許取ったら」
「試験って二択だからさあ」
それに悪くない、田中が僕のために運転して、どこか、知らないところに連れて行ってくれるかもしれないと思いながら、隣に座って、地図を見るのも、全部、特別で、新しいことだと思うし、それに慣れないままでいるのも、すっかり慣れてしまうのを待つのも、いいことだと思う。
たぶんすごく浮かれていて、僕はなんの準備もせず、歯磨きを終えて身支度を調えた田中の背中を見ていた。田中は荷物に、自分の歯ブラシを戻したあと、僕を振り返った。目を細めて僕を眺める田中は、僕を見ているようで遠くを見ているような、不思議な目つきをしていた。
「……朝飯」
「ああ! ちょっと待って、準備する」
ばたばたと浴衣を整える僕を、今度は田中が眺めている。
③
田中さんは自覚をした日に、繁華街の裏道で許しがたいことについての話をしてください。
それなら本当は、おしまいにしたほうがいいんだろう。
ネオンをおとした昼間、繁華街の裏路地にいる。ここには昔、来たことがある。俺がまだ軌道をうしなっていたころ――いや、むしろ、生涯で最も軌道通りに生きていたころと言ってもいいのか。暴力と破滅のさなかにいて、走り続けていた頃に、来たことがある裏路地だった。
ひるまは静かなその道で、買ってきた煙草に、そうっと火をつけた。
酒と煙草とそのほかぜんぶ、依存にかかわることはしない、というルールで、あれからやってきていた。ソシャゲ課金で身を持ち崩して常軌を逸した振る舞いに至った、というのが周囲のまとまった見解で、それはまあ、大体合っていた。大体しか合っていない気もしたが、大体は合っていたし、そういうストーリーでまとめてもらえて、勝手に産業医や上司が話をつけてくれて、俺は休んだ方がいいとされて、給与が出るのに暇、という時間が発生した。別に、仕事をするのは、何の苦でもなかったのだけど。
汚れた壁に背中をあずけて、あの頃とは違う清潔なシャツに、煙草のにおいがしみつくかなと思う。たった一本吸っただけなら、たいした違いではないか。
依存を避けて生きなくてはならないと思ったし皆もそう言ったし、佐藤も、まるで、俺の、ながらくの親友であるような心配そうな顔をして、そう言った。
でも俺は佐藤を好きみたいなんだ。
それって新しい依存じゃないのかな。
それなら本当は――。
自分の内側に、何もないような感覚が、ある間はむしろよかった。いま俺は、全然そうではなくて、そのことが苦しかった。だから煙草の煙で内側を満たして、なんならこれに今度は依存して、佐藤のことは忘れたかった。佐藤がきっかけでまたぶっ壊れたらやりきれないと思った。佐藤が、俺の人生の、暴力と破滅の内側に、取り込まれてしまうと思ったらぞっとした。
本当はやめた方がいい。全部おしまいにした方がいい。なんならこのまま、改めて走り出してもいい。目的もなく、ただ逃げたいというだけの理由で、遠くに消えてもいい。人生をめちゃくちゃにするなと、破壊するのをやめてほしいと、しかしあの日佐藤が、ほかでもない佐藤が俺にそう言ったのだった。
これから俺がどんな形で破滅しても、佐藤は悲しむのだということが、もう確定していて、佐藤は、未来を確定するのがうまいと思った。もうとうに巻き込んでいるから、幸福になるほかなくて、俺は一本だけ吸った煙草ののこりぜんぶを捨てて、路地を出た。
④
佐藤さんは洗濯物を干すことすら億劫になった水曜日、養豚場へ続く小道できみの耳に見知らぬピアスが増えていたことの話をしてください。
「何」
「……いや」
「道あってる?」
「多分……」
気が散っていて、それどころではなかった。というか、なんで気づかなかったんだろう。田中の耳に、透明なピアスがひとつあって、いつからあったのか、全然気づかなかった、ずっとこの助手席に座っていたんだけど、僕は。
「道あってるかどうかが多分じゃ困るんだけど」
「いや、うん、あってるあってる。このまま真っ直ぐ」
僕たちは、田中が取った、というか、会社に言われて取らされた休暇中、暇だというので出かけた旅行の最中だった。レンタカーを田中が運転していた。最終日に少し回り道をしてみようという話になって、田舎の、手入れの行き届かない割れたアスファルトの上を走っていて、本当に合っているのかは大分不安な感じだが、真っ直ぐ進むしかないらしいし、行き着きさえすれば花畑が僕たちを出迎える、らしい。
問題がひとつあり、外はすごい風が吹き荒れていて、どんなに立派な花畑だろうと全然、眺めるどころではないような気がした。まあ、そういうおもしろみがあるといえばそうかもしれない。今日は水曜日で平日だし、こんな風の強い日に花畑まで来る人もいないだろうから、貸し切りというポジティブな見方もできる。
もうひとつは、田中の耳に穴が開いているということに、いや、言い方って感じだが、とにかくピアスがはまっているということに、僕が奇妙に混乱していて、なんだかぼんやりとしてしまうという問題があった。理由はわからないがなんだか大変なことのような気がする。というか、チープな結論に達するのは簡単なのだが、その結論でOKなのかはわからない、って感じだ。
うーん。
田中は、僕の気持ちは全然そしらぬ顔で、何もない道を、それなりに緊張感を伴った顔で運転し続けている。さっき、「何もなさすぎる道は、急に何が飛び出してくるか分からなくて、逆に怖い」と言っていた。
「なんで車の免許取ったの?」
「自由になりたかったから。佐藤は?」
「持ってないよ」
「取ろうとは思ったんだろ。試験で落ちた」
「そう、試験に落ちるから、僕は……」
自由ね。自由か。別に気にするほどのことではないのかもしれない。田中だってピアスのひとつくらいあける。ただそれだけで、動揺しているのもまた、僕の自由である、というだけのことかもしれない。それはそうと、いや、どうしよう。
心臓がさっきから不思議とうるさくて、どうしたらいいかな。
⑤
田中さんは三月の嵐の日に、いつかけられたか分からない吊り橋の上できみがSFを好きだと初めて知った話をしてください。
吊り橋効果、という言葉がある。
そういうやつではないかと思う。
あの日俺たちは橋の上にいて、俺は死ぬつもりだった。死ぬつもりだなと見ただけで分かるような相手を見つけたら、それが古い馴染みだったら、当然、強い感情を抱く。佐藤はことにそういう、シンプルな情動で動く奴だと思う。ただそれだけなんだと思う。
「『パプリカ』だ」
配信サイトを眺めていて、肩越しに佐藤がのぞきこんで言う。そういう距離にいる。そこは俺の家で、俺の家にはゲーム用のテレビが置かれていて、それは動画を観るためにも使えて、だから映画を観るに適した家でもあるということになって、佐藤がここにいるのは、そういう理由。
「観たことある?」
「原作は読んだ」
「原作は読んだ人のほうが珍しい気がするけど」
「そうかな。父親が好きで、家にあったから」
俺は観たことがない。SFは好きでも嫌いでもない。なんだか難しいことが色々と書いてあって細かい理解が及ばない本が多いという程度の認識だった。俺の人生はあらかたゲームで占められていて、元ネタとかを探るなら、もっと本も読んだ方がいいのかもしれないけど。
「どんな話?」
「夢の中の話。うーん、悪夢の話。あと、ちょっとロマンチック」
「ロマンチックは要らないな……」
「言うほどではないけど……映画でロマンチックから逃れるの、難しくない?」
「佐藤とロマンチックな映画を観てもな」
「……まあ、そうかも」
佐藤はなぜか苦笑いをした。言わせたのに胸が痛んだ。しかし間違いなく言わせた肯定だった。
「ロマンスないやつだと、『オデッセイ』がよかった」
「これもSFだ。SFが好き?」
「そうなのかな。そうかも。言われて気づいたけど。うーん。いや、なんか、たまたまだと思うけど……」
なんだか不思議な気分になった。佐藤は自分がSFが好きなのかどうかを知らなくて俺はそうではないかと思っていて、俺は佐藤が好きだと思っていて佐藤はそれを知らなくて、ただ佐藤は面白い映画のことは少し知っていて、俺と面白い映画を観たいと思っているからここにいて、それって何なんだろうと俺は思った。
「田中はどれが好き?」
肩越しに佐藤が手を伸ばしてくる。たとえ吊り橋効果で近づいた距離だとしても、現在の距離を、佐藤は、佐藤にとって適切だと、はっきり自認しているはずで、そうでなければこんな近くに来たりしないと思える距離。すっかり距離が近くなった佐藤が、俺のタブレットを、すい、とスワイプした。俺はおまえが好き。
⑥
佐藤さんははっさくがきれいにむけた夜、暗幕に包まったままでいいかげんにすましてしまったことの話をしてください。
気持ちいいこと。
たとえば、はっさくの皮をさくさく切り分けるために用意された道具で、手早く剥いてしまうこと。なかみをとりだして、全部ガラス容器にいれること。つやつやした粒がガラスに照り返して綺麗だということ。母親が、習慣として、ずっとそれをやっていて、多分それはもっと上の、母親の母親とかから引き継がれた習慣だ。いずれ自分でも手伝うようになって、今では自分ひとりのためにそれをやっている。冷蔵庫に入った、たくさんのきらきらが詰まった容器を取り出して、スプーンを差し込んで、すくいあげて、皿に盛って、ヨーグルトをかける。粒の間に、ヨーグルトがすべりこんで、落ちていく。
頭の中に保存されている、気持ちよくてすがすがしい風景の、いくつかがランダムに再生される、短くて幸福な夢を見た。
田中の家の、ひとり用のベッドに転がるには、僕って体積多すぎやしないだろうか。そんなに金の掛かった家具とも思えないし(僕は金の掛かった家具に詳しいのだ)、こういうこと、のときは、本当は僕の家に布団をふたくみ、並べて敷いたほうがいい。でも、こうやって、狭いなと思ったり、もっと大きいベッドの方がいいだろうなと思ったりしながら、毛布に頭からすっぽりくるまって、くっついているときのことを、多分ずっと忘れないだろう。
気持ちいいこと、という、それ自体、直接的にそう、の、それをしている。
上手く言葉にできないことや、上手く言葉にしない方がいいこと、今は言葉よりも必要なこと、今した方がいい指先の動きや、感じるべき吐息。そういうものについて考えているので、それ以外の事は考えなくていいんだと思う。でもこれのこと、今のこれのこと、忘れないだろうなと思う。綺麗な思い出だ。これがいずれ過去になるって意味じゃなくて。いつかなくなるから覚えておこうとか、そういうことではなくて、綺麗だから、ずっと、綺麗だと思うのを、続けたい、と思った。
はっさくはいまでも、いったん全部剥く。自分で全部剥いて、自分ひとりで食べる。今でもガラス容器に移し替えて、スプーンで掬って、ヨーグルトをかけて食べる。最初から綺麗だと思っていた。これからもずっと、ガラス容器から掬い上げたはっさくが、きらきらして綺麗だと思うみたいに、気持ちいいことをして、できてて、できてるのを、忘れないと思う。
⑦
田中さんは蒸し暑い日、煉瓦づくりの倉庫街で仮面を被っていた人についての話をしてください。
暑いだろうな、と思った。
あれくらいなら普通の範疇かな、とも。
夏の日、仕事で、横浜に来ていて、自分が仕事を続けているということが少し、不思議とも思えるとずっと思っているのだが、とにかく仕事は続けている。ゲームを作っていて、少しバズったり、あんまりうまくいかなかったり、人の仕事を巻き取って感謝されたり、している。態度が悪かった頃のことに触れるひとは、もうあまりいない。
なにもかもゆっくりと、過去になっていくのかもしれない。
町のどまんなかで、仮面をつけて歩いている人を見て、ああ俺がいるな、と思い続けているのは、俺だけなのだろう。
奇妙な振る舞いをしているひとを見かけるたび、意図がよみとれない行動をしているひとを見かけるたび、ああ俺がいるな、俺よりましかな、と思う。人生の中にあの頃がずっと、染みのように残っていて、とりはずしが効かない。
そしてこういう、地面に穴が開いてしまったような気分の時に限って、そいつは現れるのだった。
「あれっ。約束してないよな?」
「して……ない。仕事だし……」
「赤レンガ倉庫で?」
「いや、近くで。ここは、通りかかっただけ」
「俺も仕事」佐藤はゆるく笑って、うれしそうに見えた。普通の感じだ、と、俺は、近頃佐藤を観る度思う。昔はそんな風には思わなかった気がする。普通の感じ、に、見えるのは、多分、いいことだと思う、でも。俺の穴、俺のあしもとにあいた穴が、塞がっていく感じがする。佐藤といると。高速で繕って、なかったことにできる、気が、する。不思議だ。佐藤は俺のあの頃を、ちゃんと、はっきり知っているひとりなのに。
「仕事は終わった?」
「終わったから遊びに来たんだよ。そっちは」
「残念ながら空手で帰らなきゃ。遊んでいこうかなあ、どうせこのあとは帰って報告書書くだけだし」
「帰って報告書を書けよ」
「せっかく横浜まで来たのに。まあ、いいけど、田中に会えたから。……変な顔」
佐藤は笑って言った。変な顔もすると思う。俺も仮面をつけたいとすら思った。佐藤は時々こういう、てらいのない殺し文句を言うことがあって、反応に困る。
「……飯でもと思ってたんだけど。一緒にどう」
「飯ね! 飯は食っても遊んでたことにならないと思う。誰だって食うんだし」
「まあ、そうだな。ついでにちょっと店くらいのぞいてもいいんじゃない」
「そうだよ。通りがかっただけなんだから店を見てもいいし、買い物をしてもいいし。そういえば、演劇のなんか、イベントやってて、変わった格好の人が……」
「ああ」
解けてしまえばなんてことのない、普通のことだ。
ありがとうございました~ 今日はここまで 7000字か けっこう書いたな おつかれさまでした お付き合いありがとうございました~
いうてたら人が増えるという しめます!
↓ごれんらく↓
オッドタクシーの二次創作の1000字作文をぽこぽこ無限に書くやつです
BLのときと BLというほどではないときがある
ネタバレってほどのこともないはずだが自衛してね
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気が向いたら書いてる小説の解説をコメントに流します