しかし、いい考えは浮かんでこない。上を見上げてもそこには不快なほど明るい蛍光灯と黄色い壁紙があるだけで、都合よく天から救いのはしごが降りてくる様子もない。
結局二人には、ここに留まるか移動するかの二択しかないのだ。
「なにか役に立ちそうなもの、あったかい」
「あー、さすがにこういう事態は想定してなかったんで……。筆記用具とかそういうのしか持ってきてませんね」
「筆記用具か……。じゃあとりあえず、そこの壁に目印を書いておこうか。気休め程度かもしれないが、もしこの場所がループしてるなら同じ方向に進んでいてもこの場所に戻ってくるだろう」
「ですね……じゃあ、ここに目印書いときます」
後輩は取り出したサインペンで、黄色い壁紙に大きくバツ印と、これから移動する方向を示す矢印を書いた。
「じゃあ、移動しましょうか。部長、歩けそうです?」
「ああ……」
二人は矢印の方向に向かって歩き始めた。無限に広がっているとも思える――もしかして本当にそうかも知れない――黄色い空間は明らかに現実的なものではなく、変わらない風景はともすれば正気をじわじわと削っていきそうだ。
けれど、部長は不思議と安定している自分の心を自覚していた。もちろんはっきりと言葉にすることはしないが、それは隣を歩いている後輩のおかげだ。
この謎の空間に放り込まれたときはどうしようかと思ったし、最悪の想像で頭がいっぱいになりそうなこともあった。しかし、いったいどうやったのか後輩がこの場所に来てくれたときは、うっかり泣きそうになるほど安心した。
未だに黄色い空間はどこまで続いているが、さっきまでの恐怖が明らかに薄らいでいるのがわかった。
明らかに異常な場所にいるにもかかわらず、こうして後輩と二人で他愛もない話をしながら歩いているだけで慣れ親しんだ日常が戻ってきた気がする。
思えば――三年生である自分はもうすぐ卒業だ。卒業後にどこに住むのかはともかく、同じ学校の先輩後輩としてこうしてふたりでいられる時間はもう終わりを迎えようとしている。時間は限られているのだ。この無限に続く黄色い空間とは違って。
では仮に――今まで思いもしなかったことが脳裏をかすめた。
このまま、ここにいたら?
このまま歩き続けても、さっき壁に書き込んだ目印が見つからなかったら?
このまま歩き続けても、この黄色い空間が永久に続いていたら?
スマートフォンのバッテリーはとっくに切れているので、どのくらいの時間歩いたのかはもうわからない。それ以前に、開口部の一切ないこの空間にいると、時間感覚が薄れてくる。
もし仮に、このまま進んだ先に外につながるドアがあったとしたら、自分はそのドアノブに手をかけるだろうか。紙の上に落ちた一滴のインクがじわじわと紙面に広がるように、その考えが少しずつ大きくなっていくのがはっきりわかった。
後輩が現れたことで回復していた現実感が、ふたたび溶け始める。
今すぐ足を止めて後輩の顔を確認したい衝動と、足を止めた瞬間にこの現実――現実?――が砂のように崩れてなくなってしまう想像が右足と左足に等量の重圧をかけ、どうすればいいかわからない。
半ば自動的に動き続ける両足に載せられて、部長は黄色い空間を進み続ける。どのくらいの時間進んだのか、この空間に来てどのくらいの時間が経過したのか――それどころか、この空間に流れている時間が正常なものかすらもうわからない。
どこまで進んでも、さっき壁に書いた目標は見つからない。真っすぐ進んでいたはずなのに、もう自分がどの方角を向いているのかすらわからない。
それでも足を止めずに、二人は黄色い空間の中を歩き続けた。相変わらず、黄色い床、黄色い壁、黄色い天井、そして蛍光灯だけの単純な要素で構成されている空間。もう周辺の様子に気を配るだけの注意力はなくなっている。だから、視界の隅に自分たちと同じくらいの男女のように思われる人影が見えたときも、足を止めなかった。
後輩が背負っていたはずのリュックサックの残骸が通路の端に放置されているような気がしても、足を止めなかった。
そこで足を止めれば――なにか、なにか致命的な「終わり」が訪れる。何もかもわからない中で、その確信だけが鋭く明確だった。
視線は正面に固定されている。隣りにいる後輩の顔を見上げたことはない。そこにいるのは後輩のはずだ。そうでなかったら、私は……。
「なあ、後輩くん」
「なんです?」
「手を……」
少しの沈黙。まだ後輩の方を見られない。
「手を……繋いでくれないか」
それだけ言って、部長は横にいるはずの後輩に手を差し出す。
「珍しいですね、部長がそんなこと言うなんて」
横からそう聞こえる後輩の声はたしかに後輩のものだった。
差し伸べた手を握ってくれた感触は、確かに後輩のものだった。
――変わり果てた私の、焼け焦げたような色の骨に腐った肉が引っかかった私の腕を、同じように表皮を失ってカルシウムの棒になった手で握ってくれた。
いつの間にこれほど肉体が変質したのかはわからない。もうこの空間において、「いつ」「どこ」などという言葉は意味を失っている。
手を取り合ったことで、私の残った自意識にほんのわずかな幸福感が発火して消えた。
どのくらいの時間が経過したのかはもう、意味のない話。
ふたりは文字通りの意味で言葉を失うほどにまで変化、変質していた。最後に残ったのは。この黄色い空間を当てどもなく歩くことだけ。
黄色い空間をさまようこの影が、何を求めて徘徊しているか、それを知るものはだれもいない。
彼ら自身も含めて。
「――長。部長!」
「――っ!?」
さっきから自分を呼んでいたであろう後輩の声に唐突に気づく。電源を切っていたスピーカーのスイッチを入れたかのように突然後輩の声と周囲の声が聞こえてきた。
『それではリアル脱出ゲーム、開場します!』
拡声器越しのアナウンスに、集まった参加者から拍手が沸き起こる。
そこで部長はようやく、自分が後輩と一緒に総合アミューズメントパークで開催されているリアル脱出ゲームに参加していることを思い出した。
――思い出した?
思い出したと言うなら――忘れていたということだ。なぜ? どうして?
思い出そうとするが、そこにあるのは完全な空白だけ。何も思い出せない。
「ほら、部長。早く行きましょう!」
「あ、ああ……」
後輩に手を取られて、会場入口に並ぶ。次々と参加者が会場に入っていき、次は二人の番だ。
そこで、ほんのわずかな違和感があった。だが、それがなんなのかはわからない。
係員にチケットを渡し、入口に一歩足を踏み入れる。
その足が踏みしめたのは――フローリングの床ではなかった。
カビの匂いのする、黄色いカーペット。
黄色い壁紙の壁と天井。
不快なほど明るい蛍光灯。
「――え?」
思わず漏れたその疑問の声に、答えるものは誰もいない。