佐藤さんは今年初めて吐く息が白くなった朝、アーモンドの香りがする断崖で耳の中に入った水が全く出てこなかったときの話をしてください。
 調べてセーターもダウンコートも持ってきたものの、ここまで寒いとびびる。なんなら日本はまだ夏(いわゆる秋と呼ばれる季節なのに、気候の上では全然夏、というタイプの夏)だった。だから吐く息が白いのは、間違いなく、今年はじめての体験だった。
「崖があったの見た?」
「崖?」
「あそこまで行くよ」
 田中は眠そうな顔で、見なかった、と言った。それは残念。
 飛行機をいくつか乗り継ぐ体験は、僕にとっては馴染んだ行為で同時に懐かしい行為でもあったけど、田中にとっては多分はじめての体験だったと思うのだけど、寝て過ごしていたということは、別におもしろくもなかったのかもしれない、と思いながら、荷物のピックアップを待っていたとき、「結構怖かった」と田中が言った。
「飛行機?」
「そう。長かったし……」
「そうなんだ」
 田中って、飛行機が怖いタイプなんだ。ということを僕が、ゆっくり反芻している間に、田中は、自分の感情を探るような口調で続けた。目の前に並んで流れていくトランクは、自分の分をピックアップしなくてはならないというハラハラ感と、ロストしていたらすごく困るなという不安を伴っているので、川に似ているけど案外、おだやかではない。
「耳の中に水入ったみたいになると、なんか、溺れてる感じ」
「ああ……」
 耳の中が詰まってしまって、空の上にいていつもと違うのだと、実感するあの感じ。上手な表現だ、と思った。空の上にいるのに、溺れている。
 田中を空の上で溺れさせてから、連れてきた、遠い場所で、溺れるような体験をさせてまで、一緒に来てほしいと思ったんだな、と僕は思った。なんだか改めて、強くそう思った。親が教えたことが呪いとなって一生残るって、そういう考え方があると思うけど、僕がかかえた呪いは、「愛する人をどこにでも連れていくのが愛」という、こと、だった。
 どんな崖でも、どんな果てでも。
 ポケットを探ると、乗り換えの空港で買った、アーモンド味の菓子があって、僕は田中にそれを渡した。罪悪感をお菓子で誤魔化すのもまた、親の呪い、という気も、した。
 田中は僕が、ごめんねと思っているのに気づいているのかいないのか、お菓子を受け取って封を切りながら、「はじめての海外旅行がおまえの横でよかった」と言った。
田中さんは雨が降ったので水やりをさぼった日、見知らぬ植物ばかりの花壇の前でアイスクリームをうっかり溶かしてしまった話をしてください。
 冷たく生まれたアイスクリームが、ぬるくて甘くてべたつく液体になっていくあいだ、アイスクリームのことを忘れていた。アイスクリームは俺の好物なのに、それでも。
 佐藤の体が俺のほうに傾いていて、佐藤の体の一箇所が俺に触れていて、それはキスという名前のついた行為で、ベンチに腕をついて俺に体を傾けてキスをしている佐藤の体が、もっと近くにあってもいいと思って、腕を回した。
 古いベンチには何度か座ったことがあった。かつては見知らぬ駅だった、今はすっかり見知った駅になった、駅舎から足を踏み出すと広い庭園が広がっている、この駅に、いつの間にか俺たちは、いくども訪れていた。最初に来たときも、雨上がりの日だった。
 ここに咲いている花の、全てを最初、俺は知らなくて、佐藤はまばらに知っていて、今はどの花も、見知った花になっているのに、急に世界が塗り替えられたようで、なにもかもすべて新しい花に変わってしまったようで、そして花のすべてが、ひそやかに俺を、讃えているような気がした。讃えている、違うかもしれない、言祝いでいる、ちょっと違う、よろこんでいる、勇気づけている、愛している。
 世界が俺を愛しているのだという気がした。
 腕を持ち上げて、佐藤の肩を抱き寄せる。触れているだけのキスが少しずれて、俺は触れ直す。深く触れて、もう少し先をたどる。腕を引き寄せて、頭を抱き寄せて、ゆっくりと、佐藤の跳ねた髪をなでつける。指先でくるくるもてあそんでいるうちに、佐藤の腕が持ち上がって、ゆっくり俺の頬に触れる。そのまま。このままでいい。
 と思っていたのは俺も同じなので、というか、佐藤もそうだといいと思っていたので、別にしょげる必要はないのだが、佐藤は、「アイスのこと忘れてた」と言って、ばつが悪そうに俺を見あげた。まあ、俺も忘れてたし、別に、ほんとに、全然、いい。アイスはアイスとしては死を迎えたが、別に。
「帰ろう」
 立ち上がると、佐藤はしょげた顔のまま、庭とベンチと俺を交互に見た。せっかくここまで出てきて、別になにもしていないのに、という顔だ。何もしていないことは、ないが。
「アイスを溶かしてホットケーキにするとか、そういうレシピがあったはず」
「作ってくれる?」
「作ったことはないけど」
 おまえがキスすると世界が俺を祝福しているような気分になるからして構わない、ということが、今の言い方で、伝わることはないとは思うが、うまく伝えた方がよかったのかもしれなかったが、佐藤は立ち上がって、少し迷った目つきを向けて、身を寄せて、もう一度、体の一箇所が、体の一箇所に、触れるやつが、発生した。一瞬だけ。
「帰ろう」
 別にもう、溶けるアイスクリームはないから、以後、し放題ではあるが。
佐藤さんは傷の痛む日に、ざらつくベンチに座ったままでわざと言わなかったことの話をしてください。
 父親がどこでどうしているのか、知らない。
 死んでいないということになっている(死んでいるということにするのも、可能な状態である)。でも、母親は、もうずいぶんまえから、待ってはいない、と思う。だから、探しているのは、僕だけなのだと思う。あのひとが生きていてほしいと、どこかで普通に暮らしていてほしいと、平穏で安息であってほしいと、願っているのは、僕だけなのだと思う。
 広い公園の、ベンチに座っている。子供が野球をしている。運動場を兼ねているせいか、ベンチは砂にまみれていて、やけにざらつく。それを払う気にもなれないまま、座っている。
 目の前に、人影が落ちて、顔を上げると、田中がいた。
「なんで?」
 僕は訊ねた。別にここで会う約束をしていたとかではなかった。そして僕は、誰かにいてほしい、と、思っていたし、笑う元気はない、とも、思っていたので、そこにいるのが田中で良かった、と、思った。誰かの前で道化らしく振る舞って、普通にぼんやり愛されたいと思うには、今日はダメな日だった。父親がいなくなったのは、今日だった。
「……探した」
「なんで?」
「いや……」田中は自分の前髪を触り、口ごもってから、何か言いかけて、それは多分「なんで探したのか」の説明だったし、今日誰からの連絡にも返事をしていないということとか、多分僕の職場に連絡をしてあちこちに聞いて回ったのではないかとか、そういう経緯を喋るかどうか迷っている、ということでもあった。しかし田中は何も言わずに、砂まみれのベンチの、僕の横に、座った。
 父親がもう死んでいるのだとしたら、僕が殺したのだと思う。
 しかし僕はそれを口には出さなかった。話したことは、意味が生まれてしまうから。明るい人間のように生きていることで、明るい人間になれるし、知らないふりをしていることで、知らないままの人間になれるし、話さないでいれば、「探すの大変で、面倒だった」ということも、「いつまでもうっすら、親殺しのような気がしている」ということも、本当のことには、ならずにすんだので。
 野球少年が走っている。僕たちはそれを見ている。田中は黙ったまま隣にいる。別に大丈夫になる。ずっと、別に大丈夫だった。
 でもここにいてくれてありがとう。
田中さんは問題が一つ解決した夜、曲がり角にある煙草屋の前で世界と自分をへだてる膜のようなものについての話をしてください。
 タクシーを見つけた。
 だから事態は先に進んで、俺は紙袋片手に、何も考えず立っている。目にうつるものを、意味もなく読む。そこは曲がり角で、煙草と書いた看板がかかっていて、だから煙草屋なのだと思うが、ありがちな話で閉ざされている。昔はここで、煙草を売っていたのだろう。
 喫煙も飲酒も好きではない。試したことはあるし好きだった時期もある。でも今は、嗜癖するためのものは――もっといえば、依存するためのものは、多くない方がいいと、少し前から思っている。頭がクリアに澄んでいる状態を、ずっと維持するためには、他のものはなにもいらなくなってしまって、ずいぶん長い時間が過ぎたと思う。
 だから神様が味方についてくれたのだ。
 ――そう、思っていた頃のことだ。
 頑張れば頑張っただけ、願ったことは全て叶えられる。神様が味方についていて、俺が努力しているから。そう思っていた頃、俺は透明人間だった。透明人間はみんなの目に見えない。世界からはずれている。目を逸らされている。社会のパーツではない。笑う必要はなくなる。怒り以外のどんな感情も、抱かなくてよくなる。
 何も考えず煙草屋の前に立っている。煙草屋のカウンターの隅に、消しゴムがひとつ、転がっていると、気づく。
 澄んでいない感情は不要だから、考える必要もなかった。不完全な存在である証明をしたら、神様が俺から逃げていってしまうと思った。なのに俺は、僕珍しい消しゴム持ってるよ、と佐藤がはじめて言ったときの気持ちから、逃れることができない。俺も持ってるよと言って、佐藤が笑って駆け寄って、ほんとう、今度持ってきて見せてよ、と言った。僕も持ってくるから、と言った。最初は小さな事だったのだ。本当に小さな事だった。
 頭がいったん真っ白になって、リアルが追いかけてくる、と思った。
 俺が、透明人間ではないという、リアルが追いかけてくる。
 ほんとうにうれしくて笑ったときの、笑い方を、思い出してしまう。
 頭を振る。俺は透明人間に戻る。次の計画をたてる。ゲームを続けなくては神様がいなくなってしまうから、俺は、神様に捧げるための計画を、透明人間でいつづけるための計画を、ほんとうの笑い方を忘れるための計画を、リアルに帰らないで、自分が透明ではないただの人間だということを思い出さないで、俺が傷つかないための、俺の本体までリアルが食い込んで俺を傷つけないための、そう、傷つかないでいるための計画を、立てている。
佐藤さんは斜めに日が差すゆうぐれ、とても散らかった部屋で一匹の羊に出会った話をしてください。
 横たわる男を見ている。
 部屋は散らかっていて、でも、最低限の洗濯を回した痕跡がある。落ちているのはカップラーメンの器や栄養補給食の類いで、カップラーメンの汁は飲み干されているか捨てられている。生ゴミらしいものは見当たらず、包装のプラゴミさえまとめてしまえば、普通の部屋に戻ると思う。田中の四年。
 頭の芯が、ずっと理性を手放さなかった、そういう壊れ方、という気がした。
 縒れたシーツと、掛け布団の上に、田中はそのまま転がっていて、服は着替えるように僕が言ったので着替えていて、風呂にも入っていて、だから横たわる田中は、ただ単に疲れて眠っているだけに見えた。その部屋は、四年間精神的放浪を、二ヶ月間具体的な放浪を続けていたひとの部屋にしては、普通だった。
 でも同じくらい、かなしいことのような気も、少しだけした。
 どこか冷静なまま、静かに、狂気に溶けていかないで、ただ普通のままで町を彷徨っていたのだとしたら、それは迷子になった羊のように、よるべないことだったから。
 でも実際、そうだったのだろう。
 僕は息をついて、部屋に転がったゴミを拾い上げる。ビニール袋に詰め込んでいく。ゴミを全部片付けたら、百均で買ってきたフローリングシートで床を拭いて、ああそのまえに、上からはたきをかけたほうがいい。子供の頃、書道教室をはじめる前の時間、母親を手伝って、ここから片付けて、と言われたのを、いまだに守って上から下に掃除している。
 思いついたまま、母親に連絡をした。病人に食べさせたほうがいいもの、といったんメッセージを打ち込んで、病人ではないけど、と思った。病人だったらむしろよかったと思うけど、病人ではないけど、ずっと迷子になっていた羊を、急に群れにかえしたら、たぶんびっくりすると思うんだけど、だからたとえばこれから酒を飲むとかの段階ではないと思うんだけど。
 そうだと思い出して、メッセージを送る前に、引いたままだったカーテンをあけた。西日が射していて、これから夜が来ると思う。田中が、いっそ朝まで眠っているならいいなと思う。夜に目を覚ますとさびしいから、それは誰だってそうだと思うから。疲れている羊は、群れに帰る前に、まず、朝日を見ることができればいいなと思う。でも田中は、この部屋に帰ってきてからもう丸一日寝ているので、多分ぜんぜん、夜中に起きるだろうな。
 ここに僕がいることが、朝日のかわりには、別にならないと思うけど、そう思いながら、メッセージを消した。うーん、と唸って、しかし部屋を出て行く気には、すぐに戻ってくるとしてもなれなかったので、宅配サービスを開いた。コンビニの「よく売れている商品」ラインナップには、冷えピタや体温計に混ざって、みかんゼリーとおかゆが並んでいて、集合知、ありがとう。アイスクリームもいくつか買っておく。
 朝日ほどさわやかな光でもないし、帰ってきておめでとうのすごく特別なプレゼントみたいなものも用意できないけど、まあ、ぼんやりここに座っている人が、いたっていいのだろう。
↓ごれんらく↓
オッドタクシーの二次創作の1000字作文をぽこぽこ無限に書くやつです
BLのときと BLというほどではないときがある
ネタバレってほどのこともないはずだが自衛してね
チャットコメントお気軽に~
気が向いたら書いてる小説の解説をコメントに流します
カット
Latest / 103:51
カットモードOFF
10:43
哉村哉子
こんにちは! チャットコメントお気軽に これは断崖の話なので外国だなーと思って書いています
11:17
哉村哉子
お題の都合で旅行っぽいこと多いのだが、佐藤は海外旅行に行き慣れている(という設定)なので外国の話が書きやすい
13:44
哉村哉子
「続けた」と「立て続けに」の位置が近いので悩んでた 「続けた」を拾って「立て続けに」は「並んで」に変更
21:05
哉村哉子
1つめ おわり
22:27
哉村哉子
45分再開かな
25:31
哉村哉子
なんかこのお題似たようなの既に2回引いてるな 続きにしようかな
34:47
くろミミ
おじゃましまーす
35:05
哉村哉子
あっこんにちは ちょうどキスシーンだった
35:22
くろミミ
キスシーン!
38:36
くろミミ
しょげ佐藤
42:41
哉村哉子
2つめ おわり
43:31
哉村哉子
18:08再開かな
45:21
くろミミ
1作目もよい~
47:05
哉村哉子
ありがとうございます~
48:04
哉村哉子
やります!
48:49
哉村哉子
次は累計で3400字地点目標かな 1000字ずつだと
52:44
くろミミ
おつかれ佐藤
52:55
哉村哉子
かなしみの佐藤
53:10
くろミミ
😢
54:19
くろミミ
良い仲になったものだ
54:50
くろミミ
😢
55:52
くろミミ
田中がんばれ~
56:50
くろミミ
田中がんばった
57:47
くろミミ
あわわわ……
59:20
くろミミ
😢
60:15
哉村哉子
4つめ終わり
61:00
哉村哉子
えーっと26分に再開します もうちょっとやろうかな~
61:19
哉村哉子
18:30までと言っていたが、まだいけそうだ
62:58
哉村哉子
さっきので3つめだった
76:06
くろミミ
田中~😢
76:32
哉村哉子
4つめ おわり
77:30
哉村哉子
さすがに次で終わろうかしらと思います
77:41
くろミミ
🐑
78:58
哉村哉子
45分まで休憩
102:16
哉村哉子
5こめ おわり
102:29
哉村哉子
というわけで今日はここまでにします~ ありがとうございました
102:45
くろミミ
お疲れ様です!ありがとうございました!
103:41
哉村哉子
ありがとうございました~!
チャットコメント
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
20250209 オッドタクシーの二次創作(サトタナ)
初公開日: 2025年02月09日
最終更新日: 2025年02月09日
ブックマーク
スキ!
コメント
オッドタクシーの二次創作 佐藤と田中の小説を書きます ネタバレないと思うんですが自衛してね 18時半くらいまではやる予定(以後未定)
20250224 オッドタクシーの二次創作(サトタナ)
オッドタクシーの二次創作の1000字作文をぽこぽこ無限に書くやつですお題→ https://shin…
哉村哉子
20250222 オッドタクシーの二次創作(サトタナ)
オッドタクシーの二次創作の1000字作文をぽこぽこ無限に書くやつですお題→ https://shin…
哉村哉子
20250216 オッドタクシーの二次創作(サトタナ)
オッドタクシーの二次創作の1000字作文をぽこぽこ無限に書くやつですお題→ https://shin…
哉村哉子
わぱれ、ゆるかき
きょむい〜ぬ