序
 「本日こそ、貴由先生に並木に行っていただきます」
 「しつこいな、君も」
 銅矢はいちこに引き続きうんざりしていた。彼の家の玄関前には、仇敵である吸血鬼デルウハの眷属が一人、みちがいた。彼女はいちこのように強くなりたい、道場の口利きをと言いに来たのではない。銅矢に用は無いようだ。彼女が用があるのは、銅矢の妹の貴由についてである。貴由は、玄関の扉をほんの少し開け、数十歩だけ離れた門扉を覗き込んでいた。銅矢がみちに対応しているのである。
 今度は敷地に入れないという固い意志を感じた。いちこを引き入れた失敗から、銅矢もお人好しに少しの扉を付けている。だいたい、みちと銅矢は互いに殺し合った関係性なのだ。そもそも家に来ること自体がおかしいのだ。それでも、みちはまっすぐな顔で、輝いた目で、銅矢に必死に訴えている。
 「貴由先生の才能は、こんな家庭に埋もれさせておくのは惜しい…自分が手伝います。だから、並木の婦人子供服裁縫教授所に向かいましょう」
 銅矢は嫌な顔をした。それは、みちの魂胆に嫌気が差したのではない。みちがまっすぐに貴由の裁縫の腕を買っていて、その技術と合わせて見た目が美しい事に心酔していることに、けっして嫌な気持ちはしないのだ。だが、みちの言葉には大きな落とし穴がある。
 「…君は、貴由を通わせたいんだろ」
 「ええ」
 「そのお金は、どこから出るんだ」
 「自分の給金から出ます」
 「デルウハ殿から出た給金か?」
 吸血鬼の稼いだ金なんて、ということであろうか。みちはぴくりと顔を動かす。だが銅矢は、それ以上に吸血鬼への嫌悪を出さなかった。
 「その出所はまあいいんだが、要は支援をしてくれるって事だろ?」
 「そうです。自分が貴由さんの服を買います。それに販路だって、考えます。貴由さんの才能は、絶対に表に出すべきですから」
 「それって、持続できる話か? それはいつまで出来る? たとえば、貴由が成人するまでか?」
 「それは、」
 「たとえばだけど、貴由が死ぬまで面倒見る覚悟が、君にはあるのか?」
 
 銅矢にはその覚悟があるようであった。だから中途半端な支援は、みちの支援はかえって貴由の将来をいずれ苦しめるのではないか。銅矢が心配しているのはそのことだった。銅矢にとって貴由は、守るべき大切な肉親である。彼女の未来に関わる事なら金を惜しみたくないが、それは永続されるものでなければならない。それは、エゴに近い親心だ。
 「それは…独り立ちされるまでならあります」
 「……悪いけど、その程度なら困るんだ。俺達は慎ましやかに暮らしてる。それが、急に金回りがよくなって生活の質が変わっても困るんだよ。頼むから、俺達を放っておいてくれ。静かに暮らさせて欲しいんだ…」
 銅矢の声は少々の願望を含んでいたが、おおむね兄として妹への思いに溢れていた。みちはそこに反論が出来ず、言葉を詰まらせる。今日は引き下がるしかないと、彼女は思ったようだ。
 「帰ります。今日のところは」
 「もう来ないで欲しいんだけど」
 「ーーですが、自分は諦めませんから」
 みちの言葉は力強い。まだ彼女は貴由本人の気持ちを聞いていないのだ、だからみちは諦めない。女性の意見などあってないような時代である。それでも、貴由の未来は貴由が決めるべきなのだから。そう信じ切った強い言葉を皮切りに、颯爽と去るみちを見送りながら、銅矢はため息を吐いた。
 確かにみちの言う通りだと思う事はある。銅矢とて、貴由の可能性を潰したくはない。だが人間には分相応というものがあるのだ。急激な生活の変化は、けっして彼女の未来にいいとは思えない。それが無償の愛であればあるほど、無料より高いものは無いのだから…。
 そう考えるのも、庶民だからかなあ。ブルジョワのデルウハのところでは、もしかしたらそんな事も思わないのが自然なのだろうか。いや、吸血鬼のところに興味を持ってはいけない。銅矢は自制し、玄関に戻ると貴由が心配そうな顔をするのだった。
 「貴由」
 「どうしたの、お兄ちゃん」
 「…なんでもない」
 俺にもっと金を稼ぐ力があったのなら、貴由を不自由なく育てられたのに。そう思いながら十分やっているはずの銅矢はより自己研鑽を誓うのだった。
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