『備忘録』
「これからどうするの」
みちの言葉に、ハントレス達はみな俯いた。めいめいの考えを思案しているのだろう。彼女らは互いに顔を突き合わせ、封じられた感情から解き放たれた喜びも無く、湧き上がったのは研究所への怒りであった。
ぼんやりとした記憶はある。ぼんやりとしていた期間があることも、まるで魂が体から抜けていてそれを見守っていたように存在することが分かっている。そのしがらみを、己に施された改造から解放されたら、全てが明確になるはずであった。明確になったのは意識と、自分達の身の上と、忘れるはずもない定着した記憶だった。デルウハが壊れた。それは明確な事実である。落命により記憶を失う彼女らであっても、それが忘れられないのは仮死状態で再生せぬようにとデルウハが”施した”からだ。その残虐性と残虐な行為に、少なからず今まで騙しながら自分達を殺害していたデルウハへの怒りと信用は綺麗にリセットされた。
ああ、自分達を殺したくて殺していたのでは無い。そして人間であるデルウハは、自分達と違って”壊れる”のだという事実に、少女達は難しい決断を迫られていた。
「信じるべきだと思ってる」
いちこが口火を切った。綺麗事を言うのは長女の役目だ。
「はっ、あれだけの事されてまだ信じるの!? どこまでお人好しなのよ、呆れちゃうわ」
長女をからかったり、正論を茶化して言うのは次女の役目。
「でもあの人がいなければ、自分達は勝てなかった」
きわめて冷静なのは三女の役目。
「でも……それならあたしだって」
「あんたはいいに決まってんでしょ? どうせそそのかされたのよ、あのクソ野郎に」
いつもの四女らしくない言動を、やはり合いの手を入れるのは次女だ。
「…僕達を殺すのが最適だと、デルウハは思ったのか。まぁ、そうだよな。だって生き返るんだし。それで、」
「何が言いたいのよ?」
五女のとりとめのない言葉に、次女は苛立ったように口を挟む。
「でも、本当に望んだか分からないよな?」
「そんなの、本人に聞かなきゃ分からないわよ」
やはり口を挟むのは次女。
「私は、あの人がずっと怖かった。でも…」
内気な六女の控えめな声に、次女はやはり苛立ったように言う。
「でもなに?」
「でも、勝てなかったと思う。どう頑張っても、人付きもあの人のコピーも神父さんも…」
「勝てたから信じるっていうの?」
「ねぇにこ。」
長女がそこで口を挟んだ。珍しい事だったが、まとめるのは彼女の役目なのだ。それは裏返すとまとめなければならない事が今起きている。次女がやけに口数が多いのは今に始まったことではない。だがいつもの皮肉屋で陽気で、都合の悪いことにとぼけるようなにこではない。
「ねぇ、なんで泣いてるの」
「泣いてなんか」
すかさず次女の反論が飛んでくるが、次女の服にぽたぽたという水音が反射する音。にこは周囲を見た。、長女だけではない、ハントレスは全員、気遣うべきか分からないような顔をして困惑していた。にこだって困惑している。
デルウハにとって幸運なのは、にこが寄りかかった時に殺害した時の記憶は、幸いにも他の記憶が多い為に埋もれてしまった事だった。にこの淡い恋心など、ハントレスは知りようがない。にこ自身も思い出せなかったのだ。だがその脳細胞は覚えていなくとも、細胞全てが再生されるという特異体質であっても、体のどこかに再生されない細胞――たとえばむつの大脳皮質のような、があったのかもしれない。そのような小さなほころびと奇跡で、にこは失った恋心にひた泣いていたようだった。だが、繰り返すようだが彼女はそれを知らない。
「…なんで、なんで泣くのよ…」
にこの戸惑いながら涙が混ざる声に、いちこが彼女を抱き締める。みちも同様だ。よみもいつかも、むつも近付いて皆でにこを囲んだ。この位置に、にこは不満気であるようだが。
「なんでみんなにこをそんな目で見るのよぉ…」
「いや、見るでしょ。生暖かい眼差しよ」
「うぅ、よみのくせにぃ」
「にこ。きっと何かが許せないのかもしれない。でももう少しだけ考えたいの。絶対に許せなくても、いいから」
「……」
長女の宥めるような声に珍しく反論せず、次女の皮肉屋は長女の腕の中に収まっていた。
「あんたその方が可愛げあるわよ」
「うるさぁい!」
元気が出てきたのか声量が取り戻されたにこの声に、ふっとした笑みが、ハントレスの中に漏れる。きっとこの恋心は思い出すことはないかもしれないし、思い返さないかもしれない。殺された意味を考えても、辿り着かないかもしれない。それでも心があるのだから、小さな奇跡が起きて然るべきだろう。
表情と空気を和らげた彼女らは、その後逞しい素直さとしなやかさで決めた。
「あと一回人を殺したら、私達は研究所を出ていく」
「だから――信じる」
少女達は身を寄せ合った。これから来るあらゆる困難に耐える為に。
『ほんの十秒』
「…眠れないの」
そんなしおらしい態度で夜半にデルウハの部屋を訪ねてきたものだから、面倒な夜這いかと思ったが相手は15の少女である。そんな訳はない、もっと動機は子供じみていて要求も子供そのものだ。眠れないから、起きているデルウハに相手をしてもらいたい。子供が素直に大人に甘えるようなものだった。それは本来親と呼ばれる家族、人間関係では核となる共同体の年長者、あるいは血縁者で行われるべきなのだが…あいにくな事に、にこに親はいない。名乗り出ていないのだ。
だから悩み抜いた挙句、デルウハのところに向かった。そんな彼女の心の機微はなんとなく想像が付いたのだが、デルウハとしてはその依存先に選ばれた事に光栄どころか嫌な顔をした。何故なら、彼はこれから眠るところだったからだ。ちょうど報告書だの、腹が減ったから夜食だのが終わったのだ。あとは眠るだけ。その安眠を、まさか部下たる隊員に邪魔されるイレギュラーが訪れるとは。
にこはデルウハが嫌な顔をしたのを見て、抱えている枕をぎゅうと抱き寄せた。だが顔は隠さない。彼女は引くつもりはないようだ。だから顔を隠したり、背中で手を組んだりしていない。デルウハはため息を吐いた。
「ため息つかないでよ」
「眠ぃんだよ」
現にデルウハの身には心地好い眠気が包み込んでいる。頭がぼうっとするような風呂に浸かった後の悪くない倦怠感というべきものが……それを理性で体から追い出し、にこに向かい合わなければならないのだ。それはため息ひとつも吐きたくなるだろう。にこは拗ねたように口を尖らせている。
「ちょっと話するだけでいいから。にこ眠れないの」
「それは聞いた。分かった分かった、いいから中入れ」
根負けである。にこは顔を輝かせた。姉妹たちには見せることのない、子供のような顔である。だがその目は真っ直ぐにデルウハへの好意に彩られていて、心の拠り所といえば聞こえはいいが、依存先と見られているのは明白だった。デルウハは思案していた。彼の眠気は既に体の外に叩き出されている。
「ホットミルクでも飲んでろ」
部屋で待ってろと言付けたデルウハが戻りしなに持ってきたのは、牛乳を鍋で温めたものが入ったふたつのマグカップだった。にこは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「やさしーい。珍しいじゃない、大盤振る舞い」
「とっとと飲んで戻れ」
「なんだ結局冷たいじゃん」
そう口で言いながらもニコニコと笑いながらにこはマグカップを受け取る。普段使わないものだ。だから使い勝手は分からないが、マグカップの使い勝手など大体同じであろう。にこは厚手のカップを受け取ると、湯気がたゆたう白い液体を見た。まっしろな膜が貼られている。ホットミルクならではのものだ。何の不思議もないし、なんの異常も見当たらない。そもそもにこは、デルウハが何かをすると思わずにまっすぐに信じているようだ。ふうふうと冷まし、こくこくとホットミルクを飲む。熱いからそう簡単に飲めないのだが、にこは猫舌ではない。いつも猫舌のよみやいつかを揶揄う立場なので、あっという間にこの善意のホットミルクを飲み干すのだった。
「なるほど、量が足りなかったか? まぁそのうち効くだろう」
デルウハは床に倒れ込んだにこを見ながら、そう冷酷に呟いた。先程彼はマグカップに細工をほどこした。毒を塗ったのである。以前ホットチョコレートの際に使った毒が残っていた。あの時は六人分使ったから、その分減っていたのだがにこ一人なら事足りるだろうと思われたのだ。だがにこの意識はほんの十秒ほど残っていた。うつろな瞳で壁側にあるデルウハのベッドを、床で寝転びながら見つめている。
何よこれ何したの何するのよなんでなんでなんで
にこの体は動かないでいる。吐き気を催すことなく綺麗に毒を飲み干したのだ。彼女がいたという痕跡は、牛乳の膜が覆い隠すように壁に張りついているマグカップくらいだ。だがそれも、デルウハが清掃すればすぐに消えてしまう痕跡であろう。デルウハはにこから離れなかった。マグカップを片付ける手が見える。
死ぬの? 夜更けに来ただけなのに。どうして。許せない。許せないよ。ただあなたに甘えたかった。許さない許さない許さない許さないどうしてどうしてどうして
にこの恨み節が最高潮に達した時だった。デルウハの手がにこの顔に伸びた。もうその全身は痺れていて感覚は無い。もうあと数秒で、死ぬ。だがデルウハの手が額を撫でたのが分かった。その顔が、穏やかに笑っている。
「おやすみ」
ああ、好き
にこの意識はぷつんと切れた。
「やっと寝たか。さて、運ぶか」
デルウハはそれを簡単に持ち上げる。マグカップは後で洗えばいい。彼の手元にある毒は、まだ残っている。
『胡蝶之夢』
都合の良い夢である。目が覚めたら、デルウハの腕の中で眠っていた。にこは思わず自身の体を見やった。服は着ている。いつものパジャマである。支給されたものがダサいからと言って、縫製部にだいぶ改良させた逸品だ。肌触りよく夏は冷たく冬は暖かい…愛らしいねこのアイコンが散りばめられた可愛らしいもの。今はそんな事を言っている場合ではない。パジャマの着脱が問題なのだ。
にこは裸ではなかった。映画や漫画でしか見たことがなかったけど、咄嗟にその心配をしたのは映画の登場人物と幾分か違っていた。にこが己の状況を鑑みたのは、他人に裸を見られるのが恥ずかしいからだ。それが恋心を抱いている相手だから尚更である。映画の登場人物はまさしく貞操を心配するのだから、そこはまだにこは子供らしい。
デルウハはまだ眠っている。だがにこが起き上がった瞬間、首が枕に埋まりながらごろりと彼は寝返りを打った。横向きから仰向けになった彼の、服に包まれた逞しい胸筋が開いた。にこの頭が余裕で埋まりそうなふっくらと盛り上がった胸筋である。妙な生唾が出る。性欲というより、背徳感だ。ここに飛び込んだら怒られるかな、でもやってみたいな。そんな発想によるものである。にこはまだ子供なのだ。普段はハントレス全員の前でわいわいと話すぐらいしか出来ないデルウハを、今にこはベッドの上で独占している。
その事態にかぁと彼女の頬は燃えた。
「…なに考えてんだろ」
夢だよこんなもの。あのデルウハと一緒に眠るなんて、有り得ない。どんなに希っても、彼が首を縦に振るとは思えない。世界を救うという恥ずかしいような目標を抱き、その事実を知るのは自分だけという優越感はある。だが、こんな独占を出来るほどの価値のあるものではない。よみにとってデルウハがどれほど大事か、それは自分の恋心とは違う方面だとよく知っていても、にこは姉妹の心の機微などお見通しだった。
にこは膝を立てると抱える。自分のベッドなのに、と思った。だがよくよく考えると、にこの部屋のベッドなら、デルウハがごろんと横たわってその隣に体操座りをするにこ……その二人分を支える巨大なものだっただろうか?
少女が成長しても使えるほどの大きさのベッドで、デルウハが仰向けに寝転んで余裕があるなど、不可能だ。にこはぷっと吹き出す。やっぱりこれは夢なのだ。
その事に安堵して足をパタパタ揺らしてみる。デルウハは深く眠っていて起きそうにない。こんなクリアな夢は初めてだ、しかも好きな人を横に、自分の意識はそのままなんて!
にこは楽しんでいた。だがふと、デルウハのベッドに自分が潜り込んだ可能性を思い付いた。にこは聡明な子である。慌ててデルウハの寝顔だけを見ていた視界を振って、周囲を見渡した。
「…え」
デルウハの部屋でも無さそうだった。青い空が遠くに見える。それよりもその空を覆うように白い白い雲が、水蒸気と形を変えているものもあったが大体のものがふわふわとした、おとぎ話の雲のように綿あめのような形で存在し、彼女らのいるベッドを取り囲んでいたのだ。まるでベッドごと空に放出され、青空の上でふわふわと浮いている…。
夢にしてもなんだかメルヘンじゃない。にこは悪くないと思った。デルウハが起きていたら、雲は水蒸気の塊だと夢のない事を言うのだろうが良いのだ。この世界のデルウハは、ただ安堵しきったように眠っている。少しだけ口を開いて、まるで子供のような顔で眠っているのだ。にこはその顔を眺めたり、遠くを見つめてみた。青い空の上は風もなく、気持ち良い湿度と温度が保たれている。雲が揺らめいて消えたり、また現れたりとその動きも様々で、遠くを見ているだけでも十分楽しかった。
まるで青い空の支配者になったみたいだ。にこが女王で、デルウハが王。この世界に二人きり、そんな事に頬を燃やすなんて、姉妹に見られたらなんてからかわれるだろう、でも今はいいの。ここには誰もいないの!
にこは夢だからと少し大胆な行動に出る事にした。体が、理性より先に動いたのだ。猫が獲物を狙うように四足になり、膝が柔らかなベッドに埋まるのを感じながら、そろりそろりとデルウハの上にのしかかる手前まで来た。心臓が高鳴る。だがデルウハは起きない。起き上がらない。そう信じてにこは静かに顔を近付けていった。頬に口付けるためである。ほんの少しの可愛らしい子供の愛情だ。触れた頬は冷たかった。まるで人間の感覚ではなく、冷たい床のような無機質で、あまりにも。夢の世界じみたものじゃない。
返ってくるのはにこの体温と吐息だけだった。
「おう、メンテナンス終わったぞ」
デルウハの声に、眩しい明かりにハントレス達は目を細めながらめいめい寝台から起き上がる。無機質で冷たい寝台である。そこから起き上がり、なんだメンテナンスかと覚えがない事を不思議がりながらも体を伸ばし、それぞれ部屋に戻ったりするところだった。欠伸をしたいつかが、はたと気付く。
「にこ、どうしたんだい顔赤くして」
「別にいいでしょ、起きたらそうだったの。ほっといて」
「なんか不具合か?」
デルウハまでやって来た。にこはほっといて、と言った。まだ冷たい頬の感触は残っている。寝台に口付けたのだと気付いて、にこの自尊心は少しだけ傷付いたが、それでもまだあの夢の世界にまた行きたいなどと思うのだった。