四話 幽霊と吸血鬼
女が憎むべき乗客は六名いた。
まずコウモリの激突を勘違いして、女を「吸血鬼」と叫んだR男。「吸血鬼」という単語を聞いて、咄嗟に女にちり紙を投げつけたS生。
赤子が泣いたところにぎょっとして視線を向け、乗客の視線を誘導し女の印象を最悪にしたU男。義憤にかられ、咄嗟に女を電車から突き飛ばしたV二郎。
若い女が最も嫌う、同年代からの汚物を見るような目をしたB男とA子。
彼女の短い生命が終わるわずかな瞬間に、ほんの僅かな期間に色濃く関わった者達である。彼女は彼らへの復讐を心の底で誓った。それは死の間際の彼女の心の中の約束で、荼毘を済ませ、通常通りの弔いだけでは慰めにもならずに現世に残った彼女の執念である。
「おい、銅矢三曹!」
意識の向こうで、デルウハの声が聞こえる。宿敵の声である。銅矢は必死に目をこじ開けた。いつの間にか意識を飛ばしていたようである。一時的に記憶が失われていたが、それも起き上がった時に思い出した。蛇のような姿になったコウモリ女に近付いた時、弾き飛ばされたのだ。
にこを飲み込んで変貌した女に向け、銅矢の銃弾がその腹に数発命中した。女が身をよじったので、攻撃が通ったように見えた。だが次の瞬間、尾の部分が銅矢を狙って振りかぶられたのだ。咄嗟の事で避けようがなく…銅矢は無惨にも弾き飛ばされてしまった。
その際に意識を失ったものの、電車など強固なものにぶつからなかったのが幸いだった。人間の体は脆いものである。銅矢は伸びていた砂利の上で体を起こす。そこでデルウハが顔を覗き込んでいたのに気付いたのだった。
「死んでないな。よし」
「いってぇ…そうだ。女は…!?」
「駅舎に向かった。待て、あれは吸血鬼じゃない。違うもんだ」
「何言ってるんですか…あれは吸血鬼ですよ! 人の血を吸い尽くしたのを俺は見た。ああくそ、駅舎か…まずいな」
銅矢は即座に立ち上がると、拳銃を持ちながら駅舎に向かって走ろうとした。だがデルウハが腕を掴んで押しとどめる。
「…ッ! 離せ!」
「待て、俺の話を聞け」
当の駅舎は、蛇のような巨大な女が現れて阿鼻叫喚の事態であった。電車から降りた人々が、ホームから一斉に改札口に走って逃げ惑っている。車掌や駅員も逃げるのを堪え、必死に誘導しているものの、誰もその声は聞いていない事態だった。女はゆらりゆらりと頭を揺らしながら、人混みの中にいるであろう誰かを探しているようだ。
今は蛇のように変わってしまったコウモリ女であるが、その正体は同年7月に、新宿駅の手前で突き飛ばされてしまった哀れな女性である。彼女は既に埋葬され、その身はこの世には無い。しかし何故か彼女の一念はこの世に留まり続け…彼女を死に直結させた乗客六人への復讐を誓っていたのだ。その六人はそれぞれ知らぬ人間である。顔見知りでもない。だがこの路線を使っているのは確実に分かっている。そのため彼女は、新宿駅付近で復讐対象を探していたのだった。
そのうちの二人は、先ほど銅矢の目の前で殺害したR男とS生だった。彼女の無念を晴らすべく相手は、残り四人となっている。その復讐対象が、今まさに人混みの中で見つかってしまい、女の手に捕えられていた。彼女を危険人物と認定したU男と、実際に突き飛ばしたV次郎である。男二人は叫びながら命乞いを必死にしていた。だが女は聞く耳を持たぬようである。
女は口を開けた。そこにはいつの間にか現れた鋭い牙ーーーこれは吸血鬼の特徴そのものだ、によって男の首筋に噛み付いたのだった! ぎゃあとU男の断末魔が混乱と絶望のホームに響き渡った。
するとみるみるうちに血が、一瞬にしてその身から抜かれていく。それなりに張っていた皮膚は皺だらけになり、老人のような枯れ木のようなおぞましい状態へと変わっていく。その惨劇を見て、業務を必死に遂行していた車掌も駅員も、耐えかねて駅舎を逃げ出してしまった。
デルウハの手を振り切り、銅矢は銃を構える。先程攻撃が効いたのだ、今も効くはずである。冷静に照準を合わせると、腹の辺りに二発命中させた。だが、血を吸いながら女は動じない。
「!? さっきから命中してるのに」
「だから言ったろ。あれは吸血鬼じゃない」
デルウハの言葉に、銅矢は先程からの違和感を吐き出すようにまくしたてた。
「じゃあ、じゃあ何なんですかあれは! 確かにおかしいんですよ、最初に俺が見た時は人間の歯だった。でもそれで傷口に吸い付いて、吸ったんだ! あれは吸血鬼の特徴なのに」
「そんな事を言われても、俺が知る訳ないだろう。妖怪だか幽霊だか知らんが、あれはこの国の別のものだ。吸血鬼ではない」
「別のものって…」
幽霊。デルウハが何気なく発したその単語に、銅矢ははっとした。二会敷少将に兵器をもらったのは昨日の事だが、本日の日中に時間が出来たから、もう一度彼に会いに行っていたのだ。その時の会話を思い出したのである。
「なんかでも、吸血鬼っぽくないよね」
それはあくまで二会敷の勘であると彼は言ったが、銅矢も似たような考えだったのでそうなんですよねと賛同する。
「銃効かないって言ったって、野犬と野良猫じゃな~…なんか吸血鬼っぽくないんですよね」
「でも愉快犯にしては異常者だ。まあ、討伐依頼は正当なんだろうけどね」
「んー…でもぉ、これって効くんですかね? あ、少将の腕を疑ってるわけじゃないですよ!」
「分かってるよ。んー…でも、なんかそうだね。人間じゃなくて動物の生気を吸ってるんだとしたら、なんか妖怪とか幽霊っぽいかなあ」
銅矢は嫌な顔をした。その顔に、二会敷はコーヒーを飲みながら何その顔と言う。
「いやだって…幽霊って…非現実的な…」
「吸血鬼があるなら、幽霊もいても良いと思うけどね。それに馬鹿にしてるみたいだけど、幽霊研究ってのも結構昔からあるもんだよ。古くは奈良時代には、日本人は死者と生者の区別を付けて幽霊の存在を認めている。まあネームバリューを得たのは江戸時代だけどね」
「へえ」
銅矢は心にもない返事をする。だが二会敷は気にもせずに続けた。
「日本じゃ、幽霊が身近な怪異であるはずなんだけどね。吸血鬼は強いからなー人類の敵としては十分すぎるくらいさ」
「…じゃあ、少将は今回のが幽霊だっていうんですか?」
「ま、妖怪よりは幽霊が近いかなってくらい。妖怪は、僕ちょっと懐疑的でね。山姥とかは姥捨てされた老婆の可能性はあるし、土蜘蛛なんて異民族の名前だったりする。妖怪にしておどろおどろしくするのは、教訓や隠したいことがあるからだよ。その点、幽霊は分かる。幽霊がいるかは分からなくても人を呪う気持ちは、太古の昔から現在にまで確実に存在するからね」
「…うーん」
そこまで言われても、銅矢はあまり納得がいっていないようだ。だが二会敷は続けた。
「ま、幽霊なら銃は効かないかもね。そもそもそういう物じゃないし。あーそうだ。じゃあ、これ持って行きなよ」
そう言うが早いか、二会敷は神棚の下に無造作に置いてあるダンボールに頭を突っ込み、中をごそごそと探り始めた。その尻を眺めていると、そのうちに顔がにゅっと上がる。その手には、何か小さい物を手にしていた。
「あったあった。これあげる」
「え、何ですかコレ…」
「いつ買ったか分からないけど、まあ神社のだから効果あるかもでしょ」
「なんでそこは適当なんですか…」
「幽霊研究は専門外だからねえ」
銅矢は思い出す。先ほど金縛りに遭った瞬間、心の中でやけくそで何かを唱えた時、何故か急に体が軽くなった。それは神に祈ったからか、それとも仏に祈ったからか? 唐突に嫌な予感がした。嫌な予感がしている。だが認めたくないが、もしかしたらあの女は吸血鬼ではないのではないか? しかしそれでも吸血鬼の特徴を孕んでいるうえに、デルウハの眷属を取り込んでいるのは揺るぎない事態である。
「でも、あんたの眷属を取り込んでるよな。そうなると、吸血鬼の力は取り込んでることに…」
「その可能性はあるな。ただその手前で攻撃が当たらんのなら、俺にもどうにも出来ん。あんたの領分だぞ、銅矢三曹」
デルウハは本来、銅矢とは敵対している吸血鬼である。ただ眷属を女に取られているからといって、銅矢を助けるつもりはないらしい。銅矢は分かっていると言いたげに舌打ちした。だが舌打ちは苛立ちからではない、銅矢の決意からだ。
「分かってる。…でもあんたの眷属の力を取り込んでるのなら、手伝え。デルウハ」
デルウハは目を丸くした。
だがにこをあのままにしておけないのであろう。デルウハは目を細め、仕方ないと吐き捨てる。残念なことに、今は共通の敵がいるのだ。途端に銅矢はデルウハの横をすり抜け、駅舎に駆け出した。女の手の中にいるU男はもう絶命しているようだ、枯れ木のようになって女はその死体をホームに放り投げる。銅矢はその瞬間に生まれた隙をついて、線路からもう片手の手首部分を撃ち抜いた。相手は幽霊である。だが半分は吸血鬼である。効くか分からなかったが、物量が通り抜けた感覚はあるのか、男を握る手が揺れた。力が抜けたのかもしれない、男がずるりと手から真っ逆さまに落ちていく。二メートルほどはある場所から落ちたのだ。V次郎はホームと線路の間に落ち、足を挫いたようで痛みに喚く悲鳴が聞こえた。
すると騒ぐ男に目もくれず、女は銅矢の方をぐるりと向いた。
「お、まえ」
その声はくぐもり、苛立ちに満ちている。定期的に邪魔をする銅矢への怒りが滲んでいるのだ。だが好都合である。彼女はずるずると体をよじらせ、銅矢に向かって来た。銅矢は一目散に駆け出し、駅舎を離れ、使われていない路線に誘導する。その先にはデルウハがいた。彼の横に並ぶと、銅矢は銃を構える。効かぬ場所があるのかもしれないのなら、効く場所もあるのかもしれない。手は効果があった。だから他に場所を見つければいい、銅矢は冷静にそう思っていた。デルウハの背からぶわりと羽根が生える。3メートルはある女の顔に飛びつくことが出来るだろう。だがデルウハは地上にいるまま手を女の顔に向けると、どこからともなくやって来た大量の蝙蝠の集団があらわれ、女の顔を一斉に覆い始めたのだった! 蝙蝠には啄むくちばしは無い。だが飛ぶための爪はある。噛み付くための顔がある。だから女の顔を覆い尽くし、動きを止めたと思われた。だが、女は致命傷ではないのか鬱陶しそうに蝙蝠の一団を叩き落とし始める。それでも動きは鈍るものだ。途端、銅矢の銃が彼女の頬を掠めた。人間の顔自体が巨大化している訳では無い。だがそれでも、天性の射撃センスをもって銅矢は的確に顔を狙う。狙うのであれば額。あるいは心臓。どちらでもやってみればいい。デルウハが足止めしている間に、銅矢が撃ってしまえばこの戦闘は終わる。
だが蝙蝠の一団がだんだんと数を減らし、銅矢と目が合った途端だった。女がかっと目を見開いたと思うと、唐突に二人は動けなくなった。動けなくなってしまったのだ。
「!?」
先程銅矢を襲った金縛りである。まるで蛇に睨まれたカエルのように、いやそのような恐怖を持って動けなくなったのではない。身体が物理的に身動きが取れなくなったのだ。目線だけは動くので、銅矢はデルウハを見やる。デルウハも同様に動けなくなっているようだった。馬鹿な!? 銅矢は思わず取り乱しそうになるが、冷静に考える。そうだ、二回目なのだ。一度経験して抜け出すことが出来た、だから今度も逃げ出せるはずである。喉が引き絞られる感覚がする、今度は首を絞められている感覚がした。次第に、銅矢はデルウハにつきまとっている何かが見えて、ぞっとした寒気が背を舐めた。それは半透明な人間達であった。おそらく銅矢にも同じ人間達がまとわりついているのだろう。だから、動けないのだ。だから首を絞められているのだ。
もしかしたら彼らは、国鉄の事故で亡くなってしまった者達かもしれないーーと銅矢は咄嗟に考えた。彼らは同じ被害者であるコウモリ女に同情し、こうして彼女を害する者達を止めようとしているのではないだろうか? だが、生きている人間達にとって彼女は害である。既に実害が出ている以上、討伐対象であることに間違いない。銅矢は絞められている声帯を必死に開こうとして、異様な高音を出しながらも叫んだ。
「…南無三! 南無阿弥陀仏! 南無妙法蓮華経! 般若波羅蜜多…!」
「何を叫んで…!?」
デルウハには耳馴染みのない言葉を銅矢が叫び出したのである。意外に思うのであろうが、銅矢は体が軽くなったのか先程よりも声量を上げ、呪文のようなものを唱え始めて居る。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、えーっと、昭見五…!」
「何してる!?」
そう尋ねるデルウハは一向に動けない事態である。だが銅矢は完全に動けるようになったようだ。すると彼は胸元からごそごそと何かを出すと、小袋に入った白い粉のようなものを思いきりデルウハの周囲にぶちまけた。塩だった。ただの精製塩である。だが何故か効果覿面で、デルウハの体は唐突に軽くなるのだった。
それは二会敷が銅矢に持たせたものであった。いつ購入したのかは分からないが、いつぞやに年末に訪れた神社で配られていた、祈祷された塩であるという。祈祷された塩にどこまで効果があるのか分からないが、お経や塩はいわゆる日本的な魔除けの道具である。それが、効果があったのだ。彼らに纏わりつく霊は、唐突にいなくなった。
だが塩が衣服に掛かり、デルウハはほんの少し嫌そうな顔をする。そこに、蝙蝠を払いのけた女の尾がまるで報復のように振り下ろされた。デルウハは受け止めようとじっと見つめていたが、銅矢が腕を引いて避けさせる。ずしん、と尾が地面を抉った。デルウハは銅矢を見やる。銅矢にとってデルウハは宿敵であるはずだが、咄嗟に体が動いたようだ。
「なんだよ」
銅矢もばつが悪そうである。いいや、とデルウハは甘い若者の行く末を案じた。この真っ直ぐな若者が、いずれ自分と対峙するのは無理があるのではないか。早めにこの将来を摘んでしまう方が彼の為であろう。だが今は共闘関係である。女は再び尾を振り上げたが、銅矢とデルウハの間に落ちた。分断された二人だが、銅矢は銃口を彼女に向け、デルウハも彼女に向き直る。これ以上弄ばれては、高位の吸血鬼たる身では面白くはなかった。デルウハは静かに笑うと、地面にどこからともなく現れた血がまっすぐな線を描き、その血が鞭のようにしなったと思うと女の両腕、腰を縛り付ける。そしてウォーターカッターのようにうねった血の線は、ぴしっと女の顔をしたたかに叩くと、頭から真っ二つにした。まるで蛇の皮がむけるように、女の身は皮一枚で切れていく、その中に、にこの足が見えた。どうやら女に完全に吸収されている訳ではないらしい。にこの力を借りて、その血を吸って、女はかりそめの体を得たかのようであった。
それを見ていた銅矢は驚く。あまりにもあっけない力の差だ。だが、まだトドメではないとデルウハは言う。
「行け」
吸血鬼であれば、もし吸血鬼の力を吸収しているのであればその心臓を突かねばならない。十字の杭で打つ必要があるとは昔の伝承である。だが今銅矢の手の中には吸血鬼を殺す武器があるのだ。デルウハが巨大な翼を銅矢の足元に差し込んだ。そうして押し上げるように、銅矢の体を飛ばす。
三メートルほどの女の顔の、その心臓を目掛けて若い男は飛んで行った。
デルウハの意図にも気付かず、まっすぐに女にとどめを刺す為に。胸元から銀の短剣を彼は取り出した。十字に重なり、それは吸血鬼を殺す条件を満たしている。今楽にするために、銅矢は剣を振りかぶったのだった。
五話 朝日
銅矢が飛び掛かってきて、女は驚愕の顔を浮かべた。唐突に現れた大男に、その身を切り裂かれてしまい、せっかく取り込んだ吸血鬼の能力が取られてしまったのだ。
彼女は幽霊である。この世に未練を残し、凄まじい執念によって新宿駅に宿った幽霊である。だがその存在は物の怪のようなものだった。幽霊はそのままこの世に未練や思いだけで残っている、無力な存在である。だが彼女の執念は幽霊を超えていた。探すだけに飽き足らず、殺してやると決めたのだ。その為には、己の存在をこの世に残し続ける必要があった。身体を動かし、何かを掴み、実体を保つのには、身を巡るものが必要だった。
消えそうな身を引きずり、心も身も吸い込まれてしまいそうな感覚にひた耐えている中で、女は血のにおいに気付いた。死に掛けの野犬が目に映ったのだ。その犬は子供を産んだばかりで産後の肥立ちが悪かったようだ。目も見えぬ生まれたばかりに子犬が、周囲で乳を飲まずに死んでいる。悲しき親子であった。高架下で命の灯が消え失せようとしている。だがその命は、女にとっては渇望してやまないものであった。自分から失せてしまった命の力であった。女の所業は、ここに語るのには幾分か残虐であろう。子犬の身も、まだ生きている母犬の命を啜った。それが、他人の命を奪って自分の命を存続させる方法であった。だがそれは、そもそも植物や動物を口にする人間の業でもある。だが、彼女は本来死んでいるはずの人間であり、摂理を無視した行為が彼女をただの幽霊から悪霊、怨霊に格上げしたのだった。それからの彼女は犬や猫の血を大量に啜り、存在を保ち続けた。
これが彼女に幽霊としてだけでなく生きながらえていた。それがある日、一変する。白猫を追い掛けたにこが、線路にやって来たのである。
にこはデルウハの眷属である。元は人間のはかない少女であったが、吸血鬼の力を得た怪力と、血を操る能力の持ち主である。にこが猫を探し、線路を覗き込んだ時、若者の血だとにこの首筋に噛み付いたのだった。普段ならそこまで油断しないのだが、猫に気を取られたのだろう。だがにこは女を、首筋に噛み付いたところで怪力を持って振り払った。実体が半分ほど出来ていた女はあえなく吹っ飛ばされる。だが、にこの血は彼女の血肉となった。唐突に訪れる飢えと渇きが、女を襲った。
にこは蚊にでも刺されたのかと不思議そうに帰っていく。その後ろ姿を見送りながら、女は強烈な渇きに襲われた。だが、女はそれが嬉しかった。強烈な生のありかたであるからだ。幽霊とも物の怪ともつかぬ間は、今にも自分が消え入りそうな中で精神を保っていた。その時必死に自分を保ったのは、復讐を誓った憎悪だけだ。だが憎悪は血肉にならなかった。それが、にこの血によって生きている実感が得られた。幽霊は、実体がないためか人間の意識に入り込むことが出来る。にこの意識の片隅を、女は乗っ取ったのだ。そのため翌日の夜、幽霊の力が強まる時間帯ににこを操ることが出来たのである。にこがフラフラと屋敷を出たのは、その為だった。そうしてにこの力を手に入れて、半分吸血鬼、半分幽霊であった女は、復讐を完遂せんと動き始めたのだ。だが、それは吸血鬼討伐を命じられた銅矢に、突然現れたデルウハに、阻まれてしまう。
顔がまっぷたつに裂けているのに、女は生きていた。血は流れなかった。にこの力を得てようやく実体化した皮一枚の体が、割けてしまっただけだからだ。完全に吸収できなかったのか、にこは女の細長い体の中で眠っているようである。にこが女から離れれば、女はいよいよ実体を保つことが出来ない。今にもにこはこぼれおちそうになっている。女の絶望を浮かべた顔に、銅矢は吸血鬼対策の拳銃を発砲した。吸血鬼であるのならばこの拳銃は効くのだ。
その特製の銃弾は、額を撃ち抜いた。女の実体が、にこから奪った力が急激に奪われていく。既にその身は吸血鬼になっていたのだ。どこかに消え失せる、私が消え失せる! ああああ! 女が叫ぼうと思ったが、声は張り上げられなかった。苦悶の表情が浮かぶ。銅矢は女の胸元あたりにいたのだが、そこに眠っているにこもいた。にこが、その中で目を覚ます。デルウハが起こさせたのだ。
デルウハとにこは眷属と主人の関係である。その血を分け与えたことで、デルウハとはテレパシーのように意思疎通を出来るのだ。デルウハは、銅矢を飛び上がらせた後、にこに意思を送っていた。銅矢の殺害である。デルウハはほくそ笑む。
あの若者はここまでよくやってきた。ここまで昇り詰めて自分に追いすがって来た。だが、彼には致命的な甘さがある。覚悟が足りぬのである。ここでその命を絶ってやった方が、彼の為なのだ。
にこが目を覚ませば、彼女の目の前には銅矢がいる。銅矢の心臓がそこにある。にこは血を操ることが出来て、致命傷など幾らでも与えられるだろう。せめて心臓を一突き、それが銅矢への敬意を示す事になるのだろう…。デルウハの意図とはこのようなものだった。
にこはデルウハに従順である。だからこそ、銅矢の殺害は順当であると思われた。
にこは少女である。デルウハの意思を流し込めるものの、彼女は自分の意思があり、自分の精神を持っていた。ただのデルウハの器というわけではない。彼女はデルウハによって目覚めさせられ、目の前にいる銅矢を見た。流し込まれた殺意が、血による剣に瞬く間に作り上げる。あとは心臓を突けばいい。彼女の手はぴくりと動いた。
「…」
だが。にこにはにこの意思があった。銅矢を見た時、まず頭に浮かんだのはみーちゃんだった。
同じ白猫を愛している同士であることが思い起こされた。愛すべき白猫が、銅矢の横にいる気がした。だから、にこの手は動かなかった。
デルウハは怪訝な顔をする。すると銅矢が短剣を振りかぶる。十字の形をした銀の短剣である、それを、にこの頭上にある女の心臓へと突き刺したのだった。デルウハはてっきりにこを処分しようとしたと思った。にこも同様に思った。だが銅矢は、まっすぐに女の討伐しか考えていなかったのである。女の体が、空にしみ出すわずかな朝日の中で崩れ去っていく。討伐を完了した銅矢は落ちながら、咄嗟ににこを抱えた。
高さはだいたい三メートルはあるだろう、にこの腰を肩に乗せるようにして、銅矢は砂利の上に両足から着地する!
「い、って」
にこは抱え上げられていたから無傷であった。だが銅矢は足がしびれるのかその場でうずくまる。するとにこは、感謝の言葉も言わずに銅矢の腕から足を引き抜くと、わざわざ銅矢の背を踏み、自分も砂利を踏みしめたのだった。ついでに銅矢の尻辺りを蹴る。
「いってぇ!」
「ふん」
にこは礼を言わなかった。そのままデルウハの所に駆け出し、距離を取る。デルウハは自分の命令を聞かなかったことは咎めなかった。にこの意思が邪魔したのは分かったからだ。だが今は、銅矢が宿敵であるにこを守った事に呆れていた。どこまでも甘い男である。するとハントレス達が、デルウハの意思を汲んだのかいつの間にか線路に集まって来ていたのが朝日に浮かび上がっている。にこを助けたのを見ていたのだろう、どことなく信じられないと言う顔をしていた。だがここで彼女らと戦闘をするつもりは無いのか、銅矢は立ち上がると短剣と拳銃を胸元にしまった。そうしてハントレス達がいる方向に、駅を出る方向へと歩き出そうとする。彼らが互いにすれ違ったあと、いつかが何かに気付いて急いであるものを拾った。そして彼女は振り向きざまに銅矢に声を掛ける。
「おい、帽子!」
「ん、ああ。ありがとな」
銅矢は駆け寄って来たいつかの頭を撫で、何事もないかのように歩き出した。その背に、デルウハは声を掛けないがよみが耐えかねて声を掛ける。
「なんで何もしないのよ!」
「俺の仕事は終わったんだ。…悪さするなよ、デルウハの言うこと聞いて、お利口にな」
そうあくび交じりに言う銅矢を、よみは後ろから蹴り飛ばそうと思ったが、いちこが止めた。何故か敗北したような気持ちがその場に漂っていた。銅矢の請け負った任務は、コウモリ女の討伐である。デルウハの討伐ではないということか。敵意をむき出しにしたのがなんだか馬鹿らしい気がして、肩透かしを食らった気分である。
一方の銅矢は報告に帰路につきながら、大仕事になったと眠気と戦っていた。だがここで眠る訳にもいかず、何度も目を擦る。デルウハと共闘したと言っても、デルウハが吸血鬼であると言っても上層部は信じないだろう。どう言おう、そう言えばホームに放り出された人は無事だったのか。諸々の後処理は頭にあったが、今はどうデルウハの事を言うか悩み、軍部に辿り着いた瞬間に銅矢は床に倒れ込むのだった。
犠牲者は三人の事態になった。吸血鬼対策が遅れたのだと新聞が叩くであろうと銅矢は覚悟していた。彼一人だけではなく応援を速やかに呼ぶべきだったと、今だから思うのだ。だがデルウハの能力は強大で、その能力無くして勝つことは出来なかっただろう。その能力を思い出すと、今も寒気を覚える。自分はいずれデルウハを倒せることが出来るのだろうかと途方もない事を考えるのだ。兼東司令に後日呼び出された。後処理については吸警の専門部隊がやってくれたようである。犠牲者の名前は新聞に大々的に報じられ、不手際を注意されるのかと思ったが…紙面はむしろ吸警に好意的な記事であった。兼東司令も同様に好意的であった。
何故なら、デルウハの女中が被害者のひとりであったのに、銅矢が彼女を生きたまま助け出したというセンセーショナルな見出しになっていたからだ。
吸血鬼の被害は三人、だが大富豪の女中を吸警が生きたまま助け出した! 快挙である!
新聞三社は銅矢を讃える記事ばかりで、被害者を悼む内容は少なかったようだ。銅矢としては複雑であるが、兼東司令も銅矢を手放しに誉めはしないものの、デルウハからの礼を読み上げた。
「デルウハ殿も礼を言っていた。よくぞ助けてくれたと、深々と頭を下げられてな」
「はあ」
「なんだ喜ばんのか。おかげで吸警への罵倒は殆ど無い」
「そうですけど、被害者を救えなかったのは事実ですから」
「そうか。だが私の判断が誤っていただけだ、お前ひとりに背負わせるつもりはない。…お前は、よくやった」
兼東司令にそう褒められ、銅矢は頭を下げた。だが血を吸われて亡くなった三人に、銅矢は心の中で追悼する。銅矢はまた、次の任務に向かわなければならないからだ。亡くなった方を覚えていられるのは三日ほどしか無いかもしれない。だが、心の片隅に彼らを住まわせて、いつでも肝に銘じるのだ。吸血鬼被害に遭った人間がいることを、そして吸血鬼を憎むべきことをーーー。
コウモリ女の被害はこれ以上出なくなった。喜ばしい話である。国鉄職員は安堵し、人々は安心して新宿駅を使えるようになった。偶然にも生き残ったV二郎は、足を骨折したものの電車に乗って仕事に向かっていた。もともと正義感が強く、常に世の中に怒りを覚えているような人間である。女を突き飛ばしたのも、良い事をしたと思っている節があった。そんな人間だから、松葉杖をついてうまく歩けない事に、女への恨みつらみを口にしながら歩いていたのだった。
「まったく、あの蛇女め…僕が何をしたって言うんだ…僕は良い事しかしていないぞ!」
その時、ホームに電車がやって来る。V二郎はその電車に乗りたいが、いつも決まった席に座りたいのでわざわざホームを移動していたのだ。電車がホームに到着する、その直前であった。
「え」
V二郎の裾がぐいっと引かれた。それはかなり強い力であり、姿勢を崩したV二郎は哀れ、ホームに到着した電車に轢かれてしまったのだった。一方のB男とA子である。二人は結婚を約束していた。あの事件があった7月には、既にA子のお腹の中には子供の種が出来ていたのである。
あれから十月経った予定日に、A子は一人の女の子を出産した。かわいい子であった。二人は赤子の頃から溺愛していたが、その赤子には少しだけ変わった特徴があった。両親を揃って見る時にだけ、口の片端をゆがめるようにして笑うのである。まるであざ笑うような笑い方だ。B男は変わった子ではないかと気に病んでいたが、A子は考え過ぎよと笑っていた。コウモリ女の復讐はまだ終わらぬようである。だがそれは吸血鬼とは関係のない話であるので、これにて終幕。