泣きながら自慰行為をしたのは初めての事だった。感情が綯い交ぜになり、望郷と恋慕がどちらも顔を出したのは初めての事だった。ようやく得られた絶頂に、体は生理的反応を示したが目からは涙が止まらなかった。義手にねばりつくほどに元気な物は出て来なかった。さらりとして垂れてしまいそうなものだった。防水カバーは付けていたから、ティッシュとウェットティッシュで拭い、綺麗に掃除してから防水カバーを外す。気だるげな作業であった。やりたくないが、後処理とはかくも虚しい。デルウハの名前を呼んで、思い出せる限りの熱に当てられて精を吐き出したところで、得られるものは何も無いのだ。
 ぐす、と所は鼻を鳴らす。都合の良いはずの幻覚は、こういう時に現れてくれなかった。朝見た夢の口付けの、生々しい感触に必死に縋っただけだった。虚しい。綺麗にし終えたので、もう眠ってしまおうと思った。もう縋るものは何も無いのだ。もう会う事のないデルウハにみっとなく縋って、罰を与えて欲しいのに、幻覚はただいるだけだ。それにこの世界の人間は、身近な者は限りなく優しく接してくれている。
 お願いだからこの身を焦がすような罪悪感を、一人生き延びてしまったことを、デルウハに愚か者だと囁かれたら終わる気がするのに、幻覚は一度もそのやさしさを見せてくれない。デルウハの斧が、あの一撃で人を天国に送る斧が、今は導くべき天使のささやきにも思える。彼は今の所には悪魔ではなく天使であった。その斧を自分に向けられたのなら、この終わりなき罪悪感から解放されるのに。
 「デルウハ殿…」
 名残惜し気に名を呼んでも、もう届くことは無いのだ。所は、神にも悪魔にも天使にも見捨てられてしまったらしい。それが、無性に悲しくて涙が目に滲む。時間帯は深夜だ。だから無性にさびしくて、人肌恋しいのだ。毛布をかぶる。情けなさと虚しさが寒さと共に足元に迫って来るが、なんとか体温で保温された布団の中には入れたくない。それも我儘な気がした。いつもなら眠る時に外す義手を付けたままで、所は目を閉じる。
 翌朝は同じ時間に目が覚めた。少々こざっぱりとした思考は、涙で解消されたのかあるいは自慰行為で解消されたのか。肉体と精神は繋がっている物である。眠気はない。むくりと体を起こした。義手は涙で汚れてはいないようである。眠ることが出来るのも、なんだか思い煩いが足りないような気がして自責の念が起床時に立ち昇る。眠るうちに、少しずつ研究所の事を忘れていく気がしてしまうのだ。ため息を吐き、所はとにかく起き上がった。食事の準備をしなければならない。料理は不慣れだが、同じメニューであれば出来るようになった。居候の身である。そのくらいはしなければならない。そう思い、キッチンに向かうと、部屋の主である二会敷は既に起きていた。コンロの前でコーヒーを飲んでいる。出遅れたなあ、とまた自責だ。
 二会敷は声を掛けて来た。
 「おはようシゲさん」
 「おはよう。…ごめんね遅くなって」
 「ううん。三時間で仮眠切り上げたから」
 「そう…あまり無理しないようにね」
 小言にならぬように慎重にだが、どうしても年上であるためかお節介が顔を出す。二会敷はコーヒーを飲みながら、うんとだけ答えた。そっけない返事である。所は首を傾げた。二会敷があまりそっけない返事をしたことがないからだ。
 「疲れてる?」
 「んーまあね。雑務が多すぎるかなあ」
 「そうか…手伝えるようになったらいいんだけどね。ごめん」
 「シゲさんが気にする事じゃないよ。……」
 「二会敷くん?」
 唐突な無言に、所は不機嫌さを読み取ったのか心配そうに声を掛けて来た。この世界に来てから、二会敷は所に親切であった。それは監視対象である自分から目を離さない為であろうとも、二会敷の親切心を所は信じ切る事にした。一度、助けてくれると約束してくれたからである。だからこの優しさを疑わずに来たが、今日はなんだか二会敷の機嫌が悪い。所は深入りせず、とにかく朝食のことだけ考えようと思った。そのためには、二会敷に退いてもらう必要がある。
 「ごめんね二会敷くん。朝食作るから」
 「あ、うん」
 簡素な答えだった。すっと退いた彼は、コーヒー片手にリビングに向かう。元婚約者が選んだソファーに座り込むと、興味が無いであろうテレビを点けてただ音声や映像といった情報をその場に流し始めた。退屈しのぎか、あるいは場の空気を整える為か。どちらにせよ会話を求めている様子では無いようなので、所はキッチンに向き直る。いつものメニューで良いのか、工夫が必要ではないかと頭の片隅で警鐘のようなものが鳴るが、レパートリーがそこまで無いので今あるものから作る他なかった。その警鐘は、二会敷の機嫌を取らなければと無意識に思ったのだろう。わずかな気まずさがある。しかし、相手は大人だ。子供のように機嫌を取らなくてもいずれ元に戻るだろうと、今は作業化することが出来た朝食に取り掛かる。それらを盛り付けて、一緒に食事を取ればおのずと二会敷も少々疲労が取れるだろう。そう思って食卓に並べたのだが、二会敷からはあったのは少々冷たい返事であった。
 「ごめん、僕いらない。…眠れてないからか、お腹空いてなくて」
 「ああ、じゃあラップしておくから気が向いたら食べて」
 所のほうを振り返り申し訳なさそうに言うので、それ以上荒波を立てる事はしなかった。自分の食事を済ませようとただ一人でもくもくと食事を済ませるだけだ。出汁巻き卵も、ほうれんそうのお浸しも、みそ汁もごはんも、塩鮭も味は変わらない筈なのにどこか薄く感じた。気もそぞろと言うべきかもしれない。リビングとキッチンは壁もないため、ダイニングテーブルからテレビが見える配置なのだ。だから嫌でも二会敷の背中が見える。コーヒーだけ嗜み、まるで朝食を拒否しているようなーーーいや、考えるのはよそうと所は自制する。心当たりが少ないのだ。
 二会敷の気まぐれで、自分を匿うのが疲れたのかもしれない。今までは社交辞令で、これが本音かもしれない。それならば自分は道化のように、にこにこと愛想良くして彼の機嫌を取るだけだ。この世界で、唐突に訪れたこの世界では所は二会敷に嫌われては生きていけないのである。
 
 「ごちそうさまでした。…じゃあ冷蔵庫に入れておくから」
 報告だけは必ずする。二会敷は振り返りもせずにうんとだけ言った。所は食器を片付けて洗い物を澄ますと、掃除をしようと思って自室に戻っていく。リビングに残されたのは、すっかり冷めたブラックコーヒー(一向に減らない)を片手にした二会敷と、何が愉快なのか分からない音声と映像を伝えてくるテレビだけだ。所の気配が無くなったのを感じた瞬間に、二会敷は長いため息を吐く。手元のコーヒーがちっとも美味しくない。だから喉に流し込むのもちょっとだけ苦痛だ。
 「…何やってるんだろ」
 まるで馬鹿みたいじゃないか。昨夜自慰行為を耳で聞いてしまって、その相手が所の想い人であったとして、それが二会敷の何を刺激する? そもそもこの共同生活は任務である。所を見張るのが主な目的だ。心を寄せすぎるな。公平に中立に、いつも距離を取って所を見張れ。その通達は十分に理解しているはずなのに、健気な姿勢にいつの間に絆されたのか。あるいは、自分が疲れているから彼へ八つ当たりのようになってしまうのか。助けて欲しいと縋る者に弱いのを知っていて、兼東司令は所の見張りはお前が適任だと言った。それは狡いじゃないか。
 無邪気に、無心に、互いに暮らす上で何の支障も無くて、いつしか所の知識量に惹かれているのに。刺激が多い友人を得て、満足しているはずなのに。ずっと所の中心にいる”その人”の存在が見え隠れしただけで、自分の心はやけにざわめいた。自分の弱い部分を刺激した者の魅力が、思ったよりも強くて興味を惹かれた。それだけなのに。二会敷はがりがりと頭を掻く。
 ふと自分が座るソファーに目をやった。元婚約者が選んだ、エバーグリーンである。落ち着いた色は常緑樹を意味し、転じて不朽を意味することもあるという。もう彼女との不朽は崩れてしまったけれど、今まさに所の身の中にある不朽も、崩れてしまえばいいのに。
 そんな呪いめいた考えにもう一度頭を掻く。思ったよりも所が、二会敷の中に入り込んできていた。
 あれから二週間が経った。所は二会敷と最低限の会話をしながら過ごしていた。相変わらず宇宙人は飛来し、人体実験部隊の人数はいっこうに増えない。兼東司令は呼び戻していると言うが、所の協力無くして人体実験は行えなかった。所は、二会敷とこの時間だけが通じ合う気がした。
 日常生活ではどうしてもすれ違いがあるのだが、生と死の境でこの妙なボタンの掛け違いを感じている余裕はない。二会敷が求めているメモよりも早く行動し、待機する優秀な部下である。地球外物質に浸潤される二会敷を見ながら、今日も生きていることに所は安堵する。元婚約者は、この日々の繰り返しに耐え切れなかったのか。常人であれば、この日々で精神をすり減らしたのだろう。所にもそれは理解できる。二会敷をどうしても心配する思いも理解できた。今も心配はしている。地球外物質の実験を繰り返せば、長期的に二会敷の身に何か不都合が生じるのではないかと。その嫌な考えが、所の頭の片隅に居座るようになってから、彼は一人で二会敷のいない部屋に帰るのだった。
 
 「…ただいま」
 電気をつけると、明るさに浮かび上がる家具がつややかに光る。当初、所はセンスがいい物ばかりだと思った。それら全てが二会敷の元婚約者によるものであると知って、その全てが会った事も無い女性のセンスだと知って、所の心にはそれなりにざわめくのだった。だが、壊して回る訳でもない。物に罪は無いのだ。だが、居心地が悪いなと思う事はある。まだ彼女の息遣いが、たまに部屋の中にあるような気がするのだ。だが部屋の主である二会敷は、その息遣いすらよしとしているのだろうか。
 「……」
 荷物を部屋に置き、着替えた所はリビングに向かった。この部屋に、彼が新たに買い足したものはない。だから部屋は全てお膳立てされたものだけ。それが、なんだか無性に落ち着かない。…二会敷とのすれ違いによって、心が追い込まれてつい部屋に八つ当たりしてしまうのかもしれなかった。はあ、と所はため息を吐く。流れ作業で食事を済ませ、風呂を沸かしている間の事だった。いつもは人目を気にして外には出ないが、何故か今日の所はベランダに出ることにした。
 からからから。都市の冷気が、所の頬を撫でる。ビルやマンションの灯りは、手では届かない向こうにある。最初は感動した人々の営みだが、今は少しずつ見慣れて当たり前のようになった。人類は平地で繁栄しているのだ。イペリットはいない。その平和が少しずつ所の身に入って来て、次第に研究所や元の世界のことを薄れさせていく。卑怯者、薄情者。そう自分を責め立てるのにも、慣れ始めていた。この平和の中で、自分が享受する全てが、実際に所の身に置くすべてだ。それでも忘れたことなどない。デルウハの幻覚も、まだ見ていた。
 「吸わないのか」
 所の横にはデルウハがいる。穏やかに誘っている。所は首を振った。
 給金が少ないので煙草はまだ買えていない。それに買いに行く気にもあまりなれなかった。最初に二会敷からなまじか貰ってしまったせいで、吸いたい場合は二会敷から貰うと、何故か頭は刷り込まれているようだ。所にもその自覚はある。買えばいいのだ。買いに行くであろうコンビニは、家からすぐ近くにあるのだから。
 それでも、二会敷からもらいたい。頭のどこかで設けてしまう制限である。それも今は、どうしてだか馬鹿らしく思えてきた。
 「…はあ」
 所は、二会敷と会話がしたいのだ。
 何故かは分からないが、決定的な行動を自分はしてしまったのだろうか。残念ながら心当たりがない。しかし、二会敷は明らかに所を避けるようになってしまった。食事を一緒に取ってもあまり会話は無い。そのうちに昼食を銅矢が誘ってくれる事もあり、所もそちらに流れてしまった。無言の二会敷に、どのように機嫌を取ればいいのか、あるいはどう謝罪すればいいのかがまったく見えないのである。自分がどこまでへりくだればいいのか、どこまで頭を下げればいいのか…しかしその方法は、所の人権を少し傷付けるような気がして、実行に移せない。所はちらりと横を見やった。デルウハの幻覚はもう見えない。都合が良いはずなのに、デルウハは悪魔のように誘ってはくれない。ここで幻覚に縋れたのあれば、もう少しだけ気分は軽かったかもしれないのに。
 風呂が沸いたと背後で聞こえた。生活音によって思考が引き戻される。生活はとにかく過ごさねばならない。清潔感が無くなっても生きていけるが、明日も仕事である。二会敷に会うのだ。せめて身支度は整えて、明日も会わなければ。そして明日には彼と話しをしようと決意する。そのためには、万全の態勢で眠らなければ。
 「私達を捨てるんですね」
 背後から聞こえたのは、粉山だろうか。責めるような声は、デルウハ以外にもこうして所の身にたまに迫って来た。以前はこの幻覚や幻聴に、自責によって震えていたけれどもこの世界に来て一か月以上経つ。暮らしは確立し、日常に薄まっていく自覚はあった。二会敷と向き合わないからこそ、次第に自分との対話を重ねていって、対処法も身に着けた。着けてしまった。
 「…忘れていないよ」
 「それは、嘘ですよ」
 幻覚をやり過ごす方法である。
 「生きている限り、覚えているよ」
 嘘ではない。その言葉を口にし、本心に沁み通すと幻覚は止まる。生きている限りは覚えているのは本当である。三十年も暮らしていた研究所を、今更忘れることなど出来ないのだ。この思いを抱えながらとにかく眠りに就く準備をするのだった。
 出勤すると、二会敷は第三研究室で寝泊まりしていた。大丈夫かと揺り動かすと、眠そうに目をこする。あくびをするのに、スープジャーを差し出した。これも家にあったものだ。中身はみそ汁が入っている。小ぶりな弁当箱しかなかったが、おかずを詰めてあるのも差し出す。
 「飲んでみて。温かいから、あとおかずも」
 「…ありがと。食べるよ」
 二会敷からは汗のにおいがした。ネクタイを外しきり、一晩中研究に明け暮れていたにおいである。食事もきっとろくに取っていないのだろう。その場で有難く食事を始める二会敷を見ながら、所は周囲を見渡す。ホワイトボードには方程式や思い付きが走り書きされていた。その内容は、なんとなく所には分かる。
 「新兵器、今度は爆弾を使うの?」
 「んー。うん。一点強化ものをね。ライガーは硬化された皮膚に覆われてるから、その突破口に」
 「そうか…じゃあ飛散を最小限に抑えないと、ダミー市街地にも被害が出るね」
 「うん」
 そう言いながら、出汁巻き卵を二会敷は口の中に放り込む。所の言葉は分かり切っているとばかりである態度だ。想定済みなのだろうが、今までの二会敷なら所という理解者に嬉々として話してくれたものだが…。そこに寂しさを覚えないといえば嘘になるが、淡々と話すのは科学者らしいやり取りでもある。所が特別ではない証だろう。
 「手伝うよ。レポートはこの部分?」
 「うん、ありがとシゲさん」
 それ以降の会話は殆ど無かった。昼食の時間になり、本日のワープ通過報告は無いからと銅矢が呼びに来た。
 「所さん、昼食どうっすか?」
 「あ、銅矢くん。ありがとう、今行くから。二会敷くんは」
 「ん、僕はパス…」
 「根詰め過ぎじゃないっすか? まあ少将が嫌ならいいっすけど」
 「んー」
 二会敷は熱中しているようでもあり、どことなく所を避けているようでもある。いまいちしっかりとしない言葉であるが、銅矢はまあいいやと所を連れて食堂に向かった。本日の定食は、オムライスセットかアジフライ定食である。ざくっとするアジフライにかぶりつきながら話す銅矢に相槌を打ち、所は昼食を終えるのだった。
 そうして戻って来た研究室だが、二会敷の姿は無かった。他の研究室か、人体実験部に向かうものの入れ違いである。兼東司令を尋ねてみれば、先程までいたぞと言われる次第である。
 露骨に避けられている? 所と顔を合わせたくないのであろうか。今晩も研究室に寝泊まりする予定であるようだ。所に会いたくないのだろうか、と嫌でも勘ぐれる状態である。所は二会敷に嫌われたら、正直に言えば生きていく術に関わるのだ。このままこの世界で生きていくのは、正直に耐えられない。だが所にはまだ対話という方法がある。研究所の人間は皆、デルウハに皆殺しにされて最早対話の手段はない。幻覚や幻影だけだ。挽回のしようがある相手なのに、このまま何もしないで二会敷と消滅していくことは、耐えられなかった。これは意地である。静かな決意をもう一度着火させると、所は仕事を片付けながら二会敷を探しに行くのだった。
 一日目は捕まらなかった。二日目は休みだが、二会敷は帰ってこなかった。そうして三日目。狭くないEDF本部で、ようやく所は喫煙所で二会敷を捕まえることが出来た。髭をEDFで剃っているのだろう、清潔な顔が所を見て少々ぎょっとする。所はその顔に少しむっとした。この三日、捕まえるために奮闘してきたというのに、この仕打ちである。所は煙草をせがまなかった。二会敷も煙草を渡さなかったが、沈黙に耐えかねて一本差し出して来る。
 「…ん」
 「ありがとう。…二会敷くん」
 「ん?」
 「嫌なら答えなくていいけど。避けてるよね」
 「…ん」
 痛い所を突かれたのか、二会敷は言葉をつぐんで目を逸らす。だが喫煙所は狭く、先にいた二会敷は奥にいる為に所を避けて逃げ出さねばならない。だが、所は退いてはくれないだろう。二会敷は観念したようだった。
 「…はあ。子供っぽい態度なのは認めるよ。でも。シゲさんはさ」
 「私?」
 「そう。シゲさんはさ……ずっと誰かを追い掛けてる。それが、正直に言えば見てられない」
 まごう事なき本音だった。だが所は図星を突かれたからか、あまりにも反応速度が早く顔を上げた。
 「…そうかもしれないね。今から忘れられるのは無理だ。だって、人生の大半を過ごした場所だから。それを忘れるのは、きっと卑怯な行為になるから…」
 「でも、ここで生きていくと決めたんでしょ」
 「そうだよ。だから君の、元婚約者の部屋で生きている」
 二会敷は、非難めいた所の言葉に首を傾げた。
 「どういう意味?」
 「君だって。君だって…あの部屋を受け入れてるじゃないか! ずっと元婚約者の方の幻影を追って、あの部屋を良しとしてて…」
 「え、ちょっと待って。僕はそこまで深く考えてないよ。ただ部屋は残してあるけど、でも。今はもう幸せになってるんだし」
 「でも君は幸せになってる? あの部屋で、ずっと誰かのにおいがする部屋で暮らしてみてね。君の深い愛情が、あそこで真空パックされているかのようで…なんだか息苦しいくらいなんだ」
 「それは、シゲさんの感覚ってだけだよ。僕はもう、僕は」
 二会敷は反論したかった。だが反論出来なかった。あの部屋ごと行き場のない愛情を封じていたのは、忘れたかったのは事実だ。部屋に帰らず、処分もせずにそのまま残しておいたのは、全ては自分の心の弱さだ。忘れがたかった。忘れてはいけないと思った。それはエゴだ。それを放置し、時間が解決したかったのかもしれない。それなのに、真空パックのように部屋の全てが残っていた。忘れられないのだろうと言われていても仕方がない。二会敷は反論しなかった。
 「…そうかもしれないね。忘れられないのかも」
 「私だって、君を責める資格は無いと思ってる。でも、…あの部屋で暮らすのは難しいかもしれない」
 「え、なんで!?」
 「だって、君の心はずっとあの部屋の中にあって。もう私が入る隙間は無いから。…異物であるのを認めて暮らすのは…」
 「待ってよ行かないで。どうして」
 「…多分私は、君がいないと駄目だから。君がいるから、この世界で生きて行けたのに。…悔しくなってしまったから」
 所は俯く。当初はこんなことを言うつもりはなかった。だが、喧嘩じみた高揚によって表に引きずり出された嫉妬と、嫉妬を自覚した気恥ずかしさと……結果的に、目の前の人間が欲しいのだという結論が出てしまった。この年齢になって生まれた嫉妬に、縋る気持ちに、もう二会敷の顔を見る事が出来なかった。だが、突然顔に他人の手が掛かる。顎を掴まれ、わずかに顔を上げさせられた。え、と息を呑む間もなかった。
 口付けされたのだ。頭が混乱し、目を瞬かせる。だが、二会敷の顔が目の前にある。それは事実で、目を何度しばたたかせても消えなかった。唇の感触が、吐息を注ぎこまれ、自分の吐息も呑まれている。短い口付けだったが、所は咄嗟に二会敷を突き飛ばした。
 「あ、」
 二会敷が思わず漏らした言葉を耳にしたが、あっさりと離れた身からすり抜ける。所は駆け出した。その耳には血が上って色が変わっている。
 「シゲさん」
 そう言われたのは分かったが、それでも足は一刻も早く二会敷から離れたかった。駆け出した足により体は風を切り、逃げ込んだのは使われていない資料室だった。その扉には鍵が掛かっていなかった。少々重い扉を必死に開けて、そして閉める。ばたんという音に安堵し、扉にもたれかかった。
 「ふ、っふう…は……」
 所の息が荒い。先程塞がれた口には、いつの間にか手が添えられていた。皮膚の無い義手では拭うのに向かないが、それでも口を覆っていたかったのだ。
 「は、…はぁ…」
 息が荒い。心臓は早鐘を打つ。罪悪感と高揚と、自責と。それらすべてを上塗りするのが、先程の口付けの感触だった。デルウハとの夢で見た生々しいものとは違う。生々しいのではなく、本当にされたのだ。感触も余韻も、ずっとそこに残っている。所が忘れなければ覚えられているであろう。
 「所長」
 幻聴が聞こえた。所は扉にもたれかかっているので、部屋の奥はまだ人がいるスペースがある。そこに、幻覚がいる。あのデルウハが僅かにほほえみながら、大きな両腕を広げていた。
 「おいで」
 あのデルウハが、穏やかに所を迎え入れようとしている。さあ今すぐにおいで。抱きしめてあげよう。そう言わんばかりの態度である。あのデルウハが、完全に迎え入れてくれるのだ。それは幻覚であるから起きる事だろう。幻覚はえてして都合が良い物である。だから、デルウハも、二会敷の感触を振り切る為に現れたのだ。その逞しい胸板に抱かれてしまえば、一体どうなるのであろう。だが、所はそれ以上幻覚に近付こうとはしなかった。
 キスの感触はデルウハとの夢よりも現実のものの方が強く、そのために、抱き着かなかった。幻覚以上に縋りたいものが現実にあった。初めて幻覚を所は振り切ろうと思った。だから目を閉じる。強く念じたのであれば、デルウハは消えるのだ。所は目を開ける。そこに誰もいないのだが、いつもなら感じる妙な寂しさを、今は何故か覚えないのだった。
  「シゲさん」
 こんこんと扉を叩く音がする。手の甲の骨で、静かであるが背に響いてくる。二会敷の動作は丁寧で、粗暴を感じられなかった。所は何故かほっと息を吐く。
 「…二会敷くん」
 「シゲさん、…良かったら開けて」
 絞り出すような声であった。普段の二会敷の言葉とは思えない程にか細いところがあった。所は思わず笑ってしまいそうになる。だが顔が少し緩んだだけで留め、待っていてと告げると扉から離れ、振り返る。ドアノブを掴むと、所は静かに開けるのだった。二会敷がそこにいる。いつものにこやかな表情は無く、ばつが悪そうな顔であった。
 「ごめんね。…研究室に戻って欲しいんだ。ここは、人の出入りが無いからちょっと目立つんだよね」
 「そうだね。資料室は誰か来るかもしれないし」
 二会敷の言葉に、所は同意する。そうして連れ立ってやって来た研究室は、がらんとして人気が少ない。人体実験は終了し、爆弾は作り上げ終えたところであるようだ。あとは整備班に頼み、銅矢の戦闘機に積み込むだけである。対宇宙人には様々な兵器があり、通常の規格を超えたものを整備するのが腕の見せ所なのだ。残念ながら兵器の誕生が優先されるために、規格は無視して作られる。その為、整備班はいつも苦労させられるらしいのだが…。
 「整備班がもう動いているから、そのうち出来るらしいけどね」
 「そう。やっぱり手伝えなくてごめんね」
 「いいんだよ。…僕も意地悪で仕事回さなかった。ごめん」
 二会敷はがりがりと頭を掻く。所に負担を掛けたくなかったのか、それとも所に何もさせたくないのは別の思惑か。
 「うすうす気づいてるかもしれないけど、僕はシゲさんのお目付けなんだよね」
 「…ああ。そうだろうなと思ってたよ」
 「だから仕事回すなってのはあったかもだけど…でも、シゲさんの助けが無かったら正直無理だった。これからでも覚えてもらえる? 多分、今までの比じゃないくらい」
 「君の役に立つのなら」
 所はほほえむ。その顔を見て、二会敷はもう一度頭を掻いた。
 「…孤独な仕事だと思ったことは無いんだけど。今回は、ちょっと堪えたな」
 「うん。これからは手伝うから」
 「それもあるけど。シゲさんの事で、意外と悩んでた」
 ぽろりと零した言葉に、所は少しだけ胸がざわつく。その言葉を待っていたようで、待っていなかったような気がした。
 「嫉妬だったんだろうな。シゲさんがずっと、誰かを思ってるのに気付いてたから。ずっと前の世界を思っているのを、正直に言えばちょっと疎ましかった」
 「…うん」
 「でも仕方ないよね。人間の心は、縛ることも出来ないし」
 過去に愛する人を逃してしまったのだから、二会敷はしみじみと言う。
 「でも、シゲさんに言われて気付いたよ。僕は部屋から逃げて、ずっと今も忘れないようにしてた。それが未練だって言えば、そうだろうなと思う」
 「…ごめんね。君を責めるつもりはなかったけど、でも。ずっとあの部屋にいるとね、君が幸せな記憶が残っているようで、ちょっと辛かった。これも嫉妬だろうね」
 「うん」
 穏やかな話し合いだった。それ以上は仕事の話になり、その日は結局二人は研究所に泊まる事にしたのだ。シャワー室も食堂も18時まではやっている。食べる物が欲しくなれば、コンビニに買いに行くことも出来る。シャワーを浴びた二会敷が研究室に戻って来た時、所はレポートを眺めていた。今まで所がやって来た物よりも詳細なレポートである。少しずつ仕事を覚える為に、頭脳をフル回転させているところに、湯気を纏った二会敷が視界に入って来る。今までは気にも留めないであろう同性の風呂上がりだが、妙な緊張が走ってしまう。びくっと所が肩を震わせるのを見て、二会敷は怪訝な顔をした。
 「なんかあった?」
 「あ、いやなんというか……ごめん、緊張して」
 「僕は何もしないよ?」
 二会敷はふっと笑った。いつもの笑い方ではなく、感情を発露させるようなわずかな零し方だ。所は俯く。この年齢になって気恥ずかしいが、あまりこういったことには慣れていないのだ。駆け引きもストレートな表現も、何もかもが慣れない。二会敷はおだやかな表現に留めているが、その向こうにあるのは互いの甘いこころの動きだ。その赤みを帯びた顔に、二会敷はすっと隣に座る。所はまたぴくりと体を震わせる。その肩に、いたずらっこのように二会敷は手を置いた。びくんと大仰に跳ねるので、小さく笑う。所は膨れたようだ。
 「もう」
 「ごめんね。…はは、僕も緊張してきたみたいだ、移るんだねこういうの」
 「二会敷くん」
 「うん? なに」
 「本当に私でいいのかな…」
 「それが自由に選べるのなら、僕はもっと自由に生きてたかもしれない」
 「ただの物珍しさも含まれてるのなら…」
 「うーん、どうかな。サンプルとしての興味は正直無いよ。だってシゲさんは人間だし」
 そう言い、二会敷は所の頭を撫でる。その手付きに、久しぶりに撫でられる感触があまりにも気持ち良かった。所が目を細めたのを見て、この素直さは心配になるなと二会敷は苦笑する。
 「勝てるか分からないけど、勝負を挑むよ。その人に」
 「…ありがとう。二会敷くん、私も勝てるように頑張るから」
 互いの想い人に。残影に。幻覚に。それらを振り切って、現在の時間に焦点をあてられたのなら。自然に二会敷は所に顔を近付ける。そこで、やわらかな口付けを交わした。互いにいい年齢である。貪るようなことはしないで、二人はそのまま研究室で別々のソファーで眠るのだった。
 「はぁ。お前はそうなる気がしていた」
 報告を逐一受けている司令は、特段驚きもしないで言った。二会敷はいつものようにへらりと笑っていた。
 「さっすが、兼東くんは僕の理解者だね」
 「理解したくて理解してるわけじゃない。まあお前が人間に興味を持つ時、殆ど好意がある時だと傍目に分かるからな」
 「はは、兼東司令には敵わないね」
 「いばらの道なのは理解しろよ。宇宙人のスパイ疑惑は、まだあるんだからな」
 二会敷の笑みが少し縮まる。だがそれでも、退くつもりはないらしい。
 「ま、二会敷の家もうるさいだろうから」
 「私達を巻き込むなよ。所も、巻き込んでやるな。可哀相だ」
 「うん。僕頑張るよ」
 なんだか子供っぽい言い方だが、二会敷には余裕があるようだ。久々に安定した心を手に入れた清々しさである。この清々しさがあれば、全てを超えられる気がした。
はーとありがとうございます!
 
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