いく◇
 挨拶運動については、ホームルームが始まる十分前ほどに終わることになった。他の生徒よりも早くに登校している実感はあるものの、それでも遅刻寸前のような時間帯に教室に入るのは、どこか歪な違和感というか、変な感覚を覚えてしまうかもしれない。
「お疲れー、明日はくんなよ」
「ははっ、ご冗談を」
 常法寺のそんな言葉に適当な返事を返しながら、そうして俺は下駄箱のほうに向かっていく。いつもなぞっている日常を遅くから始めることにどこかギャップは覚えるけれど、実際この感覚が悪いものかと聞かれれば、きっと悪くはないのかもしれない。
 家にはいたくない。家にいれば、妹と顔を合わせることにつながってしまうから。彼女とはなるべき顔を合わせたくないから、どうにかこうにかこじつけて俺は家を早めに出るようにしている。
 だから、挨拶運動という名目は自分としてはちょうどいい。きちんとした活動実績も残るわけで、きっと誰かからはよい評判というものを得られるのかもしれない。まあ、人の評価なんてどうでもいいのだけど。
 靴を履き替えた後、いつも通りに俺は教室のほうへと向かう。一年生の教室が待っている三階へと昇っていき、もうすぐでホームルームが始まるというのに、それでも騒がしい廊下を気配を殺しながら歩いていく。別に気配を殺す必要もないくらいに、他人は俺に対して興味なんて持たないのだろうけれど、一応話しかけられることがないために気を付けているのが、四月からの日常だった。
 知り合いは作らない方が楽だ。友達もつくらない方が楽だ。何かしらの関係性を作る、ということがあまりよろしくない。何かしらの関係性は後に面倒な問題を生む原因になってしまうかもしれない。具体的な問題例を頭の中で考えることはできないけれど、それでも他人とかかわることについては間違っているような気がする。
 人にかかわるから憂いが生じるのだ。自分を責め立てるような気持ちが生まれるのだ。もし、自分を大事に痛いというのならば、他人に対して身を預けるような、そんな関係性を持つことはなるべくよしておきたい。
 それならば、なぜ科学同好会というもの好きしか来なさそうな場所に来ているのか、そして生徒会に言っているのか、と問われれば少し困ってしまうような気がする。
 科学同好会については、俺が屋上で孤独をす圧していた時に、たまたま見かけた伊万里と立ち上げる、という約束をしてしまったから、未だに取り残されている、という状況であって、実際は人とかかわることを名目に参加しているわけではない。生徒会についても同様だ、俺にとって都合がいいから入っているに過ぎない。
「……」
 どうでもいいか、そんなこと、と俺は心の中で言葉を吐いた。独り言を吐くのも悪くはないだろうけれど、そんなことをして悪目立ちをするような真似だけはしたくない。
 ふとため息が漏れてしまいそうになる。教室の喧騒が嫌に耳に障ってくるような、そんな感覚。俺は目の前の喧騒に辟易にも似た諦観を抱きながら、いつも通りに自席のほうへと着席することにした。
 いつも通りのホームルームが始まった。出席の確認であったり、事務連絡であったり、そういった確認しなければいけないことを確認するだけの時間が始まっていく。何か問題が起こるわけでもなく、滞りなく日常が行われている。
 不真面目だと思われないように教師のほうへと視線を向けながら、視界の中に入ってくる周囲の生徒の動向を覗いてみる。
 別に雑談している生徒がいるわけでもないが、教師に隠れながらコソコソと、机の下で携帯をいじっている輩が多いこと多いこと。そこまで携帯に縛られてつまらなくはないか? と問いたいような気もするけれど、きっと俺みたいな生き方をしている方がつまらないだろうから、心の中でも文句を吐くのは間違っているような気がした。
 教師もそれらお見て見ぬふりをするように言葉を出して、簡単にホームルームを終えていく。教師にとっても生徒にとっても、こんな時間などどうでもいい代物でしかないのだ。
 無駄な時間だな、と思う。意識を逸らすものがないままに向き合うことしかできない俺についても無駄だと思ってしまう。だからどうした、という思考は止まらない。こんな思考を繰り返すことで時間を潰すのが習慣となってしまっているから、いまさらとしか言いようがないかもしれない。
 ……駄目だ、こんな思考を繰り返していると、自責思考を持ち出したくなってくる。なるべくやめるように心の中で取り留めているのに、並ぶ言葉はいつだって自分を否定するような言葉しか出てこない。
 いっそ思考のすべてを放棄することができればいい。そんなことができるのであれば、俺はきっと健全で楽しいと言われる薔薇色の高校生活というものを歩めたのだろう。それらを望んでいるわけではないけれど、それでも何か心惹かれるものがあるかもしれ──。
(……ないな)
 一瞬でもそんなことにうつつを抜かしそうになって、嘲るように笑ってしまう。窓の外を見て黄昏ながら、それっぽい演出をするように時間を潰すけれど……。
「──おい、高原。きちんと聞いてんのか?」
 ……こういう変なタイミングに限って、俺が叱られるような流れが生まれてしまうのだ。
 職員室の中の空気にはコーヒーや降り積もった書類の匂いがくすぶっているように感じた。入っただけで分かる換気のされていない空気の濁り具合というか、ともかく苦い匂いが鼻をつく。そんな香を好んでいる者も生徒の中にはいそうなものではあるが、正直言って俺が好きな臭いではないために一瞬顔をしかめそうになる。だが、それを心の中で行うだけにとどめて、俺は表面上を取り繕った。
「高原、学校はつまらないか?」
 そんな職員室という空間の中で、ひどく威圧的で体育会系というくらいの見た目をしている中年男性教師が俺のほうへと視線を向けてくる。彼の名前は重松、ということでこんな身なりではあっても現代社会の強化を担当していた。
 彼の視線の中には威圧感があるように感じた。もしくは憐れみと表現するべきかもしれない。風体については確かに威圧的な要素はあるけれど、彼の眉は困っているかのように傾いており、その中にある瞳を思えば、俺のことを同情するような目で見つめているのでは、とかそんなことを考えてしまう。
「楽しいですよ」
 俺はあくまで平然としたように答える。
 彼の質問に対して、正直俺は何かを感じるということもなかったし、思い返せる部分もなかった。楽しいかどうかなんて知る由はないし、楽しくなくとも学校生活というものは営まれるのだから、その生活の中に生まれる感情のすべてを俺はどうでもいいとしか感じられない。
 だが、ここでそのままの感情で言葉を吐いてしまえば、面倒くさい説教につながることはなんとなくでも理解することができる。自身の生活の安定を願うのであれば、無難な言葉を吐くべきだと思った。
「本当か?」
「本当ですよ。入学した手で右も左もわからない、という感じはしますけれども」
「ふーん」
 重松は興味がない、というように息を吐いた。というか、俺の発言を顧みたうえで、それでも疑うような声音を吐いていた。
 何か発言を謝ってしまったのかはわからない。自分としては真正面の返事をしたつもりだし、そこからなにか突かれる、というのは想像することが難しい。
 だが、重松は、はー、とあからさまなため息を吐いた、俺の瞳を射抜くような視線を向けてくる。どきっとする視線の感覚、衝動的に視線を逸らしたくなるのを意識的に堪えて、俺は彼の瞳を同様にとらえていた。
「高原、こういうときはな、わからない、って答えるのがだいたいなんだぞ」
「……いや」
 それは極論に近い言葉なのではないか、と息を吐きそうになる。素が出てしまいそうになる安易な自分の仮面を改めて付け直して、そのうえで「いやー、そうなんですね」と誤魔化しながら笑った。
「……」
「……」
 それから彼の言葉はなくなった。俺も特に話すことはないし、話せることがないから沈黙を選択する。何か謝ったことをした、という自覚はない。こうして呼び出されている件に関しても、単純に間が悪かったというか、不要に嫌なタイミングを突かれた、というだけにすぎないから。
「……そうか」
 沈黙が気まずくなったらしい重松は、結局そう言葉を吐いてから、ひょいひょい、と手で『出ていけ』とジェスチャーを行う。俺はそれに会釈をした後、静かに職員室を後にした。
 ……いや、結局なんで呼び出したんだよ。そんなツッコミのような感情が俺の中に生まれたけれど、その言葉を吐く相手はどこにもいなかった。
 授業の時間は退屈だ。勉強というものが俺にはどうも性に合っていないような気がする。昔から学習をする問いには、適当に持っている鉛筆を遊ばせていたし、中学になっても教科書の隅に書いてある余計な情報を探して回ることしかしていなかった。
 そんな性分だからか、どうしても目の前の授業に集中しなければいけない、という使命感にモニタ気持ちを抱いていても、口の中にあくびが生まれることを阻止することができない。なんとか噛み殺しながら、誰にもそのあくびを悟られないようにはしてみるけれど、朝早くから活動しているのだから、こんな眠気を抱えていても仕方がないような気もしてくる。
 視線は黒板に描かれる線だけを気にしている。文字だけを気にして、それを机上に置いてあるノートに書き写す作業だけを繰り返している。傍目からすればきっと綺麗に見えるノートではあるものの、その内容をきちんと理解できているか、と言われれば、正直よくわかっていない。
 どうしたって頭に情報を詰め込むことが苦手なのだ。世間一般的な高校生のように、こんなことを学習して意味があるのか、という気持ちに苛まれるから、授業という時間は嫌いだ。
 それでも俺はノートに記述を続けていく。
 つまらない解説、つまらない問題の形式、基礎さえあまり理解できていないのに唐突に挟まる応用の問題、頭を抱えそうになる苦しみを紛らわせるために、教科書へと救いを求めて目を滑らせて、その甲斐がないことを知る。
 無駄な時間の応酬だ。こんな時間を過ごすために俺は学校に来ているのだろうか。
 わからない、わからない。
 結局、いつまでたっても俺は学校生活というものを送ることに対して、抵抗感がぬぐえないままでいるのだ。
 重松が俺にかけた言葉を、なんとなく授業中に整理していた。
『学校はつまらないか?』、そんな質問に対して、素の俺であれば、つまらない、と答えただろうし、よくわからない、とも答えたのかもしれない。その答えの中に紛れるように、なぜ俺はここにいるのだろうか、という気持ちが挟まって、より解答についてはぐちゃぐちゃになる。
 高校に行く意味、学校に行く意味、学びを過ごして生きる意味、それを将来に生かせる像さえはっきりしていないのに、あやふやなままで時間を過ごす意味。俺がそれはわからない。
 学校に行く意味はない、と中学三年生の頃にはそんな気持ちが蟠っていた。そんな蟠りを見せたのは受験勉強の真っただ中である夏休みの頃合いであり、俺はその頃から学校に行く意味を見出せないままでいる。
 いろいろなことがあって、俺は両親に「学校には行かない」と伝えた。吐く言葉については無気力で、ただそれでも行く意味合いというものを見出せず、ただ無駄に時間を浪費するくらいであるのならば、適当に働いた方が有意義だろう、という結論に落ち着いたからだった。
 それだけではない、というのが実際のところではある。正直、集団というものに対して信頼感がなく、恐怖しか覚えることはできず、対面するということについて気力を失くしてしまったから、学校に行っても俺は死んだように過ごすことしかできないと思っていた。
 だから、俺は学校に行くことを選択しなかった。選択したくなかった。
 それでも両親は、同情するような眼差しで、俺の背中を押すのだけれど。
 
 昼食時になると、いつもどうすればいいのかわからなくなるときがある。
 たいていの人間というものは、適当に見繕った知人なり友人なりと時間を過ごすのであろうが、俺の場合はそういうわけにもいかない。五月という時期にもなって俺は友人の一つを作っていないし、作ろうとも思っていない。これからもこのような生活を続けていくのだから、俺にとって昼食時というのは憂鬱な時間ではある。
 寂しいわけでもないし、孤独でいることが辛いわけでもない。ただ、ぼんやりと過ぎる時間を一秒ずつ認識するのがひどく退屈で仕方がないというだけ。俺はこの時間をどう過ごそうか、と毎日何かしら考えているような気がする。
 外の方を見れば、特別棟と繋がっている渡り廊下の天井、フェンスが設けられている通り道が視界に入る。日当たりがいいのか悪いのかわかりはしないけれど、それでも外だというのに数人の女生徒がその辺りで昼食を済ませようとしているのが視界に入る。そこまでして外で食事をとりたいものだろうか、と彼女ラーのエネルギーの勝ry項を思うと、なんとなく敬礼でもしたい気持ちになる。
 これについては素直な気持ち。俺がやろうとは思わないことを率先して活動している人に対しては、どこか敬意のようなものを抱かずにはいられない。
 ……まあ、そんなことを考えながら、結局俺も外みたいなものである屋上に向けて移動をするのだが。
 屋上に昇る前から、その手前の踊り場から風が抜き抜けるのを肌で感じていた。踊り場を目の前にして、閉まり切っている窓から風を受けるのを錯覚したけれど、そんなことを考えなくとも風の出どころは屋上からでしかないことを俺は知っている。
 特別棟から行ける屋上を管理する教師は誰もいない。この場所に対して関心を持っていないのか、自分の教科で忙しいのか、いまだにここは規制されることはなく、ただただいつも孤独を着飾る者たちだけで使用されている。
 ふう、と適当に息を吐き出してみて、身体にいつの間にか入っていた力を抜くようにしてみる。何に対して身構えているのか、無意識的の強張る力に俺は笑ってしまいそうになる。
 階段の踊り場を昇っていき、そうして屋上の扉を視界に入れた。風邪の出どころである扉は半開きになっており、たまに吹き抜ける風によってかすかに震えのような揺れを行っては蝶番の錆を強調するような音を醸し出す。それを不快だと思えば不快に感じたが、それを気にすることはなく、俺はいつも通りに屋上の世界へと乗り込んでいった。
「あら、高原さんじゃないですか」
「……どうもこんにちは」
 そこには予想通りというべきか、伊万里 京子がいた。
 彼女はサンドイッチなるものを片手でつまみながら、そうして呆然と空の世界を眺めている。風が強く吹きすさんでいる屋上に置いて、雲が流されることに対して理解を示してしまう。これだけ強い風である小野ならば、あれだけ大きい白い雲でさえも流されるものなのだろうと。
「また独りぼっちですか?」と伊万里は聞いてくる。
「ええ、いつも通りに」と俺は苦笑した。それ以上に何か返すべき言葉は思いつかなかった。
「それなら仕方がないですね、……一緒に食べます?」
「そうすることにします」
 ふふっ、と伊万里は笑いながら、とんとん、と彼女が座り込んでいる床の隣を手で指した。俺はそちらの方へと足を運んでいく。
 屋上の床は塩ビの緑色で敷き詰められている。滑らないような配慮が行われていそうな作りになってはいるものの、誰にも管理をされることがないこの空間の床には、相応に埃が降り積もって、上靴のゴムさえ滑らせる気配がある。
 こけてしまわないように意識を向けながら、少しおぼつかない足取りで彼女のもとへと移動をする。そんな傍らで、はむっ、とサンドイッチを頬張っている彼女の擬音が耳に聞こえるようだった。
「断ると思ってました」
 座って俺が持ってきた鞄から昼食を取り出すと、伊万里はぼうっと俺の様子を見つめながらそんなことをつぶやいていた。俺はその発言に興味を抱くことはなく、何かしら飲み物を買ってくることを忘れていたな、とぼんやり思いながら、改めて彼女の言葉を咀嚼した。
「何がです?」
「……いや、なんか一緒に食べる、とか、高原くんならしないと勝手に思ってたので」
 彼女の言葉を耳に入れて、確かになぁ、と思った。昨日までの俺ならば、もしここに彼女がいたとしても、そうっと見て見ぬふりをして、今度は物理室に赴くなり、学校の体育館裏に行くなりをして、孤独に昼食を済ませていたと思う。
 それなのに、今日に関してはなぜ彼女と一緒にいることを選択するようにしたのだろう。彼女が珍しく屋上という空間にいたからだろうか。
「なんとなくですよ、なんとなく」
 俺が彼女にそう返すと、そうですか、と興味がないように伊万里は返事をする。
 いつもであれば、伊万里は物理室で食事をとっているはずだった。
 もともと、俺たちが科学同好会というものを結成したのは、互いに孤独であることを誇示するような環境によって、人からの視線をかいくぐるためであり、そのために用意された物理室という空間を彼女は有効に使っていた。
「伊万里さんは、どうして屋上に?」
 だから、俺は聞いていた。互いにいつもと異なっていることを行っているのを認識しているからこそ、そんな言葉を吐いても許されると思った。
 そんな俺の言葉に、彼女はサンドイッチをはみながら答える。
「なんとなくですよ、なんとなく」
 言葉遊び、というか、俺の言葉で遊ぶようなセリフ返し。
「なんとなくですか」
「はい、なんとなくです」
「なんとなくというのであれば仕方がないですね」
「そうです、仕方がないんです」
 サンドイッチを頬張りながら話す彼女の言葉は全体的にふんわりと甘噛みをしていた。
 ああ、それなら仕方ない、と俺も母親が用意してくれた弁当を食べることにした。
「今日は部室にきますか」と伊万里は聞いた。彼女はとうの昔に昼食を済ませており、いつまでもぼんやりと空を眺めるだけの活動を延々と続けている。それほどまでに空が好きなのか、それとも退屈でしかないのか、俺にはよくわかっていない。
「正直、わからないといったところですね」と俺は彼女の言葉に返した。
 毎日、ぎりぎりのところまで書類仕事をやっていて、昨日あたりはそろそろ締めがつくのではないか、と見当をつけてはいるものの、仕事というものは新しいものが追加されることが大半だ。昨日であれば部活動の一覧を作成し、その活動費であったりを整理したわけだが、今日はまた違う活動が俺の時間を奪っていくのかもしれない。いや、奪ってくれるのかもしれない。
「そうですか、そんなに忙しい感じなんです?」
「生徒総会が近いってことでわちゃわちゃしてます。あまり本命の生徒会役員が来ないので……」
「ああ……」
 サボる人って結構いますもんね、と彼女は言う。俺はそれに頷いた。
「何か科学同好会でやることでもありました?」
「いえ、別にそういうことはないです。ただ、誰か来るのかなぁ、と気になったので高原くんに声をかけてみただけです」
「……そうですか」
 実際、科学同好会でやることなんてたかが知れている。いつも行っていることとすれば、伊万里と他愛のない雑談を繰り広げたり、持ち帰るのが嫌な課題をそこで済ませたり。五月に至ってもそんな活動内容が変わることはない。
「まあ、暇しているとは思うので、気が向いたら来てみてくださいよ。なんとなく待っておくので」
「期待されているのだったら、なんとか暇を見つけておきます」
 俺はそう言いながら、手元にある弁当のすべてを平らげた。彩のない肉弁当が空っぽになるのを視界に入れて、重苦しいものが身体の中に含まれる感覚を、少しばかり気持ち悪くなりながら俯瞰で見つめた。
 それからも淡々と時間は過ぎていった。昼飯を食い終わった後、教室に帰っても暇だから、という理由で伊万里と一緒に空を眺めていた。特に会話が生まれることはなく、ぼやっと青い空と継ぎ接ぎの白い雲を見て意識を浮かべていた。
 チャイムが鳴った後、伊万里の「それじゃあまた」という言葉を合図に俺たちは解散をした。また、という言葉を使っていることに俺は気が付きながら、そこそこに物理室に赴くことを期待しているのだろうか、となんとなく考えてみる。
 もし仕事がたくさんあるのだったら、息抜きに彼女のもとへ行くのも悪くはないのかもしれない。この学校の中で居心地のいい場所なんて、物理室と誰もいない生徒会室くらいだから、気が向いたら俺は向かうことにしよう、と心の中で決めてみた。
 思考を繰り返しながら渡り廊下を歩いていく中で、特別教室での授業らしい生徒が数人ばかり慌ただしい様子で駆けていく。俺はそれを見送りながら、自身の教室との距離を概算して、それから放課後の過ごし方を見定めていく。
 ……まあ、結局生徒会の仕事を手伝うのが相場だろう。俺は息を吐いた。
 滞りなく授業は進んでいき、そうして今日の日課のすべてを完了した。帰りのホームルームでは、最近コンビニでたむろしている生徒が多く、近所から迷惑だと通報を受けている、という話題が挙げられ、帰る際には真っすぐ道に変えるようにアナウンスをされる。まっすぐ家に帰れという言葉に心のどこかで、従えないな、と歪な反骨精神で返しながら、ホームルームは締めくくられた。
 だんだんと夕日が落ちる速度が遅くなっていく。四月の当初こそは冬を思わせるように、夕方の時間は短くすぐにやってきていたけれど、今度は春から夏へと移動する季節の流れを俺は認識せずにはいられない。汗ばむような季節がやってくると嫌な記憶ばかりが頭の中に過るから、なんとも言い難い感情が俺の心を巣食ってしまう。
 ぼんやりとしていても仕方がない。こうしている間にも時間は過ぎて逝く、時は金なり、という言葉を慎重に扱うのであれば、さっそく俺は鐘を浪費していることに変わりはない。有り余るだけの時間ならば不要だな、とは考えているものの、それでも予定がもともとあるというのならば、時間を無駄遣いすることは許されないような気もしてくる。
 俺は生徒会室へと向かった。
 生徒会室の前に立って、ドアから覗ける窓から部屋の中を見渡してみるものの、中には誰もいなかった。一番乗り、ということらしく、生徒会室には鍵がかかっており、俺がドアを開けようとする力は鍵によって抵抗され、その力の行き場をなくしてしまう。
 面倒だな、と思う。きっと、昔であれば独り言のひとつくらい出していたのかもしれないけれど、ここはぐうっとこらえて、せめて心の中で呟いてみる。
 鍵がかかっている、というのであれば、自然とおこなわなければいけない行動は、鍵をとりに行く、に限定されてしまう。鍵を取りに行く、という行為自体は面倒くさいものでもないし、簡単に済ませることができるけれど、職員室に行って鍵を借りる、というのがどうも足を重くする。
 昔から職員室という場所については苦手で、早朝にも入った大人ばかりいる空気が俺にとっては耐えられない。浮かべている作り笑いが歪んでしまいそうになるのを自覚してしまうほどに。
「……物理室に行くかな」
 逃避行動として選択したのは、伊万里と約束みたいなことをした物理室である。何かやるべきことを見出しているわけでもないし、彼女に呼ばれているわけでもないと思うけれど、こうした時は適当な場所で適当な時間を過ごしてから、誰かが鍵を開けてくれることに期待するしかない。
 そう思って踵を返し、特別棟の方へと足を向ける、が──。
「……お前も独り言とか言うんだな」
 後ろを向けば、どこか怪しむような視線で俺のことを見ている赤座がそこにはいた。
 俺はいつも通りの作り笑顔をした。赤座に不審なところを抱かせないように留意をしながら。彼はじゃらじゃらと職員室から持ってきたらしい生徒会室の鍵を手元で遊ばせながら、やはり俺のことを訝しい、という視線で貫いてくる。いや、訝しいというよりかは、面倒臭そうであることを示すような不機嫌な表情だと思った。
「赤座先輩、どうもです」
 俺は極めて自然に言葉を吐いた。
「ちょうど鍵を取りに行こうと思っていたんですよ、すみません、こういうのって後輩が率先してやるべきなのに……」
「……いや、普通に聞こえてるから。物理室に行こうとしていたんだろ? ……というか、お前心の中まで敬語だと思っていたけれど、そういうわけじゃないんだな」
 くくっ、と一瞬笑うような表情を見せた後、切り替えるように真顔になって、そうして彼は遊ばせていた鍵で生徒会室の扉を開錠していく。
 あー、これはまずいな、と思った。大した問題ではないけれど、心がもう物理室へと向いていたから、これから仕事を行うことを考えると少しばかり憂鬱に近い気持ちになってしまう。
「どうした? 入れよ」
 扉を開けた後、何も問題がないように呟く赤座の姿、いまだに入ろうとしない俺に振り返りながら、彼は頭を掻いた。
「ああ、はい、もちろんです──」
「──別に仕事をやるもやらないも、雑務でしかない高原が勝手に決めればいいさ。だが、少し話したいことがある。ちょっと面貸せや」
「……」
 そんなヤンキーみたいな誘い文句を赤座は吐いた。俺はそんな彼の言葉に一瞬どぎまぎしながらも、渋々、はい、と頷きながら生徒会室に入っていく。
 なにかやらかしただろうか、そんな不安を抱きながら俺はくぐもっている生徒会室の空気を肺の中に入れた。
 入ったばかりの生徒会室は暑く感じた。日射はカーテンによって遮られており、直接的な光の熱はそこにないものの、温まってしまったカーテンが乾いた空気を更に温めている。そんな中にある書類の束や冊子の一部であったりが熱に侵されており、独特の香りというか雰囲気が生徒会室の中にはあふれていた。
「まず、なんの仕事をやればいいでしょうか」と俺は聞いた。先ほど赤座から言われたことをすべて無視するように、淡々と長机の上に置いてある書類に手を伸ばしていく。大概は会長席である常法寺の場所にまとめられていたが、例外的に省いたらしい書類を手に取って、俺は作業することを示唆した。
「いや、まだだ」と赤座は答えた。
「ほら、ええと、今、俺とお前の二人きりだろ? ちょっとドアを閉めてくれ、頼む」
 頭を掻きながら、気まずそうに赤座はそう言葉を吐いていた。
 俺はそんな言葉に従って、くぐもった空気を換気するために開けていたドアを閉めていく。
「外に人はいるか?」と赤座は聞いた。俺はドア窓から廊下を覗いて誰もいないことを確認すると、赤座の言葉に首を振った。
 いよいよ状況的には作業なんてやれる状況じゃないな、と思う。こうあからさまに場面を作られてしまえば、笑ってごまかすこともできないような気がする。何が起こるのか、何が語られるのか、俺にはわからないものの、それでも不安というものは心について離れない。
 流石に暴力沙汰、ということはないだろうけれど、暴言の一つくらいは覚悟しておいた方がいいかもしれない。俺は今までのことを思えば、それくらいは赤座からされそうな気がする。単純に彼から嫌われている、という自覚があるからこそだが。
「……それにしても赤座先輩から話って珍しいですね。何かあったんですか?」
 俺は頬に浮かべている口角が歪んでいることを自覚しながら、それでも筋肉を意識的に動かして、笑顔を作り出す。ぴくぴくとする筋肉の感覚に、赤座には悟られていないだろうか、と不安を抱くけれど、赤座は特に気にしていないようだった。
「いやー、まー、なんというかだな……」
 赤座は気まずそうに息を吐いた。……いや、そんな気まずそうに息を吐くような案件など、俺との間で持ち合わせているわけでもあるまいに。
「……ええと」
「そんなに僕に言いづらいことですか?」
「いや、そういうわけじゃない。これは高原に対して言いづらいとかではなくてな、誰に対しても言いづらい、というか、なんというか……」
 誰に対しても、というところに俺は引っ掛かってしまった。
「そんなことを僕に? 常法寺先輩とかに言った方がいいのでは……?」
「あー、そうしたいのはやまやまなんだけど、そうすることができない事情があるというか、なんとなく察している部分があるというか……」
 赤座はぼりぼりと頭を掻いている。そして、常法寺、という言葉を出した後、彼はあからさまなくらいに視線を泳がせた。
「……それで、結局何が言いたいんですか」
 俺がそう言葉を吐いた後、自分自身で少し威圧的な言葉になっているな、と自覚をした。けれど、赤座は特に気にする風でもなく、はあ、と大きなため息を吐いてから決意を固めるようにする。
「……お前、あいつとどんな感じなんだよ」
 恋愛事なんかに現を抜かす人間とは愚か者でしかない、と俺は思ってしまう。そう思ってしまう原因となる部分については考えたくもないものの、それでも実際にそうした確証を得た経験があるからこそ、俺は人とのそういったもめごとに関わることに対して憂いしか抱かない。そして、そんなことに甘んじる環境にいるすべての人間をくだらない、と思ってしまう。
 恋愛とは精神病の一種だ、と語るものもいる。誰がそういったのかはわからない、何かしらの作品、もしくはフィクションでなぞったものなのかもしれないが、俺はそんな言葉を信用している。疑いしか持てない世界の中で、確かな事実として俺は意識に反芻している。
 だから、俺は人を信じない。人との関係性を持つことはない。そこから進展させることもしない。俺は唯一行動の中に含むとするのであれば、それは停滞と後退であり、深くかかわることを俺は絶対に選択したくないのだ。
「は?」と俺は息を吐いていた。あまりにも唐突過ぎる赤座の言葉に対して、俺はそんな反応をすることしかできなかった。声を出した後、取り繕うように咳ばらいを何度か行い、それでも拭うことのできなかった気持ちを「はい?」と切り替えて吐き出すことで、自身の行いを修正することんした。
「……いや、だから。お前、あいつとはどんな感じなんだよ」
「……あいつって誰のことです?」
 いまいち、俺はその言葉の意味をとらえることができなかった。
 人間関係を狭めるように暮らしている中で、頭の中にちらつくような人を俺は心の中に取り留めていない。大概のことを面倒くさいと定義して、そのうえで行動しているのだから、本当に主要としてかかわる人間だけを頭の中に入れて、そうして行動を繰り返している。そのうえで、赤座と関わっている人間の顔を思い出すことはできなかった。
 あいつ、と赤座は言った。それに該当する人は誰だろうか、と思った。
 常法寺ではないはずだった。常法寺のことであるのなら、この話を始める前の段階で、何かしら赤座は俺に向けて呟いていたはずだった。そして、常法寺という人間に対して『どんな感じか』と聞かれることはないと思う。いや、なんとなくでしかないけれど。
 そこで俺は彼の瞳を覗いてみた。いつも視線を合わせることにためらいが生まれるけれど、今日に関しては芯を覗くようにした。瞳を覗く際に、少し紅潮し始めている彼の顔が視界の中に入る。これは部屋の中にある暑さに閉ざされているだけが原因ではないと思った。
「……もしかして」と俺は言葉を吐く。
 思い当たる節はあった。主要とされていない人物に数えていて、特にこれからも関わる形にはならないだろうと俺は思っている人。それも今日の朝に話したくらいでしかない人間が、俺の中に思い浮かんだ。
「……」
 なにか赤座の言葉に確証をつかめるように、彼女の名前を思い出そうとするのだが、どうでもいい、という枠に分類された人のことを思い出すことはできない。明日くらいに何かの約束をしたけれど、名前など憶えていなくとも生活することはできるのだから、結局彼女の名前を忘れていることも仕方がないと思う。
「……ヒロミだよ」
「……あー」
 俺は赤座からの言葉を聞いて、ようやく合致した。名前と顔、そしてどんな性格をしているのか、という詳細な部分が一瞬で頭の中に書き起こされた。
「……」
 ……でも、だから? という言葉しか生まれない。
 ヒロミ、という女の先輩と話したのは今日が初めてでしかないし、それ以上に『どんな感じ』と聞かれても、こんな感じ、としか答えようがない。俺は彼女との進展など考えてもいないし、これまでもこれからもどうでもいい人間としての枠で扱い続けるだろう。
「お前、あいつとどうなんだよ……」
「……いや、ええと、その」
「おい、言いよどんでしまうくらいになんかあるのかよ?!」
「いや、違くて。そもそもなんていえばいいのかわからないと言いますか、そもそも関係がないと言いますか……」
「関係?! 関係って言ったか?! まさか肉体的な──」
「──違う違う、全然違う、違、……いますよ。そうじゃなくて、俺、……じゃなくて僕は、あの人のこと知らなかったし、なんなら今日初めてしゃべったくらいなので」
 俺の言葉に赤座は、はあ? とあからさまに憤りを含めるような声を返した。
「だったら朝のやつは何なんだよ」
「……朝のやつ?」
 ずっと赤座の行っている意味が分からないし、彼がここまで興奮していることにも理解は示せない。何をどうしてそんな風に俺を問い詰めているのか、そして思い当たる節がないからこそ、どう対応すればいいのか俺にはわからない。
「ほらあれだよ、なんか明日の放課後にデート行くとか、そんな話をしてたじゃないか」
「……」
 そんな約束してねえよ。
 はっきりとそんな言葉を返しそうになるが、後輩という手前、そして距離感を保つという手前、そんな言葉を返すことは踏みとどまった。
「確かに、放課後に時間があるか、とは聞かれましたけど、デートとか云々の話にはなってませんよ……。なんか生徒会室に呼ばれはしましたけど……」
「いや、それもう確実にデートの──」
「──ねえよ。……じゃなくて、ないですよ」
 衝動的に突っ込んでしまう。自分も自分で平静ではないのかもしれない。
「まず考えてみてくださいよ。今日知り合った人をデートに誘いますか? そして、デートに誘うとして生徒会室に行きますか? よーく考えてみてくださいよ」
「そりゃあお前、一目ぼれとかしたら可能性はあるだろうよ。そして生徒会室で待ち合わせをしてからデートに行く可能性だって……」
「ない、ないですよ。それだったら校門で集まった方が一番効率がいいじゃないですか」
「馬鹿野郎! もしかしたら昇降口までのひとときを一緒に過ごしたいのかもしれないじゃないか!」
「……」
 俺はだんだんとあきれてしまって、言葉を返すのも面倒くさくなってしまった。何かしらを彼に言ったとしても、変な根拠でそれを捲られてしまうのだから、言う甲斐というものがないのだ。
「ええと。ともかく誤解がないようにシンプルに言います。そしてこれだけの話なら僕は物理室にちょっと行かなければいけないので。
 はっきり言います。ヒロミさんとはそんなことにはなっていないです」
 俺は赤座にそう言った。もうそれ以上の言葉はなにも思いつかなかった。
 俺ははっきりと言葉を吐いた。誤解などしようもないほどの一言を適切に紡いだと思う。これ以上になにか勘違いというものを生むとすれば、もうそれは俺が悪いとかそういう問題ではなく、赤座の性格の問題というか、視野の狭さというか、もしくは良識の欠如が挙げられるだろう。
 人間、そこまで安易に関係性など発展することがないのを俺はよく知っている。人の性格というものは薄っぺらいものであるからこそ、そのうえで何かしら確証を得るまで関係性は進展しない。また、進展したとしても、その薄っぺらさによって裏を見透かされ、そうして裏切られる。
 ただただそれの繰り返し。そもそもヒロミという女性が何かしら俺に対して感情を抱いているということはないし、またそこから俺が何か感情を抱くことはない。人にここまで冷め切っているのに、それが発展することなどない、と断言できる。
 でも、それは口にすることはできない。それは自分を開示することに繋がり、相手との距離を近づけることになる。自分を晒すことは何よりも怖いものであり、それを赤座に対して平気にできるほど俺は強くはない。
「わかっていただけましたか?」と俺は赤座に聞いた。しばらく呼吸をする時間だけを繰り返していて、互いに沈黙だけが耳をなぞるタイミングでそう言った。
 彼の表情はいつまでも紅潮している。なんなら身体についても硬直している。迫真の表情で俺の顔をずっと睨むように、戸惑うような視線で見つめ続けていて、俺はそれから視線を逸らした。
「ほ、本当だな? 嘘、偽りはないな?」
「ないですよ」
 そこまで疑うのであれば、もうこの際俺に問いただすような真似はやめて、直接本人に聞けば話は早いはずだ。だが、赤座にはきっとそれができないのだろう。
 俺には理解することができない人に対する好意というもの。俺が理解することを放棄してしまったもの。それを赤座は抱えているのだから、俺のように直接的な思考にはならないことを、俺はきちんと理解している。
「……そうか」
 赤座は、はー、と大きな息をついた後、安心したようにそう言った。俺はそれに呆れるような視線を向けるが、赤座はその視線を誤魔化すように見つめ返してくるので、再び俺は逸らしてしまった。
「い、いや、別に疑っていたわけじゃないんだけどさ。こういうのって万が一、とかってあるだろ? だから──」
「はいはい、わかりましたよ。今回のことは、もう俺は何も聞いていないし、していない。それでいいですか?」
「それで頼む。ルトにバレたら絶対に揶揄われるからな……」
 彼は本当に安堵した様子で息を吐く。俺はそれを見て、人とかかわることに疲れはつきものだな、と思うしかなかった。
 生徒会室の換気をようやく済ませて、部屋の中には正しい冷たさがほんのりとやってくる。カーテンを開いたことによって、窓から目を攻撃するような日射を見ながら、俺はこれからどうするべきか、ということを考えてみた。
 赤座はあの話が終わったと、一段落したというように生徒会室の空いた席に適当に座っている。そこから事務仕事を行うでもなく、ただ携帯をぽちぽちと障っているだけなので、なにか仕事をやる、ということはなさそうだった。
 ここで何か俺が仕事を始めれば、赤座に絡まれるだろう、という想像が働く。あくまで雑務の範囲内の仕事をしているだけに過ぎないが、周囲に対して八方美人のように振舞う俺の姿を、いつも赤座は尖った視線で刺してくる。なにか具体的な文句をぶつけられたことはないものの、それでも先ほどの語らいの空気から、このままいけば直接的な文句をぶつけられるのではないか、とそんな不安が過るのだ。
 ふう、と息を吐いた。しばらく生徒会室で過ごしていても、常法寺が来る様子もないし、他の生徒会の面子が来ることはない。これ以上赤座と一緒にいても、嫌な予感しかしないのだから、一度切り替えることを目的に、どこかへと足を運ぶのもいいかもしれない。
「ちょっと物理室に行ってきます」
 俺が赤座に宣言するようにそう言葉を吐くと「……うい」と携帯を見つめながら彼はそう返した。俺に対して興味を失くしたことに改めて安堵をして、俺は持ってきていた鞄を肩にかけた。
「そういやさ」
 だが、その拍子に赤座から声がかかってくる。俺はもう生徒会室の扉のほうへと向いていて、心の中で舌打ちをする。
「なんです?」と俺が赤座にそう返しながら振り向くと、彼は揶揄うようなにやけた面を浮かべていた。
「なんで物理室に行くんだ?」
「……一応、科学同好会なので」
 ──人の、こういった関心を持つ視線が、表情が俺は嫌いだ。好奇に惑わされて人に向けてはいけないものを向けている自覚を持つことはなく、上っ面でそれを浮かんで見ている、そんな遠くにも感じるような視線が嫌いだ。
「そういえば科学同好会入ってたもんな」
「……はい。今日は部長……、いや、会長に呼ばれているので」
「ほー」
 赤座はなんとも意図を掴みづらい声音でそう返しながら、やはりにやけた視線で俺を見つめてくる。
 ああ、だいたい予想がつく。この後の展開についても、子供のような悪戯心で行われる光景が、勝手に視界の中で働いていく。
 苛立ちが生まれる感覚を思い出す。胃を刺すような嗚咽を思い出す──。
「──高原はその子のこと好きなん?」
 くすぐるように、からかうように呟くそれに対して、俺はやはりな、という気持ちしか抱くことはできなかった。
 予想していた言葉通りだったから、いつもであれば過る怒りとしかいいようのない気持ちはそこまで宿ることはなかった。赤座の言葉を耳に入れた段階で思ったことは、人に対する諦めのような気持ちであり、呆れて息が漏れてしまう。それが彼に聞こえないように、口を薄く開けて吐き出したけれど、それでこの鬱憤のような気持ちが拭えるということはなかった。
「どうなんどうなん?」
 彼は何か俺の弱みを見つけたように、悪戯っぽくそんな言葉をかけてくる。
 こうした悪戯に人を巻き込むことは悪でしかない。たとえこれで答えがYESだったとしても、NOだったとしても、勝手な風評というものは生まれて、そうして好奇心が周囲を支配する。
 別に誰かが俺に対して期待を持っているわけでもなく、俺が関心を買っているということはないはずだ。もとより目立たない人間でしかないし、自分の存在など空気と同じようにしか感じていないはずなのだ。だから、ここで何を応えようと影響はないはずであり、何を言っても許されるとは思う。
 許される、というか、どうでもいいものとして扱われる。……だとしても、答えははっきりと決まっているのだが。
「そんなことはないですよ」
 ただ、それだけを吐けばいい。感情を含ませることはなく、表情ににじませる要素をなくし、淡々と言葉を紡げばいい。何かしらの反応というものがあれば、それを勝手に人は解釈するのだから、そうさせないように無機質なロボットのように吐き出す。それだけでいい。
「……」
 ──俺がそんな感情を抱くことは、もうない。
 そんなことを心の中で呟きながら、そうして俺は何事もなかったかのように鞄を持って、生徒会室から出ていった。
 後ろから声は聞こえていたかもしれない。だが、その反応をすべて無視するように、俺は前の世界にだけ意識を向けていた。生徒会室から反射するように届く夕日の視線を交わしながら、廊下の暗がりを目にする。人はこんなどうでもいいことで一喜一憂するのだから、疲れてしまって仕方ない。
 それは、俺自身でもそうだけれど。
 やはり恋愛感情というものに踊らされる人間は滑稽だ、そして愚かだ。一時の感情に流されるというのは可笑しいものとしてしか映らない。
 人は薄っぺらい。厚っぽいものは存在せず、流されるだけに流されて、そうしていつの間にか関係が終わっていくだけ。信じれば裏切られるのだから、信じなければいい。期待をするだけ苦しくなるのだから、そうなる前に疑えばいい。
 期待をするな、最後まで疑え。
 そんな座右の銘が俺の中に根付いているのは、ずっと昔からの話だった。
「結構早く来ましたね」
 俺が物理室のドアをくぐると、前方の机で遊んでいる様子の伊万里はそう呟いていた。
 彼女が遊んでいたのはニュートンのゆりかごと言われる代物であり、五つの球体をぶら下げたそれを、二個ずつ押し出してその反応を繰り返し視界に入れている。かた、かた、という物寂しい擬音だけが物理室の中を支配していて、そんな空気に間をさすように俺は息を吐いた。
「……何かあったんです?」
 不機嫌な俺の態度に、彼女はそう言葉を吐いていた。その言葉によって、いつも俺が取り繕っている仮面の一つが剥がれかけていることを認識する。
 奥の方にあるカーテンに隠れている暗い窓から、反射する自分の表情が視界に入る。あからさまに眉を傾けており、その視線は尖っている。そんな表情を浮かべていれば、伊万里が俺にその言葉を吐くことについても納得するしかない。
「……別に、何もないですよ」
 ははっ、と乾いた笑いを浮かべた。自分自身で呟いていて、嘘っぽいな、と思うしかない声だった。声音だった、言葉だった。
「そんな風には見えませんけどね」
「……そうかもしれませんが、そっとして置いてもらえると助かります」
 伊万里の言葉に無愛想に答えていく。今は取り繕うという動作をとるのも面倒くさくて、ただただため息を何度も繰り返す時間を過ごしておきたい。
 繰り返される呼吸の中、物理室の空気を肺に反芻する。それによって何が始まるわけでもないし、何かを感じ取れるわけでもない。俺は物理室の中に入って、適当に後方の席へと移動をする。前方にいる伊万里とは視線が合わないように。
 今は言葉は必要ない。ただ心を整理するための時間があればいい。いや、別にわかりきっていることだったのだから、心の整理なんて必要だっただろうか。わからない、今は疲労感としか言いようのない気持ちが心の中を埋め尽くしている。
「……そんなにため息をついちゃうと、幸せが逃げていくらしいですよ?」
 からかうような口調だと思った。俺はそれを鼻で笑った。
「幸せなんてあるんでしょうかねぇ」
 老人みたいな口調でありながら、子どもみたいに拗ねた言葉だと思った。間延びする声は少し広い物理室の中に響いていき、俺の出した声が大きいことを認識する。
「あるんじゃないですか? まあ、私は知りませんけど」
「そうですか」
 相槌を打った。そこに感情は混ざらなかった。
 感情が混ざらないまま、俺はぼんやりと窓からの世界を視界に含んでいく。夕焼けに爛れていく送電塔の影が揺れているような気がする。外から聞こえてくる音が妙にうるさい。この声は部活動に取り組んでいるものたちの掛け声だろうか。
 うるさい、うるさい、うるさい。静かにしてくれ。今はそんな場合じゃないんだよ。
 誰にも届くことはない心の声をいつも通り吐くだけ吐いて、なおさら憤りというものを積み重ねていく。
 ぎぃぃ、と何かを引きずる音が耳に届いた。その音は物理室に反響して、俺はそれに視線を向けた。視線を向ければ、椅子を片そうとしている伊万里の姿がある。
 ああ、出ていくのか、と俺は思った。不機嫌な輩がいる手前、心地のいい時間は過ごせないんだろうな、と申し訳なくなる。
 だが、彼女は俺が想像した通りのことはせず、椅子を片した後で俺の方へと視線を向けてきた。彼女に注目していた俺は自ずと視線が重なるのを感じた。
 互いに無言のままでいる。どこか駆け引きのようにも感じる時間。
 なんだろう、という気持ちはあるけれど、ただ彼女を見つめるだけで時間は過ぎていく。何が起きるのかわからないまま、彼女はただ俺の視線を見つめ返している。
 ……かと思いきや、彼女は俺の方へと歩き出していく。俺は理解ができないまま、ようやく彼女から視線を逸らした。
 俺は彼女から視線を逸らした。視線を逸らして泳がせた。何も情報を視界に入れないことを自分に約束しながら、今は心の落ち着きを取り戻そうと、適当な思考を始めることにした。
 だが、それはできなかった。
 俺が座っている後方の席に対して座るように、長テーブルを囲むようにして彼女は座る。窓辺に泳がせていた視線はどうしたって彼女の姿に吸い込まれてしまい、そうして息をすることも躊躇ってしまう。
 薄い酸素だけがこの場を包んでいる。窓の外を見る余裕がない。夕焼けgは溶けだしている日射の世界を逆光にして、物理的に暗くなっている彼女の顔が視界に入る。
「どうしたんですか?」と伊万里は聞いた。
 それは何に対してだろう、と俺は思った。ここで俺が彼女のことを見つめていることについてなのか、それとも先ほどから俺が不機嫌な様子をぶら下げていることなのか、俺にはいまいち理解することができていなかった。
「……」
 別に何も、と言いたかった。だが、それを言うのは嘘になるし、なによりも既に伊万里は何かしらを悟っている。何かが俺の身に起きたことを悟っているうえで声をかけているのだろうから、俺は言葉を返すことができなかった。
「……」
 言葉を吐くべきだろうか。何か言葉を並べるべきだろうか。だとすれば、俺は何を並べればいいのだろう。吐くべき言葉は何なのだろうか。正体のつかないそれに対して、俺は結局何をどうしたいのだろうか。
 ……そもそも、なぜ俺は彼女に対して言葉を吐くことを選択肢に入れているのだろうか。別に紡ぐ必要のない言葉群である、会話である、ここに言葉の必要性は存在せず、俺が会話をするような仲を作ることは今後もあり得ないはずだ。
 会話をすれば人の関係値は積まれていく。俺はそれをよく知っている。だからこそ、必要最低限の会話だけしか俺は用意せず、そのうえで敬語を使って距離を演出している。人なんて信頼に足りるものではなく、期待をすれば裏切られてしまうのだから。安易に人を信じて言葉を並べるようなそれは、愚か者がやるべき行為にふさわしい。
 俺はそう定義をした。定義をしたのだから、俺は愚か者になろうとはしない。自身で定めたものに値する人間だと思いたくない。だから、言葉は吐かない。それが誰であろうとも紡いではいけない。それが俺の絶対的なルールであったはずだ。
 
 だが、心は揺らいでいる。
 いつも働く防衛機制は緩んでしまっている。人に向ける視線の中で、彼女に対しては敵意を覚えることはない。期待をしない、と心の中で考え込んでいるはずなのに、それでも彼女であれば、と期待をしてしまう。
『人に期待をするなんて、そんなの疲れるだけでしょう?』
 彼女は確かにそう言っていた。夕闇さえ飾られない夜の世界の中で、あっけらかんとしたように、何事にも興味をしないというように、そのうえでそう言葉を吐いていた。
 俺と同じような気持ちを抱えていると知った。そこに共有できる何かがあると思ってしまった。
 だから、俺は心が緩んでしまっている。彼女に対してならば、きっとわかってもらえるかもしれない、とそんな期待を抱いて仕方がないのだ。
 心の中にあった人への諦観が崩れていく。彼女だけは俺のことを理解してくれるはずだ、そんな期待だけでいっぱいになる。だから、選択肢が俺の中に生まれていく。
「……俺は」
 素の自分が垣間見えそうになる。それを吐き出すべきか、理性がきちんと働いて、その先を紡ぐことに抵抗を示している。
 うっ、と嗚咽が混じりそうになる感覚。もう人のことなんて二度と信じないと、そう決めたはずなのに。そのうえで言葉を吐こうとしている自分が愚か者に見えてしまって仕方がない。
 いや、そうじゃない。それだけじゃない。
 もし、これで期待を裏切られたらどうしよう、そんな子供みたいな気持ちになってしまうのだ。純粋に裏切られることへの恐怖心でいっぱいになる。
 俺が彼女に期待をしているから、彼女ならば裏切ることはないだろうという確信めいた錯覚があるから。
 俺と何かを共有する彼女がいると思うからこそ、俺はどうしようもない気持ちに包まれてしまうのだ。
「人が嫌いだ」
 人が嫌いだ、人が嫌いでしかない。その感情が切り替わることはない。俺は社会から逸脱している。氷塊のように存在する社会から解け落ちた存在だとしか、自分のことを認識することができない。
 人を信じることができない、人に期待をすることが怖くて仕方がない。だから、俺は人との距離を演出して、その距離感の中でどうにか社会という枠組みにそれとなく参加しようとしている。
 世界は人と一緒にしか生きていけない。孤独に生きることなど無理に等しい。俺がそうだった、過去の俺がそうだった。だから、それは絶対的な真実のように俺の意識を苛んでいく。
「憶測を語るだけのやつが嫌いだ。憶測を語りそれを信じるようなやつが嫌いだ。根拠なんてないのに思い付きだけでそう考えるやつらが大っ嫌いだ」
 勝手に真実を作り上げるやつが嫌いだ。憶測を根拠とするように、それを絶対だと信じる人間が嫌いだ。そのうえではやし立てるやつが嫌いでしかない。
「勝手にはやし立ててくるやつが嫌いだ、そのうえで抵抗をすれば
不機嫌な顔をするやつが嫌いだ。全部身勝手すぎるんだよ。勝手に憶測をこちらになすりつけて、そうでないと反論をすれば、不機嫌な顔を浮かべるんだよ。それが嫌いでしょうがないんだ」
 言葉は、止まらなくなっていった。
「今日だってそうだった。憶測を勝手になすりつけられた。弱みを握ったかのような表情で俺を見つめてくるやつがいた。俺はそれに否定をした。否定するしかないだろ? 憶測に俺だけがいればまだしも、誰かを混じらせて言葉を吐いてくるんだ、否定するしかないだろう。だが、それを肯定しても否定しても、結局勝手に俺の感情を悟ったように解釈をするんだ。それが鬱陶しい、気持ちが悪い、吐き気を覚えるほどに」
「……」
 伊万里は俺の言葉を声を出さないまま、静かにうなずいていた。
 彼女の瞳は俺の芯を見抜くようにしていた。俺は彼女の丸い瞳に飲み込まれるようにしながら、淡々と言葉を吐きだす作業を繰り返している。
「なんで人と関わるとそんなものがついて回るんだ。嘘でしかない虚構を信じるような真似をするんだ。真実かのように振舞うんだ。肯定をしても否定をしても、勝手に正解を得たようににやけた面を浮かべるのはなんでだ?」
 呆然と吐き続ける言葉に疲れてしまった。久しぶりにもならないかもしれない真の言葉を吐きだして、顔に熱が上るのを感じる。
 はあ、はあ、と繰り返して呼吸をして、俺は話を終えたことを示すように下を向いた。彼女の方へと視線を向けることはできなかった。彼女の表情を見ることが怖く感じた。恥ずかしさもあった。唐突に、こんな風に自分の気持ちを率直に話すことに対して、どれだけ俺が伊万里に期待を寄せているか、と悟られていそうで嫌だった。
「具体的には何があったんですか」
「……」
 吐くべき言葉をためらった。きっとどうしようもない他人とのことであれば、容易く言葉を吐けただろうが、目の前の当人が少しでも巻き込まれている状況を詳細に紡ぐことは抵抗があった。
 でも、この期に及んで言葉を躱すことに抵抗があった。
「……伊万里との関係を疑われた」
 赤座にとって、それが一瞬の悪戯でしかなかったとしても。ただの揶揄う目的でしかなかったとしても。それでも気持ち悪さを抱かずにはいられなかった。
 ──あの好奇心で包んでくる視線を、思い出してしまいそうだったから。
「なる、ほど」
 ふむふむ、と咀嚼をしたように彼女は頷き続けている。俺は未だに彼女の表情を見ることができなくて、ただ視界の中に入る握りこぶしに力が更に入ってしまうのをぼうっと見つめることしかできない。
「それじゃあ──」
 そうして伊万里は言葉を吐いた。くすぐるような声音。悪戯をするみたいな声音。でも、それは俺を対象にしたものではなく、まるで世界に悪巧みを働くような──。
「──付き合っちゃいましょうか」
 くすくすと言う彼女の言葉に、俺は唖然とした表情を返すことしかできなかった。
 彼女の世界に悪戯をするような態度、その提案に、俺は理解を示すことができなかった。
 唖然としてしまった。何をどう考えたらそんな結論に至ってしまうのか、どうして彼女がそんなことを提案したのか、すべての意味合いを捉えられずにいた。
 息を呑み込むことができず、戸惑った呼吸を繰り返して、は? とだけ返してしまう。威圧するようにしか感じられない返事であることに気づいた後、俺は自身の行いに対して嫌気がさした。
「別に本気で付き合おうだなんて思ってませんよ?」
 そんな俺を見てのことだろうか、伊万里は言い訳をするように……、いや、単純に理由を言葉で並べていく。
「私はある意味で高原くんという人間を信用しています。昨日も言いましたね、ほら、公園で。あなたが私に対して、そしていろいろな人に対して距離感を演出する敬語を使ってくれる、そんな振る舞いを私は信用しています。私も同様の部分はありますからね。……根っこから敬語しか取り繕えないというのもありますが」
 伊万里は苦笑しながら言葉を呟いていく。昨日の夜の風景が頭の中にぼうっと浮かび上がってくる。彼女の台詞、街灯の中に隠れている覚束ない足元、滑り台を背景にしながら彼女が紡いだ言葉のそれぞれを思い出して、確かにそんなことを言っていた、と思った。
「だからって、どうしてそんな結論になる?」
 敬語を取り繕うのもできなくなって、俺は素の態度でそんなことを聞いていた。この際、彼女に対して敬語を使うとか使わないだとか、そんなことはもうどうだっていい。どうしてその発想に至って、それを俺に対して提案したのか、ということだけしか気になっては来ない。
「そうですね。その場のノリというやつでしょうか?」
「……」
「じょ、冗談です冗談です。そんな怖い目で見てこないでください」
 半分くらいは冗談です、と付け加えながら彼女は離し続ける。
「正直、私たちの関係性ってなんなんだろう、って思ったんですよ」
「……関係性?」
「はい、関係性です」
 彼女の言葉を咀嚼しながら、そのうえで俺は頭の中で思考を回す。
 友達、ではない。知人以上の関係であると認めたい自分もいるが、そうすることは理性が許してはくれない。部活仲間、というのであればそうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。実際に俺たちの関係なんてよくわからない形にもなっていないものかもしれない。
「どうです? 何かいい言葉で表現できそうですか?」
「……難しいな」
「でしょ? 私も実際にどのような言葉を使って表現すればいいのかはわかりません。難しいんですよ、私たちの場合。知人という枠にはすでに収まっていないような気がしますが、かといって友達というものでもないと思います。同じ同好会の人間ではありますが、それ以外にも共通する部分はありますよね。でも、それに対する表現されるべき関係性って、今のところ思いつかないんですよ」
「……はあ」
 俺が返事にもならない息を吐くと、彼女は逆光の中に包まれたまま、くすっと笑っていく。彼女の顔が見えないはずなのに、それでも心をくすぐられるような笑みを浮かべていると思った。
「だから、関係性を具体的に定義すればいいんです」
 定義、と彼女は言った。俺はその言葉をオウム返ししながら、彼女の話の続きを待った。
「きっと当人同士でもわからない関係性なんて、他人から見ればもっとわかりませんよ。それによって揶揄われるというのも仕方ない部分があると思うんです。そこではっきりと形を示すことができれば、私たちの関係性のあやふやさも解決しますし、他人から揶揄われるようなことがあっても対処ができるんです。ほら、選択肢にYESが加わるだけで結構楽じゃありません?」
「……だから、付き合うっていうのか?」
「だから言っているじゃないですか。本気で付き合おうだなんて考えていません」
 彼女は、ふう、と息を吐くと、少し空気をためるようにしながら言葉を紡いでいく。
「これは契約です。契約でしかありません。私は高原くんを信用しているからこそ持ち掛ける契約です。あなたならば本気にしないことをわかっているし、私も本気になれないことを理解して提案できます。これはただの契約の関係でいいんです」
 契約、という言葉を強調して彼女は語る。俺にはその言葉の意味が適切に理解できた。
「……俺にはメリットがあるかもしれないが、伊万里は?」
「……正直に言うと、昼休みとか放課後に物理室に行くと、揶揄うような視線で見られるのが鬱陶しい、というのが私にもあったりします。まだ変にいじられるような声が飛んでくることはありませんが、そのうちそんな声掛けが届きそうで……」
 他学年の人間から俺は突っ込まれたのだから、同学年の人間からすれば、格好の話題のネタになるのだろう。なんとなく想像は難くない。
「……あと、さらに正直言うと、彼氏彼女、という関係性がどんなものなのかを経験してみたい、っていうのもあります」
「……」
 なるほど? と俺は返しながら、彼女との契約を頭の中で整理をする。
 きっと、これからも赤座との一件のようなことは起こりうるのかもしれない。誰も俺に対して興味はない、とは思いつつも、それでも触れられるタイミングというものがあったら、きっと誰かはそれに触れてくるのだろう。
 そのための対処、というのであれば都合がいい。もし、突かれるようなことがあれば、そこに感情を含まずに答えられることができれば、このように憤りに似た気持ちを抱くこともなくなってくる。
 なにより、契約の関係性ということを踏まえれば、どこか心地がいい。終わりがはっきりしているからこそ、そこに期待というものは抱かないし、互いが互いに利用し利用される関係性に文句は生まれない。
「いいよ、わかった。契約する」
「なんかそこだけ切り取ると中二病くさいですね……」
「……お前が言ったんだろうに」
 はあ、と俺はため息をつきながら、彼女に呆れるようにそう言った。
 でも、心なしか先ほどよりも精神衛生的な部分では比較的まとまっているような気がしている。気がするだけで、実際にまた赤座と会話をすれば綻んでしまうかもしれないが。
「よし、それじゃあ契約成立ということで──」
 伊万里は逆光の中で背を伸ばしながら、くー、と息を吐く。
「──よろしくお願いします、たかは……、……いや、この場合って下の名前で呼んだ方がいいんですかね?」
「別に呼びやすい方でいいんじゃないか?」
「じゃあ、ええと。……高原くんで。ところで下の名前ってなんでしたっけ?」
「……」
 こいつ、俺の下の名前を憶えていないんだな。
 そんな事実に俺は、確かにこれは契約上の関係だ、と思って笑みを浮かべた。
「ちなみに言うほど彼氏彼女の関係性って良くないもんだからな」
「そうなんですか? ……翔也くん」
「……やっぱり高原で頼むわ京子ちゃん」
「……お互い、苗字で呼ぶのが無難ですかね、……翔くん」
「そうだな京ちゃん」
「……そろそろやめてください、翔也、……くん」
「了解です、……京子」
 ……そんな名前を呼ぶだけの遊びで俺たちはしばらく時間を潰した。
 ちなみに最終的に負けたのは伊万里であった。
 くだらない遊びに時間を費やした後、俺たちは取り決めのようなものを行った。彼氏彼女という関係性を偽るうえで取り決めは必要だったと思う。だが、伊万里との間で行う取り決めや約束事、その他に設定などについても事細かく決めようとしてきたから、飛躍をし過ぎないように、互いのことだけに視野を狭めて、そのうえで契約を決めた。
 端的な決まり事としてはこうである。
 ひとつ、互いにこの関係を本気にはしないこと。
 これは一番最初に決まっていた約束である。そもそも言葉にせずともお互いに理解していた箇所ではあるため、改めて彼女が口にした後、俺は笑ってしまった。だが、これに関しては契約の前提にもなる部分であるため、きちんと絶対的な約束として俺たちの間に刻まれた。
 ふたつめ、互いが互いを利用すること。
 これは契約という関係上、そこに感情は介在してはいけない。迷惑を掛けたら申し訳ない、頼みづらいという案件があっても遠慮なく利用をすること。すごく些細なことであったとしても、人から自分を遠ざけるためならば互いに名前を出し合ってもいいこと。これをふたつめの条件として定めた。
 具体的に言うのであれば、もし俺が生徒会などの仕事で呼び出されているときに「伊万里と約束がある」という発してもいい権利を持つことだ。これは極端な例でしかないけれど、例えその場、その状況時点で彼女と約束をしていなくても、それでも嘘をついてよい。そんなことを俺たちは定めた。
「……それだったら、互いに利用している、という状況確認も必要になるんじゃないですか?」
「いまさらの敬語ですね。でも、まあ、確かにそうですね」
 という会話の流れで生まれたのが三つ目である。
 三つ目は、必ず毎日物理室に赴くこと。赴き、何か利用したことがあった場合には漏れがないように報告をすること。これはつじつまを合わせるために必要なことであり、きちんとしなければ破綻してしまう、ということで取り決められたことだった。
 俺は携帯を持っておらず、今後も持つ予定はない。そして伊万里も同様に携帯を持っていなかったらしかった。
「家にパソコンならあるんですけどね」
「僕もですね」
「……それなら、こうしましょうか」
 週末、どうしても報告しなければいけないことがあるのであれば、パソコンのEメールを使用して連絡をすることを取り決めた。流石に休みの日にまで熱心に物理室に赴くのは違う、ということでこんなふうに定まっていった。
「決めることとしてはこんなものでよさそうですかね」
「僕もそう思います。また、追加するべき懸念事項が生まれたら、その時に相談する、という形で」
「そうですね、そうしましょっか」
 そうして、俺たちの恋人とされる関係性においての取り決めは終了した。
 だいたい話すべきことはまとまって、そろそろ生徒会室に行かなければ文句を言われるくらいの時間帯になっていた。それに気づいた後、俺は夕焼けが沈みそうになっている景色を見つめながら、生徒会室に赴く準備を始める。
 そんな時、「翔也くん」と声が聞こえた。
 こそばゆい感覚がして、一瞬で頭を掻きむしりたくなる衝動。それをこらえながら、はい? と返事をしながら意地悪をするように「なんですか京ちゃん」と呟いてみる。
 けれど、その意地悪の甲斐はないみたいで、片付ける俺の様子を視界にとどめるように、まっすぐとした視線を俺に向けてくる彼女がいる。俺はそれに視線を合わせた。
「これで頑張れそうですか?」と伊万里は言った。
「これで、少しはましになりましたか? なんとかなりそうですか?」
「……はい、意外と」
 実際、彼女と話してから心内環境には整理がついたような気がする。
 ただ、彼女が唐突につぶやいた事項に、そして関係性の取り決めに度肝を抜かれた、もしくは牙を抜かれた、というだけかもしれないけれど、それでも今は落ち着いている自分がいる。
「それならよかったです」
 彼女は朗らかな笑顔を浮かべて、そう言った。俺も彼女に対して作り笑いではない、自然とした笑顔を浮かべる。
 きっと浮かべることができたと思う。
 俺は物理室から出た後、そのまま生徒会室のほうへと足を運ぼうとした。夕焼け以上の深みのある暗い空を眺めながら、誰かに仕事を押し付けている可能性を考慮すると申し訳なくなる。そして、申し訳なさを他人に抱けてるほどに余裕のある自分の精神状況に、あからさまに変わりすぎているな、と苦笑してしまいそうになる。
 特別教室棟と普通教室棟をつなぐ渡り廊下を歩きながら、ガラスを通して見える生徒会室を覗いてみる。明かりはついていて、誰かが作業をしているようだった。それはルトかもしれないし、赤座かもしれない。それ以外の生徒会の面子が来る、ということはないだろうし、来たとしてもヒロミと呼ばれているあの女の線@愛くらいだろうか。
 ふう、と俺は立ち止まって息を吐いた。
 少し心が綻んでいる。そうであるのならば、外面くらいは取り繕わなければいけない。切り替えるように仮面をつけなければいけない、そうすることを俺は選択し続けなければ──。
『──これで頑張れそうですか?』
 ──途端に心に過る彼女の言葉。
『これで、少しはましになりましたか? なんとかなりそうですか?』
 ああ、そうだ、と思った。
 たまには気が抜けるくらいの頑張りを見せてやろう。そんな気持ちが生まれて、俺は足取りがなおさら軽くのを感じた。
「──おっ、高原じゃん」
 ──そんなタイミングで、目の前を常法寺が通るのだけど。
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野崎抹茶ラテ
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「手向けに花を献ぐ」という現代ドラマの長編を書く 二章開始から
初公開日: 2024年12月21日
最終更新日: 2024年12月29日
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