――瞬間、目の前に壁があった。ざらついた感触の、アスファルトの壁だ。何が起こったのかわからない。全身が動けない。いや、細かく震えている。
 ようやく自分が地面に倒れているということに気づく。そして、頭の中は自分の周りを取り囲む声と音でいっぱいになっていた。距離に関係なく、物音、人の声、鳥の鳴き声、そして自分の胸の奥で明らかに異常な速さで鳴り響いている自分の心臓の音が充満していき、自分の人格が頭の中から追い出されそうだ。
 異常な鼓動を打つ心臓に肺が圧迫され、まともに呼吸ができない。眼の前が霞んでくる。どうして? どうしてだろう? ついさっきまでうまくいっていたのに。近所を歩くこともコンビニに買い物に行くこともできるようになったのに。もうこれで、お父さんに心配をかけることもなくなると思っていたのに。
 その疑問に答えるものは、もちろんだれもいなかった。
「結論から言います。ヘッドホンの性能には問題はありませんでした」
「じゃ、じゃあ娘が倒れた原因は……?」
 ベッドの中で、少女は黒川医師と父の話を聞いていた。黒川医師と向かい合っている父の姿は背中しか見えなかったが、その表情ははっきりとわかった。
 黒川医師は少し間を置いてから言った。
「娘さんの症状が進行しているのです。今までは外出を控えており、また外出の頻度が多くなってからもその範囲を抑えていたこと……そして外出の際には必ずこのヘッドホンを装着していたことが、逆に症状の進行の遅れにつながってしまいました」
「そんな……」
 肩越しに見える父の顔は青ざめていた。
「じゃあ娘の症状は、いずれはヘッドホンでも抑えきれないようになってしまう……ということですか」
 黒川医師は答えなかった。それが答えだった。
「それじゃあ娘は、また家から一歩も出られない生活に……? せっかくここまで外出できるようになったのに……」
 顔を覆った両手の隙間から漏れる父の弱々しい吐息に、心臓が握りつぶされるようだった。ろくに力が入らない手をなんとか動かし、シーツを頭の上まで引き上げた。なにも見たくないし何も聞きたくなかった。自分は分厚い麻袋を頭からかぶっていて、なにも見えず何も聞こえないと思い込もうとした。
 しかし、いくらシーツを被っていても、そこにある重苦しい沈黙からは逃れられなかった。顔を枕に押し付けて、喉の奥からせり上がってくる嗚咽を父に悟られないようにするだけで精一杯だった。
 永遠とも思える沈黙の中、先に口を開いたのは黒川医師だった。
「娘さんは、一種のバロックだと推定されます」
「……っ!」
 シーツの中で肩が跳ねるのを抑えられなかった。動揺を父に知られたくないという考えよりも先に、不安と恐怖がすさまじい速さで足元から這い上ってくる感触がはっきりわかった。
 バロック。
 テレビや新聞をはじめとするメディアでさかんに喧伝されていたものの、どこか遠い世界の話だと思っていた。
 これまでの精神疾患とは異なる、明確な妄想を持った者たち。では、自分の子の不安や恐怖や苦痛も、妄想の産物なのか?
 父がどんな表情をしているのかを確かめようとすることはもうできなかった。シーツの中で耳をふさぐ。しかし、父と黒川医師の会話は不自然なくらいはっきり聞こえてきた。
「以前、私が娘さんと同じような少年少女がたくさんいるとお話したことは覚えていますか?」
 父は黙って俯いたままだった。黒川医師は続ける。
「このコクマ記念病院が、国内最大手の製薬会社であるケテル製薬によって運営されていることはご存知ですね? そのケテル製薬は、ある組織の抱える企業のひとつなのです」
「ある、組織……?」
「その組織は、一般社会に露出をほとんどしていません。しかし、いち早くバロックの存在を察知したその組織は、莫大な資金力と政界にもつながる影響力を利用して、バロックの原因とその解明、治療を行っているのです」
 「治療」という言葉に、父は顔を上げた。
「治療のためには情報が必要です。その組織では、バロックであると判断された人々を検査し、さまざまな情報を集めているのです」
 その話を、父はどんな気持ちで聞いていたのか、少女には見えていなかった。けれど、父にも少女にも、もうすがるものがなかった。
 すがるものを失った者は、目の前に垂らされた蜘蛛の糸にすがるしかない。
 選択肢はなかった。
 その数日後、少女と父は黒川医師に案内され、その組織に入っていた。
 組織の名は、「マルクト教団」といった。
 少女が収容された医療施設。そこが彼女にとっての新しい箱庭となった。
 不思議な場所だった。
 行き交う人々が白衣を着ているのは病院と同じ。しかしその背中には、大小さまざまな大きさの白い翼を背負っている。まるで天使の姿。
 初めてこの光景を見たとき、少女は本気で自分はすでに死んでいて、天国に来たのだと思ったほどだ。
 この医療施設は、「マルクト教団」と呼ばれる宗教組織の本部の地下にあるらしい。マルクト教団では、だれもがこの白い翼を背負っているらしい。
 この非現実的な光景の中にいると、だんだん現実と妄想の境目がわからなくなってくる。自分を苦しめているこの不可解な症状は本当に現実なのだろうか。それとも、これが自分の本当の姿なのだろうか。
 少女は以前と同じように、常にヘッドホンを着けて生活していた。収容された病室からは殆ど出ない。外出を考えられないほどに、少女の心身は衰弱していた。
 彼女の症状――黒川医師によればバロック――は変わらず彼女を苦しめていた。
 ヘッドホンを着けていても、遠くに火事の熾火が見えるように人の声や視線が感じられる。他人の存在を意識すること自体が、苦しみの原因となっていた。
 控えめなノックの音が、彼女の意識を現実の水面へと引き上げる。
 入ってきた父の顔は、いつも泣きそうな顔だった。こんな父の顔を見るのは、とても辛い。
 大丈夫か、具合はどうだ、そう聞いてくる父にかろうじて頷きながら、少女は失われていく現実感と反比例する痛みに耐えていた。
 罪悪感だった。
 茫洋とする現実感の中で、天使の姿をした現実感の薄い生活の中で、それだけが残酷なほど明瞭だった。
 父はこの医療施設に寝泊まりしているらしい。では自宅はどうしたのか、仕事はどうしたのか、そうしたことも頭の中で考えようとするたびにほぐれ、形をなくしていった。
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