温かい布団の中にいるはずなのに、冷気を伴った不安が体の内側から込み上げてくるようだ。その不安をこらえながら、少女は思った。
やはり、このままでいることはできない。
翌朝、父に思い切って外に出る訓練をしたいことを打ち明けると、一瞬泣き出すのかと思うくらい不安そうな顔をした。
どのくらいの頻度で外出するのか、自分はついていかなくても大丈夫なのか、その前に先生に判断を仰いでみたほうがいいのではないかなど、父は不安を紛らわせようとするかのようにまくしたてたが、決して「外に出るな」とは言わなかったのが、少女にはありがたかった。
いつもの定期検査の際に、黒川医師にそのことを相談すると、同意してくれたうえで続けた。
「実は、娘さんと同じような症状の人たちのために我々が開発しているヘッドホン型防音装置があります。これを装着すれば、少なくとも何も着けていない状態よりも周囲の声や音に対する過敏な反応を抑えられるでしょう」
そう言って黒川医師が持ってきたのは、一見どこにでもある大型のヘッドホンだった。被ってみると、たしかに周囲の音が抑えられて多少なりとも不安感が軽くなった。
それに、両耳をヘッドホンのパッドが覆っているとまるで外界から遮断されているようで、うまく外の環境と距離を取れている気持ちになれた。
「そのヘッドホンはまだ開発されて間がないので、今までのように娘さんの状況を確認しながら改良を加えていく予定です。改良を重ねていけば量産もできるようになり、量産ができるようになればより多くの同じ症状を抱えている人々を救うことにもつながるのです。ですので、こちらとしてもぜひご協力をお願いしたい」
自分の他に同じ症状を抱えている人々がいるということは知らなかったし、コクマ記念病院に通う際にも父以外の人間とはなるべく視線を合わせたことがなかった。また、この症状のために待合室を通さず診察室へ向かっていたので、この病院にどんな人が通っているかも見たことがない。
だが、自分がこのヘッドホンを使って改良に協力すれば、顔も知らない同じ症状を抱えている人々の助けになれるというのは、とてもいいことだと少女は思った。
「お父さん、わ、私、やるよ。少しでも外に出られるようになって、お父さんに迷惑かけないようになりたい」
そう言うと、父はやはり泣きそうな顔をした。でも、そのあとで「お前はいい子だなあ」と、小さな子供にするように頭を撫でてくれた。
人前でそんなことをされたのはずいぶん久しぶりで、少女は思わず顔を真っ赤にしてしまった。
病院からもらってきたヘッドホンを着け、パーカーを目深にかぶり、マスクを着ける。耳と目を覆い隠していると、家の外に出ているのに自分が隠れられている感じがあって、多少安心する。
「ほ、本当に付き添わなくても大丈夫なのか?」
玄関で心配そうにしている父のほうが今にもその場に倒れてしまいそうで、少女はマスクの中で少しだけ笑った。
「大丈夫だよ、お父さん。家の近くを少し歩いてくるだけだから」。それに、このヘッドホンもあるんだし」
コクマ記念病院からもらってきたヘッドホンは、すでに数回の改良を経ていた。ヘッドホンを着けて外出するのは初めてだったが、このヘッドホンを着けていると安心する。この状態なら少しずつ外出する範囲や距離を伸ばして行くことができそうだ。
玄関に座って、もう何十年も履いていなかった気がするスニーカーに足を通す。学校に行くのに履いていたスニーカーはきれいに磨かれていて、少女は涙が出そうになった。
袖で涙を拭い、顔を上げる。玄関のくもりガラスの向こうには、この1年間足を踏み入れていなかった外の世界が広がっている。
肩越しに振り返ると、父は相変わらず心配そうな顔をしていたが、もう何も言わなかった。
水中に深く潜る前のように、少女は深く息を吸い込み、玄関のドアに手をかけた。
目をぎゅっとつぶり、そのままドアを開ける。
最後にもう一度肩越しに後ろを振り返って、なんとか「行ってきます」を言えた。
一歩を踏み出して、まだ残っている不安を断ち切るために後ろ手でドアを閉める。
つぶっていた目をおそるおそる開ける。ずいぶん長い間直接浴びていなかった太陽の光が、沁みるように暖かい。
後ろを振り返ると、そこには自分が生まれ育った家があった。どこにでもあるような一戸建ての家。そこは、少女にとってほんのついさっきまで世界の全てだった場所。
自分の部屋に閉じこもっていた間に読んでいた本で覚えた、「箱庭」という言葉が脳裏に浮かんだ。箱。そう、自分の世界の全ては、今までこの箱の中だったのだ。
外を見る。
家の前の道は自動車が行き交い、通行人がいる。人の話し声が聞こえる。
一瞬、このままドアを開けて家に飛び込みたい衝動に駆られ、スニーカーの足裏が地面から浮きかけた。
――ダメだ!
少女は勇気を振り絞ってその一歩が向かう方向を外側に切り替えた。
通行人が途切れたのを見計らって、駆け出すように足早に道に出た。動悸が早まる。しかし、ヘッドホンやパーカーのおかげか、以前のような異常は起こらない。パーカーとマスクで隠れていない目元だけでゆっくりと周囲を見回す。異常は――やはり起こらない。
まるで、かくれんぼをしているような気分になった。こちらからは見えているが、向こうは気づいていない。気にしていない。
分厚い麻袋をかぶっている自分を想像する。顔も体もすっかり隠れていて、目のところにだけ穴が空いている。