「じゃあ、お風呂一緒に入ろうね~」
二会敷の当然のような言葉に、所は青ざめた。両手を失っている彼は、義手により生きている。木と機械によって出来た第二の腕は、神経回路を再現し、リハビリ回数を最小限に抑えて所の思考を正確に伝達する高性能なものだ。だがそのような精密機器が、水周りに弱いのは事実である。
さらに言えば、手がないことへの不便さは日常生活でついてまわった。排泄、食事などの命に関わるものもあれば、髪が洗えないという衛生観念にまつわるものもある。前述の行為をするのに、所は誰かの介助が必要不可欠であった。しかし所の義手には防水カバーを付けられるから、一人でもなんとか行えるようになっている。義手の製作者である二会敷が、その機能を理解していないはずがない。だが彼は、この同居生活に当たって何故か所の頭を洗う気でいるようである。それは断ろうと思うものの、二会敷は事も無げに言った。
「だって不便でしょ」
「それは、そうだけど…」
それは反論ができないほど、不便であった。そしてその不便さを二会敷も分かっていた。所が付けている義手は、様々な性能がある中で最も安い義手を選んでいる。義手の提供も無料ではない。EDFは国税によって成り立っているので、潤沢に予算があると言えど、所にぽんと無償提供など出来ぬのである。そのような事情から、いずれEDFに支払う金額を気にしたという事もあるが、まずは他人に不便をかけることへの申し訳なさで、所は松竹梅の梅を選んだのだ。
防水カバーは軽い素材である。だが、ただでさえ重い腕にさらに防水カバー分の重みがのしかかるわけで、その腕をなんとか持ち上げながら、所は排泄やら頭を洗うというわけだ。それは筋力を必要とし、慣れるまでは非常に大変な作業である。
その苦労を思えば、確かに他人が洗ってくれるというのは魅力的であった。尊厳を失われ、申し訳なさに項垂れるということが無ければだが。所は利便性と尊厳を秤にかけていた。いい加減気持ちの良くなるシャンプーをしたい。今までは重みに耐えながら、最低限に頭皮を洗うだけという作業をこなしてきた。リンスも同様である。シャンプーの後のリンスとなると、腕がつりそうなまでの痛みに襲われて、正直ヘアケアに時間を掛けるどころではなかった。結局、二会敷の甘い言葉というものに、所は逆らいきれなかったのである。
「…じゃあ、お願いします」
「うんうん、任せてよ」
二会敷は満足げに頷く。そうして風呂の時間がやって来た。さー服脱いで、と子供にでも言うような気軽さの彼に、所はおずおずと尋ねる。
「嫌じゃないのかい…?」
「何が?」
「だって、こんな初老の人間の頭洗うの…」
「シゲさんならいいよー」
ああ、軽いなあ。所はなんだか思い煩うのをやめることにした。二会敷が気にしていないのなら、もうその言葉を信じることにしたのだ。
所は服をすべて脱ぎ終え、腰にタオルを巻く。これで手が必要な動作は終わりだ。だから次は、義手を外さねばならない。まず彼は左手で、右の義手を外した。だが、右の義手を外してしまったら、彼は左の義手を何で外すことになるのだろう。所は肘から先が無いのだから。
正解は、左腕の二の腕を顎に近付けることだった。そこに義手が取り外し出来るスイッチがある。顎でかちりと押すと、義手は力なく外れた。所にはそれを掴む手がない。だから肘から先が無い腕を必ず義手の下に置き、顔の前で腕で腕を抱きしめるようにしながら毎回着脱を行っていた。二会敷はその不便そうな行動を眺めながら言う。
「ねえランク上げたら? そしたら着脱も意識一つで出来るようになるんだけど…」
「ああ、ごめん見苦しくて。でもいいんだ。今はこれに慣れてるから」
肘から先が無くとも、所は伸ばした腕と体の間に義手を挟み、胸に押し付けて抱きかかえている。そして短い腕に抱えた義手を、洗面台のラックの上に置いた。腕が無くとも人間は工夫次第で行動できるものだ。二会敷は感心する。
「さ、入ろうか。手短に済まそうね」
所がそう言ったので、二会敷も服を脱ぐ。胸板が予想以上に厚く、少しだけ所は驚くがすぐに不自然だなと思って目線を逸らすのだった。
成人男性が二人入ってしまえば、浴室はさぞ狭いだろうと思っていた。だが所の予想に反して、人が三人程は入れそうな広さがある。洗い場は広く、浴槽は人二人が入っても問題ない。たとえば、夫婦二人に子供一人が入っても問題ないような…所はここはファミリーサイズなのだと思った。
「広い、ね」
「まあね。昔婚約者と決めたから」
「…!?」
確か二会敷は独り身だと言っていたはずだが、何か虚偽があったのかと所は思わず振り返る。婚約者がいるのなら、こんな人間を受け入れている場合ではない。だが彼は昔と言った。今は?
「えっと…今は婚約者の方は…」
「もう別の男性(ひと)と結婚して子供いるみたいだよ。たまに年賀状が来る」
「あ、ああごめんよ。デリカシーが無かったね…」
「いいよ。昔のことだし」
二会敷はこざっぱりとした言い方で何も気にしていないようだった。湯舟にはあたたかなお湯が張られていて、その湯気が身をくゆらせては天井に消えていく。せっかくのお湯が冷めるのは申し訳ないので、所は座っていいかいと尋ねる。風呂場には椅子とたらいが二つずつあった。かつての婚約者が用意したのだろうか、一人一個とは豪勢であるが、二会敷の経済状態であれば可能であったのだろうか? そんな婚約者の影が色濃く残っている中で、なんだかこの家に居ていいものかという居心地の悪さが消えない。
「前に座って。背中も洗えてないでしょ」
「あ、うん。よろしく…お願いします」
介護をされる時はこんな気持ちなのだと思いながら、伸びたシャワーヘッドからあたたかいお湯が頭に掛かった。さああと音を立てて、お湯が汚れを洗い流してくれる。所は目を閉じていた。自分ではない者からお湯を掛けられる経験は少なく、勝手がよく分からないのだ。背後で、かしゅかしゅとシャンプーがポンプから押し出されれる音がする。その泡は二会敷の手に乗り、自分の頭にぽんと置かれるのだ。泡が入る事を懸念して、所は早めに目を閉じる。数秒も待たずに大人の男性の手が、所の頭にぽんと乗った。大きな手であった。その指が髪の間にくしゃりと入り、洗おうと指を立てる。
だがその頭をぽんとする重みに、所は突然、別の人間との記憶に飛んだ。彼を殺した悪魔ーーデルウハとの記憶である。ある晩、デルウハとの性欲処理が終わり、息着く間もなくベッドで息を切らしていた時だった。汗でぐちゃぐちゃと乱れた髪を、更に乱すかのように、デルウハの大きな手がぐしゃぐしゃと乱暴に撫でてきた。だが彼からの愛情はそこになく、ただデルウハは手を動かしたいままにしたのだろう。まるで犬か何かになったかのようだと思った。愛らしく無害なものがそこにあるから撫でた。本能的にそうしたかった。それだけである。デルウハにとって所は無害なのだ。
「どうかした?」
黙りこくった所に、二会敷は声を掛ける。その両手は泡で所の頭を包んでいた。濡れた髪は想像以上にやわらかく、頭皮を撫でるようにわしゃわしゃと指を動かすと気持ちが良い。他人の頭を洗うのは思ったよりも楽しい行為だなと思っていた時に、所が必要以上に静かであることに気が付く。所は振り返りもせず、静かに口を開いた。
「…いや。なんでもないよ」
「そう?」
「気持ちいいよ。ありがとう」
口ではそう言うものの、デルウハへの記憶があまりにも色濃く身に迫っている所は、それ以上の言葉を紡げなかった。冗談めいた二会敷の言葉に、最低限のことしか返せる余裕はない。
「子供が出来たみたいだ」
「はは…介護の方が近しいよ」
「そういえば、シゲさんに聞きたかったんだけどさ」
「何?」
二会敷は専門的な言葉を口にする。所は気が紛れると思ったのか、少しほっとしながら答えた。所の頭を必要以上にわしわしと指を通らせながら、二会敷はううんと唸る。彼の思考は仕事の方に寄せてしまっているようだ、目の前の頭を洗うという行為から意識が飛んでいる。所は苦笑いしながら言った。
「二会敷くん、もう大丈夫だよ」
「あ、そうか。じゃあ背中流すよ」
「ありがとう。…君の背中も流せるようになればいいんだけどね」
「それは義手がランクアップしてからだね」
シャワーがまた所の頭に流れる。さああ、とお湯が汚れを流し去る中で、目を閉じながら所は静かに涙を流すのだった。