ひゅー、ひゅー、と近くから耳障りな音が響く。どくりどくり、無いはずの心臓が早鐘を打つ。真っ暗闇の視界の中で、右手を握れば、辛うじて硬く覚えのある感触がして、リチャードはその感覚を頼りに意識を現世へと浮上させた。霞む視界は、朧気で、視界にはノイズが掛かったように不透明だ。直近の記憶を引き出そうとしても、それを阻止するかのように頭痛が己の意識を苛む。どこからこの不愉快な音がするのかとあたりを見渡そうにも、視界は晴れない。それにどうやらこのこの雑音は己の喉から漏れ出ているものだとようやくリチャードは気が付いた。
 それでも、そんな襤褸雑巾のような己でも、ひとつだけはっきりと忘れられない存在がある。マスター、マスターだ。己の存在よりも大切な、守るべきマスターの名は。
「……ア、ヤカ」
「セイバー! セイバー……よかった、セイバー……」
 呼んだ名に応えるように、頭上から清廉な声が降ってくる。水音の滲んだそれが、己のことを『セイバー』と呼ぶ。剣士、そうだ、己は剣士であった。この女の、アヤカの ──『セイバー』だ。
「…ごほッ……アヤカ、ア、ヤカ……無事だったか、すまない……俺は、負け、たのか」
 朧気な記憶を辿れば、直前の激しい戦闘が脳裏を掠める。血がどくりどくりと湧き踊る。血液が巡る。英雄王、原初の兵器、死の騎士、数えきれないほどの名立たる敵に、叙事詩にも劣らぬ激戦であった。心躍ったのも事実だ、そうしてその結果こうしてリチャードが地に伏せているのもまた、事実なのであろう。悔しい。物凄く悔しい。力及ばなかったことも、敗北の味を覚えるのも、偽物のはらわたが煮えくり返るような激情を己にもたらす。けれども同時に、自分よりも大切で、己の願いを叶えるよりも優先したかった女の膝で二度目の死を迎えるのならば、それはもしかしたらそう悪くない結末だと笑えるのも。豹変公と呼ばれた獅子心王の背反する本心であった。
 必死に目を開け、霞む視界を瞬きを繰り返せば、なんとか淡い金髪の姿がぼんやりと映る。もっと、もっと、と目を凝らせば、澄んだ湖面のような、研がれた銀のような、リチャードの最も美しいと思う青が、潤んで、滲んで、ぼろぼろと雫を幾重にも落としている。ぽたぽたとリチャードの頬に雨を降らせるそれを止めたくて、剣を握っていないほうの腕を伸ばせば、意図が伝わったのか細い指が思いのほか強い力でリチャードの手を掴んだ。
「……君に、勝利を捧げられないことを、どうか謝らせてほしい」
「そんなことどうだっていいよ! それより、どうしたらあなたを救える? 魔力ってやつを渡せばいいの!? なんだってする、なんだってするから…!」
 私を置いていかないでよ、と女の擦れた声がする。繋がれた手に体温が伝わる。微々たるものだが、それからも魔力を感じる。それどころかアヤカから送られる魔力は十分にある。パスだって繋がっている。けれども、送り込まれる膨大な魔力を受け止めるリチャードの器に穴が空いているような状態だ。さらさら、と流れる水が穴の開いたバケツに注ぎ込まれたって意味はない。無意味に、無秩序に、アヤカの力が流れていってしまう。惜しいことだ、勿体ないことだ、耐えられないことだ。けれども、どうやら、仕方のないことでもあるらしい。アヤカの掴む己の指が、空気に溶けるようにさらさらと金の砂のような粒子へと変わっていく。潮時だろうか。己の腹からも流れていってしまう血液と魔力が、アヤカの膝を汚す。
「ぐ、……アヤカ。俺が、退去したら、教会に……」
 なんとか目の前の女に、最期の言葉を伝えようと、顔を上げようとしてリチャードは、不意に女の泣き声が止まっていることに気が付いた。先ほどまで止めどなく零れていた声が、ぴたりと止まっている。いつからか、と考えても答えはでなかった。ぽたり、と最後の雫が頬を伝う。
「……そうだ。そうだね、〝おねえちゃん〟……どうして気付かなかったんだろう。答えは最初からわかっていたのに」
「……アヤカ?」
 目が霞む。
 いよいよリチャードの霊基は耐えられないらしい。視界が、暗く、景色が歪む。暗闇が背後まで迫る。せめてこの自分が最期に見るものが、己の一等大切な、忘れえぬであろう一欠片であってほしくて、リチャードは必死でピントを合わせようと目を凝らした。
「……セイバー、私のセイバー。あなたの願いは叶うべきだ。私なんかよりも、もっと、ずっと、美しい願いだから」
「?……なにを、言って」
「だいじょうぶだよ、セイバー。やり方なら知っている」
 ──孤独と恋を同時に叶える単純は方法は、ずっと前から知っていた。
 女はそう言って、リチャードの頬を撫でた。体温すらわからなくなってしまった。感覚すら遠い。視界が霞んで、女の顔が見えない。どんな表情をしているかわからない。得も言われぬ不安に襲われて、リチャードは剣を握っていた手を放して、必死で手を伸ばす。すぐそこに居るはずの女に届かず、空を切るそれが酷く虚しい。そこに居たはずなのだ。アヤカは、そこに、居るはずなのに。何故リチャードの手はそこに届かないのだろう。何故、何故、何故!
「セイバー。私の全てを、あなたにあげる。知識も、過去も、身体も、命も、未来も」
 要らない。そんなものは要らない。全てを奪い尽くしたかったわけではない。リチャードは与えたかったのだ。この女の全てが欲しいわけではない、この女に全てを与えたかっただけなのだ。安全を、安心を、ぬくもりを、美しいものを、──愛情を。それなのに。
「だから、私を────」
 おぼえていてね。
 そういった女の顔を、終ぞリチャードは知らないままだ。
カット
Latest / 53:51
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
絶対王政の筋トレ
初公開日: 2026年08月21日
最終更新日: 2026年08月21日
ブックマーク
スキ!
コメント
貌の無い話
筋トレ
リチャードさんはリンデンバウムの葉が茂るころ、かつての母校で動物になってしまいたかった話をしてくださ…
瀬をはやみ
筋トレ
サンジェルマンさんは雲ひとつない晴れの2月の正午、美術館の飾られた絵の前で手首の骨は案外飛び出ている…
瀬をはやみ