あなたを解剖してみたい.
 「行き詰まっているの?」
 おはようと挨拶をするかのように、さらりと不躾な問い掛けをしてきたものだ。行き詰まり、息詰まっているかなどこの顔を見ればわかるだろうと竜野は相手を睨みつける。なにせ自分の眉間には皺が寄り、机の上の書類やデータとにらめっこをしていて、脳内で描いたような結果が出なかったのだ。躓く事などあってはならぬのに、躓いてしまった。その様を、誰にも見られぬよう苦心して悩んでいたのに。
 そこではたと気が付いた。ここは竜野の研究室である。侵入者があれば音で分かる。気配で分かる。それなのに、この不躾な問いをしてきた人物は、にこにこと笑っていつの間に入ってきたのだろう? 音もなく? いつの間に竜野の顔を覗き込むようにして、所長は笑っているのだろう?
 「どうしたんだい、竜野くん」
 所長は、湯気の立つマグカップを片手にそう言う。中身はコーヒーだろうか。それを自分に手渡す為に、それだけの為に音もなく侵入してきた? だがドアの開閉は音がどうやっても鳴る。集中していたとはいえ、竜野の耳はそれすらも拾わなかったというのだろうか? 疑問が次から次へと湧く中で、所長は事も無げに、どうしたのと尋ねてきた。竜野は尋ねる。
 「…てゆーか、どうやって入ったんですか。ここ僕の部屋なんですけど」
 「竜野くんが心配でね」
 回答にはなっていない。だがもう入り込んだものは仕方ないので、竜野は手を差し出した。とっとと出て行ってもらいたいのである。だからコーヒーを受け取り、所長に退散してもらおうと考えたのだ。
 「ありがとうございます。それ、差し入れでしょ」
 「え?」
 所長はきょとんとして首を傾げている。声を上げたいのは竜野の方だった。差し入れじゃないのなら、ただコーヒーを見せびらかすかのようにやって来ただけである。だが竜野が知る所長は、今までそんな奇行めいた事はやらなかった。いつも困ったように眉を下げ、的確にもの事を片付けることもあるがなあなあで済ませようとするところがあった。そんなコーヒーが飲めるようになったばかりの子供がするような事はしない。ますます竜野は混乱していた。いつもはマシンガンのように出る言葉が、詰まり気味である。
 「なん…のために来たんですか」
 「行き詰まっているの?」
 「答えになってません。そろそろ出て行ってくれません? 忙しいんですよこれでも」
 「そう」
 所長は分かったのか分からないのか、曖昧な返事をする。だが出ていく気配が無い。竜野は普段の自分のペースを保てないことに、苛立ちを募らせた。こんな課題や難題、すぐに自分なら打開策を思い付く。天才だと自認しているこの頭脳なら、すぐに新しい道が開ける。その為には、この場に所長は邪魔である。だがマイペースに所長は話しかけてくる。
 「竜野くん。イペリットの研究をしたいんでしょ」
 「そんなの、所さんならとっくに知ってますよね?」
 苛立ちを隠さずに言う。年上と目上に対する態度ではないが、今は敬意どころでないからだ。それでも所長は相好を崩さない。
 「私も、‪✕‬‪✕‪✕‬‬■&■△△…」
 「え? なんて言ったんですか、何が言いたいんですか」
 「だからね」
 肝心なところは聞こえなかった。だが所長は突然、ネクタイを解きシャツのボタンを数個はだけさせると、露わになった自分の肌に、どこから出したのか分からないメスを押し当てた。奇行であった。竜野は止める間もなく呆気にとられている。
 つうーっと銀色に光るメスが胸元の肌を引き裂き、所長は血が滲む傷口に、左右からそれぞれの手の指を簡単に差し入れる。それだけで痛そうであるのに、所長は笑顔のままだ。そして、べりりと嫌な音を立てて、中を見せるように剥がした。
 ひ、と竜野は声を漏らすが当人はお構いなしだ。にこにこと笑い、本来なら肋骨が見えて肺が見えるだろう場所なのに、そこには漆黒がある。真っ黒な穴がぽっかりと空いている。
 「解剖、してみてもいいよ」
 竜野はその言葉を聞いて、急速に目を覚ました。
 先程まで見ていた所長の奇行は、全て夢であった。飛び起きたせいでベッドに手をついているうちに、シーツの冷たさから昨夜の記憶がまざまざと蘇る。ベッドに入って眠る直前まで覚えている。そして入眠し、たった今起床したのだ。研究室に篭っていた、唸っていた事は事実ではなくただの夢である。竜野はイペリットの研究で躓いたことなどなく、昨日も発見と考察、それに伴う実験を行っている。思うようにならなかった経験は無い。だが、夢の中で、自分は確かに挫折していた。そこに所長が来て、それで。だが夢の中の所長の奇行をふと思い出し、竜野はぴんと閃いた。
 「…循環器を調べてみよう」
 イペリットの解剖など腐るほど行ってきたが、また新たな発見があるかもしれない。竜野はそんな奇妙な予感に襲われ、まるで使命であるかのようにそう思った。まだ朝である。人々が活動を始める朝である。だが竜野の頭の中では思考と実験がぐるぐると巡り、朝からフル回転であった。もしかしたらまた発見に繋がるかもしれない、そんな期待めいた予感もあった。やはり自分は天才である! もう夢のことなど忘れて、竜野は身支度をそこそこに整えると、研究室に向かうのだった。 
 「早いね、竜野くん」
 途中、研究所の施錠や検査を任されている保安部に声を掛けられる。ええもちろん、と竜野は得意げに笑うのだった。
 現実の所長と出会ったのは、研究に没頭して昼食を取り忘れ、急いで閑散としている食堂に向かった時である。粉山や顔馴染みの職員らと一緒に談笑して食堂を出たところだった。竜野は疲労よりも脳内物質が絶えずに頭を回転させているせいか、いつもより情緒が上向きだった。いつも以上に大きな声で、所長を呼び止める。
 「なんだい」
 振り返った所長は、夢の中と違って笑顔よりもどことなくきょとんとした顔だった。竜野は得意気に言う。
 「次の発表を楽しみにお待ちください」
 「はは、自信たっぷりだね。分かった、楽しみにしておこう」
 「それと、コーヒーはもう結構ですから」
 「へ?」
 所長はますますきょとんとする。だが竜野は機嫌良く、彼の横を通り抜けて行ってしまうので、真相は分からない。はて、と所長は首を傾げ、粉山にも尋ねられるが明確な答えは持ち合わせなかった。全ては竜野の夢の中の話なのである。
 「あの子も少し変わってるからねぇ」
 保護者のような顔で所長は言うのだった。
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